女性向け恋愛SRPG世界に転生したモブ令嬢だけど、何故かヒロインもライバルもヒーローも不在で世界の危機かもしれない
七歳の誕生日、モーリアは自らの立ち位置を知った。
モーリアは物心ついたときから、まったく異なる世界で若くして死んだ女の記憶がある。
そしてここは「盤上のアルカナ」という、女子向け恋愛シミュレーションロールプレイングゲームの――もしくは、それによく似た――世界である。
しっかりと作り込まれたシステムだったので、恋愛シミュレーションが好きな女性ユーザーよりも、SRPGが好きなユーザーに支持されるような作品だった。ファンの間では「恋愛要素はオマケ」だとよく囁かれていたほどに。
かく言うモーリアの前世の女も、どちらかと言えばSRPG要素目当てでプレイしていた。
もちろん、恋愛要素も楽しんだのだが。
ゲーム的な要素があるこの世界で広く信仰される宗教において、七歳の子どもは神殿で儀式を受ける権利と義務がある。
そこで奇跡を賜るのだ。モーリアの前世とまったく同じタロットカードのアルカナを象徴とした異能力である。
両親に連れられて神殿へ赴いたモーリアが授かったのは、銀等級の「隠者」。属性は地のエレメントを表す「コイン」だった。
大アルカナの奇跡は、個人の魔力量によって金・銀・銅と三つの等級によって振り分けられるが、王侯貴族の大多数が銀である。つまりは普通。
そして小アルカナの奇跡は、領地持ちの貴族に評価され易いものの派手さはない地属性。つまりは地味。
要するに、モーリアは生粋のモブだった。
特に名産品もない男爵領で生まれたモーリアは、貴族にしては少し人情派な両親の下で育った。
そして王国の一大穀倉地帯に隣接した男爵領は酪農が盛んで、隣に広がる豊かな土壌のおこぼれでほどよく潤っているだけの小さな領地だ。
そんな男爵領のために何かをしたいと、父の執務に少しだけ口出しをしたり、領内外の安いナチュラルチーズを使ったプロセスチーズの開発をして過ごすこと数年。あっという間に王立学園――貴族の子女は必ず通わなければならない教育機関――に通う年齢となった。
なお、モーリアの前世知識であっさりと完成したプロセスチーズは、その高い保存性を活かし庶民層を狙って売り出す予定だったのだが――隣の穀倉地帯を治める大貴族が嗅ぎつけてきたため、既に新しいもの好きの高位貴族の間で密かに広がっている。モーリアの希望で作られた燻製プロセスチーズが、どうも帝国産の人気ワインと相性が良いのだと言う。
現在は、貴族向けのクオリティを追い求めて、後継者である兄と領の担当者がいろいろ試している段階だ。
ちなみに、前述の通りモーリアの大アルカナの奇跡は隠者である。そしてその隠者の性質は、知恵やひらめきとして表れることが多い。
つまり、モーリアのプロセスチーズ開発は隠者の奇跡によるものだと周囲に誤解されたので、前世由来の謎の知識は微塵も疑われることはなかった。
もしかしたら、モーリアをモブに押し留める強制力のようなものがあるのでは……などと危惧することもあるが、そもそも所詮は銀等級である。もとから世界の脅威ではない。
明確な役割を上位存在から与えられる世界では、モブは頑張ってもモブなのだ。
助かったのだがどこか釈然としないような、モーリアは複雑な気分だった。
※
何かが起きるかもしれないと、モーリアが若干意気込んでやってきた王立学園だが、どうも様子がおかしかった。
……というのも、学園が平和そのものだったのだ。
ゲーム「盤上のアルカナ」のシナリオは、この国の王立学園からはじまる。
金の「星」の大アルカナを授かった平民出身の主人公は、とある公爵家の養子になって学園へとやってきた。
ヒロインはこの学園で、金の「太陽」の王太子と金の「月」のライバル令嬢……そして他の攻略対象と出会う。
王太子が金の平民を気にかけたことによるやっかみに立ち向かい、切磋琢磨しながら友情と恋を育み、黒幕から狙われながらもやがて襲い来る世界の脅威に立ち向かう――という大筋なのだ。
だというのに、ヒロインも王太子もライバル令嬢も、どこにも居なかった。
これだけなら、時期が違ったとか、時代すら違ったとか、そもそも似ているだけの世界だったとか、そんな可能性が考えられる。モブ世界やモブ時代にモブ令嬢が存在しているだけだ。
しかし、モーリアの同学年には他の攻略対象がちゃんと居るのだ。少し探せば、攻略対象の先輩も教師もすぐに見つかった。
慌てて噂をかき集めた結果に判明したのは、王太子とライバル令嬢が病気療養中なのだということ。
そして、そもそもゲームの王太子はまだ立太子されておらず、第一王子という身分だった。ついでに、ヒロインの所在は不明である。
(――えっ、これ、世界は大丈夫なの?)
