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その筆を折るな!


深夜の河辺


深夜の河辺は静かだった。川面に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れている。冷たい風が頬を撫で、どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえた。達郎と祐司は、コンビニで買った缶ビール片手に、川沿いのコンクリートの段に腰を下ろしていた。二人とも40歳を過ぎ、人生の半ばを過ぎた男たちだ。だが、達郎の目はどこか少年のようで、焦りと希望が混ざり合った複雑な光を宿していた。


「いい歳して夢追いかけてんの、俺だけか…」

達郎の声は低く、どこか自嘲的だった。缶ビールを握る手に力がこもり、アルミが小さく軋んだ。「現実見た方がいいよな。」


祐司は隣でタバコを吸い、煙をゆっくりと吐き出した。幼馴染の言葉に、すぐに答えるでもなく、川面を見つめていた。「皆、就職してるもんな…。お前は諦めるのか?」


その言葉は、達郎の胸に突き刺さった。諦める。たった二文字なのに、なぜか喉に詰まるような重さがあった。「俺は…まだ、諦めたくない。」

声は小さかったが、そこには確かに意志が宿っていた。


「そっか。」

祐司は短く答え、タバコの灰を指で弾いた。灰は風に乗り、暗い川面に消えていった。祐司の落ち着いた態度は、達郎をどこか苛立たせた。祐司には安定した仕事があり、結婚して、近いうちに子供も生まれる予定だと聞いていた。対して達郎は、仕事も恋人もなく、親が残した貯金を食いつぶしながら小説を書く日々。40歳を過ぎても夢を追い続ける自分を、どこか情けなく感じていた。


「仕事も彼女も何もない。俺にはこれしかないんだ。」

達郎の声には、言い訳と開き直りが混じっていた。「でもよ、祐司。お前は分かんねえだろ。俺が何書いても、誰も読まねえ。売れねえ。こんな生活、いつまで続けられるか…。」


祐司は静かに達郎を見た。目には穏やかな光があったが、その奥には何か強いものが潜んでいるようだった。「なぁ、達郎。お前は自分が書きたい小説を書いてるのか? それとも、売れるために周りの顔色を伺った小説を書きたいのか?」


その言葉は、達郎の心を鋭く抉った。まるで長年隠してきた弱さを暴かれたような感覚だった。「そりゃ、好きなもん書いて売れるならそうしたいさ! 誰だってそうだろ!?」

達郎の声は怒りに震えていた。「そんなんできてたら、こんな生活送ってねえよ!」

飲み終えた缶ビールを、怒りと共に川へ投げつけた。缶は水面に跳ね、鈍い音を立てて沈んだ。


「川が泣くぞ?」

祐司の声は静かだったが、どこか達郎を諌めるような響きがあった。


「うるせえ!」

達郎は立ち上がり、祐司を睨みつけた。「お前はいいよな。安定した仕事して、結婚して、子供もできるんだろ? 余裕がある奴はいいよな! 俺に構うなよ!」

捨て台詞を吐き、達郎は踵を返して家路についた。


紙屑の山


アパートに帰った達郎は、机に散らばった原稿用紙を前に座った。蛍光灯の薄暗い光が、部屋の寂しさを一層際立たせていた。原稿用紙には、書きかけの文章が乱雑に並んでいる。どれも中途半端で、どれも完成しない。達郎はペンを握り、むしゃらに書き殴った。祐司の言葉が頭の中でリフレインする。「自分が書きたい小説を書いてるのか?」「売れるために周りの顔色を伺った…」

ペンは紙を切り裂くように動いたが、書けるのは怒りと苛立ちだけだった。やがて、原稿用紙はくしゃくしゃに丸められ、紙屑の山に変わった。


「はぁ…マジで才能ねえのかな、俺…。」

達郎は椅子に凭れ、ため息をついた。部屋は静かで、時計の秒針の音だけが響く。40歳を過ぎても、夢を追い続ける自分。だが、その夢はいつしか重荷になり、希望ではなく焦りを生むだけになっていた。


