12 斜め向かいの距離
最近、山本さんが少し冷たい。
――いや、違う。
冷たいというより、距離がある。
正確に言えば、距離を感じるようになった。
前は、二週間に一度くらいのペースでランチに行っていた。会社から少し歩いた路地の奥にある、小さな和食屋。焼き魚とか、天ぷらとか、そういう地味だけどちゃんとおいしいご飯が出てくる店だ。
木の引き戸を開けると、ふわっと出汁の匂いがする。
あの店が、好きだった。
いや。
正確に言うなら、あの店で山本さんと食べる昼ごはんが好きだった。
山本さんは、面白いことを言う人じゃない。
どちらかというと、静かな人だ。仕事中もあまり大きな声を出さないし、雑談も多いほうじゃない。
でも、たまにぽつっと優しいことを言う。
例えば、私が魚の骨に苦戦していたとき。
「こっちから取ると外れやすいですよ」
そう言って、さりげなく皿の向きを変えてくれた。
そういうところが、好きだった。
なのに。
先月、ランチに誘ったとき。
「ごめん、今日は仕事が立て込んでて」
山本さんはそう言った。
まあ、そういう日もあるよね、と思った。
仕事だし。忙しいこともある。
でも、その次の週。
「今日はもう先に食べちゃったんだ」
さらにその次の週。
「ちょっとバタバタしてて」
理由はそれぞれ違う。
でも、共通していることが一つある。
笑ってはいるけど、目が合わない。
その瞬間、ああ、と分かった。
避けられてる。
多分。
いや、絶対。
原因は、分かっている。
あの噂だ。
あの日、和食屋で遠藤に声をかけられた。そのあと会社に戻ったら、あっという間に変な話が広がった。
朝倉は山本が好きらしい。
おじさんがギャルに迫っているらしい。
あることないこと、いろいろ。
トイレでその話を聞いたとき、思わず笑いそうになった。
いや、笑えないんだけど。
でも、あまりにも適当すぎて。
ただ、そのあと。
山本さんの様子が、少しずつ変わった。
きっと、気にしている。
山本さんは、そういう人だ。
周りの目とか、空気とか。
そういうものをすごく気にする人。
優しい人ほど、そうなる。
分かっている。
分かっているけど。
「はあ……」
思わず小さくため息が漏れた。
デスクに頬杖をつく。
斜め向かいの席。
山本さんは、今日も静かにパソコンを見ている。
背筋をまっすぐに伸ばして、真面目そうな顔で画面を見つめている。
いつも通りの姿。
でも、前とは少し違う。
前は、もっと気軽に話しかけてくれた。
私が「今日寒いですね」と言えば、
「ビル風がね」
と返してくれた。
「昨日雨すごかったですよね」と言えば、
「帰り、靴がびしょびしょになりました」
と苦笑していた。
そういう小さな会話が、自然にあった。
今は違う。
「今日寒いですね」
そう言っても、
「そうだね」
それだけ。
会話が続かない。
そこに、はっきりした距離がある。
この距離、前はなかったのに。
朝倉はそっと視線を上げた。
モニター越しに、山本の横顔が見える。
真面目そうな顔。
少しだけ疲れている顔。
でも、どこか優しい顔。
ぽつりと、心の中でつぶやく。
好きなんだけどなあ。
声には出さない。
出せるわけがない。
ああ。
せっかく、ちょっと近づいたと思ったのに。
あのランチとか、結構いい感じだったのに。
あの和食屋とか、もう三回くらい行ったのに。
全部、最初に戻っちゃったみたいだ。
いや。
もしかしたら。
最初より遠いかもしれない。
「……遠藤」
思わず小さく名前が漏れた。
隣の部署のイケメン。
今、コピー機の前で後輩と笑っている。
背が高くて、声もよく通る。周りに人が集まるタイプの男だ。
なんだかキラキラして見える。
正直、むかつく。
胸の奥から、じわっと黒いものが湧いてくる。
正直に言う。
ちょっと殺意が湧く。
あいつのせいで。
……いや。
あいつだけじゃない。
噂を面白がって広げた人たちも悪い。
でも。
でも。
山本さんは悪くない。
だから余計、どうしたらいいのか分からない。
「どうしよ」
小さくつぶやく。
誰にも聞こえない声で。
パソコンの画面に視線を戻す。
カーソルが、静かに点滅している。
資料を作らなきゃいけないのに、指が動かない。
斜め向かいの席からは、山本がキーボードを打つ音が聞こえる。
規則正しい、静かな音。
その音を聞きながら、朝倉は思う。
この距離。
どうしたら、戻るんだろう。




