じろさん/浪漫の行方
〈憑く物や女の髪に椿の實 涙次〉
【ⅰ】
昨日、10月1日はじろさんの誕生日(天秤坐)。彼は今年70歳になる。即ち、古希を迎へる。
じろさんはさう云ふ祝ひ事は大體愛妻・澄江さんと二人つきりで濟ます。一味のメンバー総出で、とかさう云ふ派手派手しいのはお願ひ下げなのだ。澄江さんは鰯の活きのいゝところの刺し身と、大吟醸の日本酒を用意してゐた。
乾杯! すると澄江さん、何やら目頭をナプキンで押さへている。
「何を大袈裟な」とじろさんは靜かに云つて、にこやかだ。「ご免なさい。よくも70歳迄生き拔いたものだなあ、と」-「それつて却つて不吉な物云ひぢやないか?」-「だつて、妻としては当たり前の関興よ。貴方のしてゐる仕事、振り返つてみた事ある?」-「まあさう云ひなさんな。俺は今、元氣に生きてるんだから、いゝだらう?」
【ⅱ】
二人きりで話す時、必ず澄江さんはじろさんの「危ない仕事」について愚痴をこぼす。何も、彼をこの「業界」に引き込んだカンテラに、文句を垂れる積もりはない。たゞ、(惡人とは云へ)人、や【魔】を殺める事もある、また自分の命を賭けて渡る「橋」でもある、この稼業。妻ならば、夫には出來ればさせて置きたくはなくて、当然なのだ。澄江さんは、夫の渡るその危険な橋を外してしまへない、自分の「至らなさ」について、常日頃悩んでゐて、かう云つた折節それが出て、寢付いてしまふのが持病のやうになつてゐた。いけない、と思つても、つひ内攻に内攻を重ねてしまふ。
【ⅲ】
「あれ、じろさんは?」カンテラ。-話は今日、2日に移る。「母さん熱出たみたいで、看病の為、お休みよ」悦美。「またか。とか云つちやいけないんだらうけど」-「ま、確かに、『またか』よね」。悦美のヒーローは、カンテラとじろさんの二人。じろさんが喧嘩番長振りを發揮出來るこの仕事、彼にお似合ひだと思つてゐて、澄江さんとはその點、意見が合はない。「...」何やらカンテラ、考へ込んでゐる。「杵、ゐるのかい、今日?」。「バイクのメンテしてるわ、外で」-「悦ちやん、じろさんのスペアの眼鏡つてある?」-「あるけど- 何で?」-「『修法』、試してみたい事があるんだ。おーい杵、バイク出せ」
※※※※
〈遠く遠く記憶よすがに顔復元やはり貴女と気付きし時よ 平手みき〉
【ⅳ】
杵塚の今日のバイクは、スズキ GSX-125Rであつた。タンデムには余り向いてないが... カンテラ、「まずは『開發センター』」-杵塚「ラジャー」。云ふ迄もなく、隣接する「方丈」に用があるのだ。
牧野「朝から『修法』ですか? お茶は?」カンテラ「茶は要らない。さつき珈琲飲んだばかりだ」杵塚「フル、何か食ふもんないか? 朝メシまだなんだ」牧野「ラジャー」
「方丈」の護摩壇に、じろさんのスペアの眼鏡を投げ入れる。ぼうつと靑白い炎が上がつた。これは、カンテラの目論む「修法」の上手く行く事を暗示してゐる。「よし。杵メシ終はつたか?」-「はい」-「次は方南町だ」-「ラジャー」
【ⅴ】
方南町、と云ふのは、じろさん・澄江さんのマンションを示す。カンテラ「じろさん、見舞ひだ」-「珍しい事もあるもんだな」見れば、カンテラ、見舞ひ品も持參してゐない。おつとり刀、とはこの事だ。
「じろさん、例の『ルパン三世』のテーマを」-じろさんは(赤ジャケ時代の)ルパン三世のテーマ曲が大好きで、カラオケでも良く歌ふ。不審に思ひつ、じろさんはターンテーブルにレコード(7吋)を載せた。
【ⅵ】
澄江さんが横になつてゐるベッドルームに、ルパンの男の浪漫讃歌が響き渡る- カンテラ、護摩壇から一握の灰を持つて來てゐた。それを澄江さんの全身に振り掛ける。澄江さんは夢を見始めた。だうやら鉄壁が、夢の中での彼女の行方を邪魔してゐる- だが、彼女には分かつた。この鉄壁は、男の世界、神聖にして侵すべからざる世界の暗喩なのだ、と。
【ⅶ】
澄江さんは目醒めた。起き上がらうとするところを、カンテラが制する。「おつと、無理は禁物だよ。義母上」-「カンさん來てると思つたわ。わたし、よーく分かりました。日頃見てゐるものが、主人とは違ふつて事ね。淋しいけれど、受け容れるしかないわ」
だうやら、澄江さんには傅はつたらしい。カンテラのメッセージが。
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〈幻視者の追求するは桐一葉 涙次〉
と云つたところで、今回の『カンテラ咄』を終へたい、と思ふ。嗚呼滅び行く男の浪漫の世界。それを現役で生きてゐるじろさんを、誰が止められるものか。
ぢや、また。