目を閉じると、子供の頃の記憶が蘇った。祖父が書いた小説を、夏の縁側で読んだ日々。祖父の書く物語は、どこか不器用で、でも心を揺さぶるものがあった。「いつか俺も、こんな物語を書きたい。」そう思ったあの頃の自分は、純粋だった。小学校、中学校、高校と、達郎は書き続けた。周りの友達は「面白い!」と褒めてくれた。先生も、時には原稿を読み上げてクラスで紹介してくれた。あの頃は、自分が小説家になれると本気で信じていた。


だが、現実は違った。大学を卒業し、就職活動を避け、アルバイトをしながら小説を書き続けた。20代はまだ希望があった。30代になると、周りの友人が結婚し、家庭を持ち、キャリアを築いていく姿を見て、焦りが募った。そして40歳を過ぎ、親が残した貯金も底をつきかけていた。夢を追い続けることは、いつしか「現実から逃げること」と同義になっていた。


「どこで人生踏み間違えたんだろうな…。」

達郎は呟き、机に突っ伏した。何一つ残せないもどかしさ。焦燥感が胸を締め付ける。「今までの時間、全部無駄じゃねえか...。」

深夜の部屋で、達郎は一人叫んだ。隣の住人から壁を叩く音が聞こえ、慌てて口を閉じた。枕を濡らしながら、達郎は眠りについた。

「ちくしょう...。」


京本との出会い


翌日、達郎は地元の小さな文学イベントに参加した。そこには、評判の若手小説家、京本がゲストとして招かれていた。京本は30代半ばで、すでに数冊のベストセラーを出し、文学賞も受賞していた。その文章は鋭く、情感に溢れ、読む者の心を掴んで離さない。達郎は、京本の小説を何冊か読んでいた。羨望と嫉妬が混じる複雑な気持ちで、彼の講演を聞きに行った。


京本の話は、達郎の心に突き刺さった。「小説を書くことは、自分と向き合うことだ。売れるために書くんじゃない。自分の魂を削って、読者に届けるために書くんだ。」

その言葉は、祐司の昨夜の問いに似ていた。だが、京本の言葉には、どこか圧倒的な自信と確信があった。達郎は、自分の書くものにそんな力が宿っているか、自信がなかった。


イベント後、京本と話す機会を得た。達郎は緊張しながらも、自分の原稿を差し出した。「読んでいただけますか…?」

京本は穏やかな笑みを浮かべ、原稿を受け取った。「もちろんだ。楽しみにしてるよ。」


数日後、京本から連絡があった。喫茶店で落ち合い、原稿について話すことになった。京本は、達郎の原稿を丁寧に読み込んだ様子で、ページに付箋を貼り、メモを書き込んでいた。


「率直に言うと、悪くない。でも、何か足りない。」

京本の言葉は優しかったが、達郎には刃のように突き刺さった。「君は、書くことに囚われすぎている。小説家になりたい、ということに固執してるんじゃないかな。」


「…努力で解決するなら、誰も苦労しないですよね。」

達郎の声は震えていた。京本の才能を前に、自分の限界を突きつけられた気がした。


「君は小説家になって何をしたい?」

京本の質問は、シンプルだが重かった。


「俺は…。」

達郎は言葉に詰まった。頭の中は真っ白だった。小説家になりたい。それだけだった。でも、なぜ? 何のために? その答えが見つからない。


「小説家になりたいだけ? 書いて誰かに見せるだけなら、小説家を目指さなくてもいいんじゃないかな。」

京本の言葉は、達郎の心をさらに揺さぶった。


「はは、そうですね…。」

達郎は笑ってごまかしたが、胸の奥で何かが崩れる音がした。小説家になることに固執していた自分。だが、その先に何があるのか、考えたこともなかった。


筆を折る


その夜、達郎は原稿用紙を前に座った。だが、ペンは動かなかった。京本の言葉が、祐司の言葉が、頭の中でぐるぐると渦巻く。「自分が書きたい小説を書いてるのか?」「小説家になって何をしたい?」

