07
やがて寝室の扉に手をかける。
軋む音とともに中へ入ると、そこには既にミレイの姿があった。衣服を整えたまま寝具に腰掛け、まるで戻ってくるのを待っていたかのように視線を上げる。
「陵、お疲れさま」
ミレイは小さく微笑み、両腕を広げて彼を迎え入れる。
陵――この世界に来る前の、ミササギの本当の名前だった。
「……美玲が待っててくれて、嬉しい」
ミササギはわずかに目を細め、彼女の腕に身を預ける。
抱きしめ合ったまま、二人の身体は自然と寝具へ傾き、そのまま静かに倒れ込んだ。
美玲――かつての彼女の名。
今は二人だけが口にし、互いにしか許されない特別な呼び方だった。
「もう……甘えん坊なんだから」
彼を抱きしめ、その温もりを確かめながら、ミレイは苦笑する。
「いつもありがとう」
ミササギの口からこぼれたのは、飾らない感謝の言葉だった。
「ううん。私こそ、いつもありがとう」
囁くように返し、ミレイは彼の唇に口付けを落とす。
この世界に突然連れてこられた二人には、右も左もわからなかった。
日本の神――天照大御神の加護はあったが、それでも戦わざるを得なかった。
ミレイは彼の逞しい身体を抱きしめながら、胸の奥で改めて思う。
彼はこの世界に来る前から「神源流」と呼ばれる、紀元前より続く武術の使い手であり、次期当主候補だった。
その積み重ねがなければ、とっくに命を落としていたに違いない。
すんなりとそう思えてしまうほど、この世界には危険が溢れている。
魔物、宗教、治安――どこを歩いても、命の危うさが隣り合わせだ。
ふと、ミササギの肩がわずかに揺れる。
「……えっと?」
戸惑いを含んだ声が漏れる。ミレイの手が、彼のシャツの下へと滑り込んできたからだ。
「陵に、触りたかったの」
恥ずかしいような、けれど隠す気もない。思ったままを口にした声音だった。
「……この雰囲気でそんなことされたら」
ミササギの指先が、静かに彼女の身体へと伸びていく。
「まあ……嫌じゃないし」
ミレイは視線を逸らしながらも、声は揺れなかった。
「へえ……」
彼の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
(……まあ、二人は放っておくのが一番だな)
ジンガは厨房に立っていた。
いつもなら調理はミレイとエリシアがやっている。
だが今はそのどちらも姿がなく、炉の上にはまだ使われていない鍋が置かれているだけだった。
彼は何も言わずに袖をまくり、冷蔵庫擬きから食材を取り出す。
これは金属製の箱に、氷を発生させる術式を付与したものだ。
包丁を手に取ると、刃がまな板を叩く音が静かな屋敷に規則正しく響き始めた。
玉ねぎを刻むと、鼻をつく香りが広がり、油を熱した鍋に放り込めばじゅっと音が立つ。
火と香りが立ちのぼるにつれて、先ほどまで胸に残っていた剣呑な空気が、ゆるやかに解けていくようだった。
その時――
「……えっ?」
小さな声が背後から漏れる。
「おはよう、エリシア」
足音で誰が来たのか、何となく予想はついていた。
「おはよう……ございます。ジンガ様」
エリシアは恐る恐る、ジンガの背に視線を向ける。
「……ジンガ様が、料理を?」
驚きと戸惑いの入り混じった声音。
旅をしていた頃には見慣れた光景だった。だが、今は屋敷での生活――その役目は専らミレイや自分のものであり、ジンガが台所に立つことなど思いもしなかった。
ジンガは肩越しにちらりとも振り返らず、淡々と包丁を動かし続ける。
「まあな。久しぶりだと、ちょっと鈍ってる感じするけど」
ミササギたちと行動するようになってから、殆ど包丁には触らなくなった。
「……そんなふうには見えません」
エリシアは思わず漏らし、はっとして口を押さえた。
だがその目には、懐かしさと安心の色がわずかににじんでいた。
「……わ、私も手伝わせてください」
その声音には、驚きと戸惑いだけでなく、懐かしさに似た温もりが混じっていた。
ジンガは手を止めず、わずかに顎をしゃくって返す。
「なら、そっちの野菜を頼む」
「はいっ」
エリシアの声が少し弾む。
まな板に並べられた野菜に手を伸ばす姿は、旅をしていた頃の光景を思い起こさせるものだった。
エリシアは慣れた手つきで野菜を切り始める。包丁の刃が軽快にまな板を叩き、その音が静かな厨房に心地よく響いた。
ジンガは隣で鍋をかき混ぜながら、ちらりと視線を向ける。
「手際、良くなってるな」
「……毎日続けてますから」
エリシアは照れたように微笑む。
「あの時も助かってたよ」
二人旅の時も、クルスを迎え入れて三人旅になった時も、エリシアは色々と手伝ってくれていた。
「私もです。ジンガ様がいなければ、とても……」
言いかけて、エリシアは小さく首を振る。
「いえ、今は料理の話ですね」
ジンガはふっと笑い、鍋の蓋を軽く押さえた。
「まあ、どっちの意味でも助かってたよ」
エリシアの手が一瞬止まり、頬にかすかな赤みが差す。
だがすぐにまた包丁を動かし始め、その表情は真剣なものへと戻った。
「エリシア、ジンガにベタ惚れだよなぁ……」
扉の陰から覗き込みながら、クルスはしみじみと呟いた。年相応の無邪気さはそこにはなかった。
「ジンガさんがエリシアさんの命を救ったって聞きました。……なら、そうなっても当然です」
レイラもまた、淡々と分析するように言葉を重ねる。その表情は子供らしい照れも笑みもなく、妙に落ち着き払っていた。
子供二人。
大人びた彼らは、うんうんと頷きあった。




