11 噂の昼休み
その和食屋には、もう何度か来ている。
駅前の通りから一本、細い路地の奥にあって、昼時でも比較的静かだ。表通りの喧騒が嘘みたいに遠くなる場所で、木の引き戸を開けると、ふわりと出汁の匂いが迎えてくれる。
焼き魚定食がうまい。
味噌汁も、ちゃんと出汁の味がする。
最初はたまたまだった。
朝倉さんと昼を食べることになったとき、近くで空いていた店がここだった。ただそれだけの理由だ。
けれど、気がつけば――。
朝倉さんとのランチは、だいたいここになっていた。
「今日はサバですね」
向かいに座った朝倉さんが、メニューを見ながら言う。
「サバかあ。いいね」
「山本さん、魚好きですよね」
「年だからね」
何気なく言うと、朝倉さんが少し顔をしかめた。
「またそういうこと言う」
箸袋をいじりながら、小さくつぶやく。
俺は笑ってごまかした。
料理が来るまで、二人で他愛のない話をする。
会社のちょっとした愚痴とか。
今日はやけに寒いとか。
昨日のドラマがどうだったとか。
取り留めのない会話。
でも、こういう時間は――。
正直、嫌いじゃない。
むしろ。
「へえ」
横から声がした。
振り向くと、隣のテーブルに立っている男と目が合う。
遠藤だった。
隣の部署の社員で、三十歳くらい。背が高く、顔も整っている。社内でも女性社員の人気が高いタイプの男だ。
「山本さんと朝倉さん」
口元に笑みを浮かべている。
「面白い組み合わせですね」
軽い調子の言葉だった。
けれど、その響きの奥に、ほんの少しだけ引っかかるものがある。
悪意、と言うほどではない。
ただ、観察するような、からかうような視線。
俺はとっさに言葉が出なかった。
その一瞬の沈黙を埋めたのは、朝倉さんだった。
「私がお誘いしました」
はっきりした声だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく縮む。
しまった、と思った。
女の子に庇わせてしまった。
情けない。
本当は、俺が何か言うべきだったのに。
遠藤は少しだけ眉を上げた。
「へえ」
視線が、俺と朝倉さんの間をゆっくり行き来する。
「そうなんですね」
口元の笑みが、少しだけ濃くなる。
そのときだった。
「何か問題あります?」
朝倉さんが言った。
ぴしゃり、と。
柔らかい声なのに、そこにきれいに線が引かれるような言い方だった。
遠藤の笑みが一瞬固まる。
「いや、別に」
軽く肩をすくめた。
「お邪魔しました」
そう言って、気まずそうに店を出ていく。
店の引き戸が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
しばらく沈黙が落ちる。
味噌汁の湯気が、ゆらゆらと揺れている。
「……ごめんなさい」
朝倉さんがぽつりと言った。
「え?」
「強く言いすぎました?」
少しだけ不安そうな顔だった。
俺は首を振る。
「いや」
「むしろ助かったよ」
本当だ。
けれど、胸の奥に小さな痛みが残っている。
守られてしまった。
年下の女の子に。
それが、少しだけ情けない。
「気にしないでください」
朝倉さんはそう言って、箸を割った。
「いただきます」
俺も箸を取る。
「いただきます」
焼きサバは、相変わらずうまかった。
皮はぱりっと焼けていて、身はふっくらしている。
それなのに。
さっきのやり取りが、なんとなく頭の奥に残っていた。
午後。
会社に戻ると、空気が少し違っていることに気づいた。
最初は気のせいかと思った。
けれど違う。
視線がある。
そして、すぐに逸らされる視線。
小さな笑い声。
コピー機の前で、誰かが言う。
「聞いた?」
「うそ、ほんと?」
小声なのに、妙に耳に入る。
席に戻る途中、トイレの前で話している女子社員の声が聞こえた。
「朝倉ってさ」
「うん」
「山本さんのこと好きらしいよ」
一瞬、足が止まりそうになる。
「えー、ほんと?」
「今日もランチ一緒だったらしい」
「マジで?」
くすっと笑う声。
「おじさんキラーじゃん」
「いや逆でしょ」
もう一人が言う。
「山本さんが迫ってるんじゃない?」
「えー」
「だってさ、ギャルってそういうの狙われやすいじゃん」
胸の奥が、ずしりと重くなる。
そんなわけない。
誘っているのは――。
いや。
それを言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。
俺は何も言わず、そのまま席に戻った。
斜め向かいの席。
朝倉さんは、いつも通りパソコンに向かっている。
何も知らない顔で。
キーボードを打つ指先のネイルが、光を反射してきらりと光る。
噂は、きっともう広がっている。
俺のせいで。
胸の奥に、重たいものが落ちる。
――これは、良くない。
そう思った。