どれだけ考えても、答えは出なかった。達郎は静かにペンを置き、原稿用紙をゴミ箱に放り込んだ。


「もう、いいや…。」

筆を折る決意だった。小説家になる夢は、40年近く追い続けたが、結局何も残せなかった。自分には才能がない。そう結論づけ、達郎は心のどこかで安堵していた。これで、苦しみから解放される。


再起


数ヶ月が過ぎた。達郎はアルバイトを始め、普通の生活を送り始めた。だが、心のどこかで空虚感が消えなかった。ある夜、ふと祖父の小説を手に取った。ページをめくるたび、子供の頃の記憶が蘇る。あの頃感じた、物語の力。誰かの心を動かし、誰かに何かを与える力。


「俺は…何をしたいんだ?」

祖父の小説を読み終えた達郎は、深夜の部屋で呟いた。売れることでも、小説家になることでもない。自分が書きたいものを書くこと。それが、子供の頃の自分が見ていた夢だった。


翌朝、達郎は祐司に電話をかけた。「俺、まだやるよ。まだ諦められねえから。」


「そっか。応援してる。」

祐司の声は、いつも通り穏やかだった。


「ありがとな。」

達郎は短く答え、電話を切った。胸の奥で、何かが再び燃え始めた。


魂を削る


達郎は再び書き始めた。京本の言葉を思い出し、自分の中にあるものを正直に書くことにした。売れるかどうか、評価されるかどうかは考えなかった。自分の心の奥底にある、喜び、悲しみ、怒り、希望、すべてを吐き出すように書いた。


原稿は、かつてないほど感情に溢れていた。達郎の人生そのものが、ページに刻まれていくようだった。失敗と挫折、夢と現実の間で揺れる自分。祖父の小説に憧れた少年時代。祐司との友情。京本との出会い。すべてが、物語に溶け込んでいった。


書き終えた原稿を、達郎は京本に送った。「読んでください。」

数日後、京本から返事が来た。喫茶店で再び会った京本は、原稿を手に微笑んだ。「ふふ、いいね…。君らしい。」

その言葉は、達郎の心に深く響いた。初めて、自分の書いたものが誰かに届いた気がした。





数年後、書店に一冊の小説が並んだ。タイトルは『川辺の夜』。著者は、筆折達郎。

その小説は、静かに話題を呼んだ。派手な宣伝も、大手出版社の後押しもなかったが、読んだ人々の心を掴んだ。SNSや書評サイトで、「心に刺さる」「読んで泣いた」と評判が広がった。達郎の書いた物語は、成功譚でもハッピーエンドでもなかった。だが、そこには人生の苦しさと美しさが、ありのままに描かれていた。


ある日、達郎は祐司と再び川辺でビールを飲んだ。「お前、すげえよ。やっと夢叶えたな。」

祐司の言葉に、達郎は苦笑した。「夢か…。よく分かんねえけど、なんか書けてよかったよ。」


「それでいいんじゃねえか?」

祐司は笑い、ビールの缶を掲げた。達郎も笑って、缶を合わせた。川面に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れていた。


ある晩、達郎は小さな講演会に招かれた。読者からの質問に答える中、若い女性が手を挙げた。「筆折さん、なぜ小説を書き続けられたんですか?」


達郎は少し考え、微笑んだ。「自分でも分かんねえけど…多分、書かずにはいられなかったから。誰かに何かを伝えたいって、子供の頃から思ってた。それが、俺の生きる理由だっただけです。」


会場は静まり返り、やがて拍手が響いた。達郎は照れくさそうに頭をかいた。

その夜、帰宅した達郎は、祖父の本棚から一冊の小説を取り出した。ページをめくり、子供の頃の記憶を辿る。そして、新しい原稿用紙を手に取り、ペンを握った。


「まだ、書きたいことがたくさんある。」

深夜の部屋に、ペンの音だけが響いた。川辺の夜のように、静かで、しかし確かに熱を帯びた音だった。


 

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