18
「俺はジンガ。君の名は?」
その問いかけは、優しくありたいという願いから自然に零れた。
「アストレイ・ムールバウム」
女はためらいもなく答える。そのあっさりとした調子が、ジンガには意外だった。
「……殺さないのか?」
足掻きをやめたアストレイが、静かに彼の顔を見つめる。
「君を殺して、人の未来は良くなるのか?」
この惨状を見れば、アストレイが罰せられるべき存在であることは、ジンガにも分かっていた。
だが同時に、彼女を殺すことは無益で、道理に背き、そして何より優しさに反する――そう感じていた。
ジンガの言葉を聞いて、ミササギは短く息を吐いた。だが口を挟むことはなかった。
「黒結晶のことを、教えてくれないか?」
今なら答えが得られるかもしれない。そう思い、ジンガはもう一度問いかけた。
アストレイはしばし黙した。鎖に縛られたまま、視線だけを天井に向ける。
瞳の奥で、わずかな逡巡が揺れていた。
「黒結晶……」
その名を唇に乗せたとき、声はかすかに震えていた。
ミササギがわずかに身じろぎする。だが口を挟むことなく、じっとアストレイを見据えた。
「それは、人の手で触れてはならないもの」
アストレイはゆっくりとジンガを見返した。
「流通までしてるのに?」
ジンガの声音は静かだったが、その奥には疑念が滲んでいた。
アストレイの瞳がわずかに揺れる。
「……黒結晶が、どう作られるかを知りたいのね」
アストレイは短く息を吐き、目を伏せた。
「人がただ死ぬだけでは生まれない。
後悔や怨み、絶望や憎しみ――そうした強い負の感情を抱いた者たちが、大勢一度に命を落としたとき……その痕跡が結晶となって現れるの」
声には淡々とした響きがあった。だがその奥に滲む苦さを、ジンガもミササギも感じ取っていた。
「それを黒結晶と呼ぶ?」
ジンガの声音は静かだったが、確かめるような響きを帯びていた。
アストレイは小さく頷いた。
「この土地で、黒結晶が取れる理由は?」
ジンガの問いに、ミササギもわずかに視線を動かす。
アストレイはしばし口を閉ざした。やがて低く、押し殺すように言葉を吐く。
「……かつて、この地では無数の命が失われた。争いも、裏切りも、虐殺もあった。その負の遺骸が、いまも大地の底に眠っているのよ」
「流通している理由は?」
ジンガはさらに問いを重ねた。
アストレイの唇がわずかに歪む。
「それは……私には分からない。この国の者でありながら、この国のことを深くは知らないから」
そう言って肩を竦め、鎖の音を鳴らした。
「ただ一つ言えるのは、人が求める限り、黒結晶はどこかで必ず値を持つ……ということだけ」
「つまり、戦争や殺し合いの副産物を、好んで取引しているわけだな」
沈黙を守っていたミササギが、低く言葉を差し挟んだ。その声音には、冷ややかな皮肉が混じっていた。
アストレイは目を細め、鎖の鳴る音とともに小さく肩を震わせる。
そのときだった。
アストレイの喉元に、墨を流したような黒い紋が浮かび上がった。
「……っ!」
彼女の身体がびくりと震える。鎖を伝って、黒い靄がじわじわと広がっていく。
「呪い……!」
ミササギが目を細める。鋭い声と同時に、ジンガは動いていた。
「《ディスペル》」
ただ一言、静かに告げられた言葉が空気を震わせた。
何の光も音もなく、しかし確かな力が部屋を満たし、黒い靄を削り取っていく。
アストレイを覆い尽くそうとしていた呪詛は、まるで霧が陽に溶けるように形を失い、やがて消えていった。
「い……生きてる?」
荒い呼吸の合間に、アストレイがかすれた声を漏らした。
鎖に縛られた身体はまだ震えていたが、その瞳には一瞬だけ、安堵の光が宿っていた。
「まだ他にも聞きたいことがある。答えてくれるか?」
ジンガは静かに言葉を継いだ。声音に威圧はなく、ただ確かめるような響きがあった。
アストレイは視線を伏せ、唇を噛む。鎖の音がかすかに鳴り、やがて小さく頷いた。
「召喚に使っている術式、あれはどこで知ったんだ?」
ジンガの問いかけに、ミササギが僅かに眉を寄せる。
アストレイは乾いた笑みを浮かべた。
「……欲していたのよ。王国に報いを与える力を」
瞳に滲むのは、怒りとも悔恨ともつかない光だった。
「だから、差し出された手を取った。術式を望んだのは、紛れもなく私自身。
けれど与えられるのは力だけじゃなかった……呪いという鎖も一緒についてきたの」
「さっき発動したのが、その呪いだと思う」
アストレイの声は掠れ、鎖のきしむ音にかき消されそうに震えていた。
「こんな形で終わるなら、無駄だったわね」
唇に浮かんだのは、笑みとも嘲りともつかない色。
怒りも悔恨もすべて呑み込んだその言葉は、かえって静かに響いた。
「まだ死んでないだろ。俺と一緒に来いよ」
ジンガの声は柔らかくも揺るぎなく、まるで拒絶を許さぬほどの真っ直ぐさを帯びていた。
「生きている価値もない。資格も……捨てた」
アストレイはかすれた声で吐き出すように言った。
その瞳には憤りも涙もなく、ただ深い虚無だけが滲んでいた。
「俺は彼女を救うのは反対だ」
静かな声が割り込む。ミササギだった。
「だが、うちのリーダーは助けてやりたいと思ってる。お前にすら優しく在りたいと思ってる」
一拍の間を置き、彼は淡々と続けた。
「……きっと、お前が前を向けるかもしれない、最後のチャンスだ。
幸せになれる、最後のチャンスかもしれないぞ」
ミササギの言葉に、アストレイは目を見開いた。
揺らぐ視線がジンガとミササギの間を行き来し、やがて震える声が漏れる。
「なんで……殺さないの?」
それは疑問というより、心の底からの戸惑いだった。
これまでの彼女にとって、与えられるはずのなかった選択肢が突きつけられていた。
「今日の俺は、昨日の俺より優しくなりたいからだよ」
ジンガは迷いなく答えた。声音は穏やかで、しかしその言葉は強く、アストレイの暗がりにひとつ火を灯した。
ジンガはアストレイを縛り付けていた術式を解除して、彼女に手を差し出す。
アストレイは彼の手を取った。