状況がさっぱり理解できないモーリアは、足元の床が崩れていくような不安と恐怖に襲われる。
モブゆえの能力では何もできないと挫けそうになるが、何もしないと言う選択はとれなかった。とにかく多方面の情報収集をするため、足繁く学園図書館へ通って他国の新聞を読み漁ることにした。
「――――あ、また居る。精が出るね、モーリア嬢」
「……ごきげんよう、アルサング先輩」
名前を呼ばれたモーリアは、目を通しはじめたばかりの新聞から顔を上げる。
小声でこそこそと挨拶を済ませ、ニコニコと笑いながらモーリアの正面に座った男の名はアルサング。ゲームでは恋愛攻略対象のひとりである。
なお、既に図書館で何度も会っているため。彼とはとっくに顔見知りだ。
アルサングは銀の「魔術師」持ちの、伯爵家の養子である――――表向きの情報では。女性向け恋愛ゲームの攻略対象であるかぎり秘密はつきものだが、これが結構厄介な身の上なのだ。
そう、本来の彼は金等級の奇跡持ちで現王の息子。つまり……血統だけ見れば王子様なのである。
彼の母親は、行儀見習いのために王宮侍女をしていた貴族令嬢である。
体調不良時の避けられぬ飲酒の結果妙な酔い方をした王――当時は王太子だったが、混乱を避けるため以降は王と記す――によって手籠めにされ、アルサングを産んだ。
王の子を宿した侍女を側室として召すことも事情を知る者たちで密かに考慮されたが、当時まだ子の居なかった王妃はこれを強く拒絶。結果、アルサングは、侍女の実家の伯爵家で隠され育てられることになった。
そしてアルサングの母は、彼の七歳の儀式を見届けた後に修道院へ身を移すことを決める。実母を失ったアルサングはその後、優秀な遠縁の子という触れ込みで、母の兄である現当主の養子として迎えられた。
当たり前だが、このあたりの事情はしっかりと覆い隠されている。モーリアが知っているのも、ゲームで明かされていたからに過ぎない。
だからモーリアは、彼の境遇に対する哀れみや教え込まれた王族への敬意を欠片も見せることなく、伯爵家の養子に向けた対応をしなければならないのだ。
「その束って、今日からのもの?」
「はい、先月後半分の帝都のセントラル・タイムズです。お読みに――」
「こういうのは先着順がセオリーだよ。だから、読み終わったものから渡してほしいかな」
アルサングの要求にモーリアは了承の意を示し、王都から遠く離れた帝国首都で広く読まれているメジャー紙に視線を戻す。
他の日のものから読めば良いとモーリアは思うが、アルサングは順番に読みたい派なのだという。
ならば、特にこだわりのないモーリアが適当な日時から読んでいれば、気遣いは不要だと苦笑いで窘められたことがある。
そもそもさほど気遣ったわけではないが、アルサングにとって新聞を日付順に読むのは絶対の法則らしい。そこが覆せない以上、家格も学年も上の相手の意に反する対応をこれ以上続けるのは失礼になりかねない。
だからモーリアは仕方なく、図書館ではいつでも日付順に新聞を広げるようにしている。
アルサングが本来の身分であれば、わざわざ学園の図書館にまで足を運ばずとも、他国の新聞などいくらでも読めるだろうに。モーリアはそんなことを思いつつ、入荷したばかりの学術誌を眺めるアルサングにちらりと視線を向けた。
少し長めの前髪と分厚いレンズの眼鏡が、アルサングの顔を覆い隠している。
野暮ったくならない程度の地味さで整えられた装いは、成長するにつれ王に似てきた目元を誤魔化すためのものだ。ゲームのキャラクターシナリオで、そう語られていた。
いまは脚を組んでリラックスしているが、それでも均整のとれた体躯が美しいシルエットを描く。
