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「入ります」
エリシアはジンガの書斎──もとい研究室に足を踏み入れた。
既に陽は落ち、そろそろオルトリアの歓迎会が始まる頃合いだった。
奥ではアストレイがひとり黙々と作業をしていた。
白衣の袖を少し捲り、細い指先で器具を操る姿は、どこか繊細で静かな気配を帯びている。
青白い溶媒槽の光が横顔を照らし、研究室の沈黙をいっそう際立たせていた。
「アストレイさん?」
エリシアはおずおずと声をかける。
小さな声は静寂に溶け込み、背を向けた彼女に届かない。
アストレイは反応を示さず、真剣な横顔のまま、指先の動きを一瞬たりとも止めなかった。
返事がないことに気付いたエリシアは、しばらくその背中を見つめたのち、そっと歩を進める。
周囲の器具を倒さぬように、できるだけ足音を殺す。
「アストレイさん?」
視界に入る位置まで近づき、今度は気付いてもらおうと小さく手を振った。
「……エリシアさん、どうしたの?」
ようやく気付いたアストレイは、手に持っていた器具を丁寧に机へ置き、視線を彼女に向けた。
「実は……」
エリシアは新しく加わったパーティメンバーの歓迎会が、まもなく始まることを説明した。
「……私は参加しない」
アストレイは短く告げると、静かに首を横に振った。
「でも……」
「悪人に同情はいらない」
食い下がろうとしたエリシアに、アストレイはきっぱりと言い切った。
彼女の声は冷たく、感情の揺れを一切含まない。アストレイの視線が、研究室の青白い光に照らされた幼子の入った槽へと向く。
一つの都市を機能停止にまで追い込み、目の前の子供を含め、数々の外道じみた実験を繰り返してきた。そんな者に、公の場で同情や配慮を与える理由はどこにもない。
必要なのは処罰か隔離か。ジンガの意志で生かされているという事実は、彼女にとってはこれ以上に許容できる余地がない「偶然」に過ぎなかった。
「同情じゃないです」
エリシアは棘のある口調で告げた。
「……何が言いたいの?」
アストレイはわずかに眉をひそめる。
「私だって、アストレイさんみたいに頭が良かったら、同じことをしていたかもしれない。だから、同情じゃないです」
誰もが苦しみを抱えて生きている。上手くいかないこともある。
エリシアもそうだった。その苦しみから救ってくれたのはジンガで、だからこそ彼女は彼を心から慕っている。大好きになってしまった。
「あなたは私とよく話すからね。そういうのは……情が移ったって言うのよ」
アストレイは諭すように、宥めるように言葉を重ねた。
「じゃあ、アストレイさんが参加してくれないなら……私はここで泣き叫びます」
エリシアは頬をふくらませ、真剣とも冗談ともつかない調子で言い放った。
「えっ? ……えっ!?」
アストレイは目を瞬かせ、器具を持つ手を止めた。
その反応は、冷静沈着な彼女らしからぬものだった。
「みんな子供扱いするんです。めちゃくちゃムカつくんです」
エリシアは声を震わせながら言葉を重ねた。
「だから……アストレイさんに八つ当たりします!」
唐突な宣言に、アストレイは目を丸くした。
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が漏れ、指先が宙で止まる。
エリシアは顔を真っ赤にして、ただ睨みつける。
震えてはいたが、その気迫は充分に伝わった。
「ほ……本気みたいね」
アストレイの口元に、かすかな苦笑が浮かぶ。
「本気ですよ」
即座に返すエリシアの瞳は揺らがなかった。
アストレイは小さく息を吐き、観念したように視線を外す。
「……そこまで言うなら、仕方ないわね。少しだけ顔を出すことにするわ」
「私の勝ちですねっ!」
エリシアは飛び跳ねんばかりに両手を掲げ、ぱっと笑顔を咲かせた。
その無邪気な歓声に、アストレイは小さく肩をすくめるしかなかった。