ならばと細部を眺めると、男性らしく長い指が学術誌のページを軽やかにめくっている。
図書館全体は自然採光を抑えた設計になっているが、この閲覧スペースには天窓からほのかな太陽光が降り注ぐようになっていた。
モーリアの眼前にあるのは、名の知れた宗教画か、それとも幻か。どうも現実味が薄く感じられてしまう。
そんな風にモーリアがぼうっとしていれば――女性向け恋愛ゲームの攻略対象にふさわしい端正な顔が、ふいに上がる。
「…………ん、僕の顔に何かついてる?」
「い、いえ……すみません、何でもないです。すぐ読みます」
「他に読むものもあるから、ゆっくりで良いからね」
申し訳なさそうに眉を下げて微笑むアルサングと目視線が絡み、モーリアは慌てて顔を伏せた。
だから、見惚れてしまった気恥ずかしさを振り払うため小さな文字を必死で追うモーリアに向けられた、何かを探るようなアルサングの視線にはまったく気づかなかった。
※
「――やあモーリア嬢、帝国食文化の新版が入っていたけど、読んだ?」
「アルサング先輩、ごきげんよう。そちらは未確認です。今年と昨年のワイン評論を見比べていまして……」
「ああ、公国ワイン暴落のアレ?」
「はい……。急激に評価を落としていて何故かと……天候不順があったわけでもありませんし」
「あれね、あそこの大公妃が帝国の下位貴族層に喧嘩売っちゃったんだよ。単純な質の評価ではなく政治案件」
「えぇー……。そういうことなら、あふれた分が平民層にまわる可能性もありますね」
「たぶん、帝都やその周辺ではなく、地方やうちみたいな属国を狙ってくるんじゃないかな」
「しばらくは相場の注視が必要でしょうか。これって、私の実家に連絡しても良い内容ですか?」
「大丈夫だよ。君の家は隣と仲がいいから、そちらから話が行ってる可能性もあるし――」
新聞や噂話をかき集め、ゲームのシナリオに関する事案を探ること、はや数ヶ月。
アルサングとは図書館以外でも話をすることが増え、外交官を目指す彼から黒幕が住まう帝国の情報を得ることにも成功。
しかし、ゲームシナリオに通ずる情報は、特に見つかることはなかった。
焦りだけが募り時間は進み、ゲームの通りであれば学園に黒幕の手が伸びてきてもおかしくない時期になっていた。
「……シナリオではもう、希望の象徴である『星』のヒロインや『太陽』の王太子殿下が狙われている時期だけど……この学園に居ない以上、何もわからないし……」
学園の昼休み、あまり人気がない大きな池にせり出した四阿で、モーリアはぶつぶつと思索にふけっていた。
冬の乾いた風が通り抜け、ウールの外套ごと自分の身体を抱きしめる。最近はひとりになりたくて、冬場はほとんど誰も来ないここでぼんやりと考え事をするのが常だった。
「帝都の呪い騒ぎも起きていなさそうだし……これはもう本格的に何も起きないってことかも――」
「やあ、モーリア嬢。その話は興味深いね。詳しく聞かせてほしいな」
ここのところ聞き慣れてきた声が、モーリアの耳に届く。
声の持ち主と言葉を理解した瞬時にモーリアの血の気が引き、視界が一瞬だけふらりと揺れる。
冬の池は、本当に人気がなかった。そのため、モーリアは完全に油断をしていた。
四阿内のベンチに座り行儀悪く天井を仰いでいたため、周囲に気を配っていなかったのだ。
一箇所しかない四阿の入口で、柱に体重を預けたアルサングが楽しそうに眼を細めていた。
(……………………まずい、けど……)
崩れていた姿勢を正し、青ざめた顔色のまま咄嗟につくろった笑顔で、モーリアはアルサングを見上げる。
ゲームという前提条件がなければ、いま呟いていたのは若干不謹慎なだけの与太話だ。まだなんとか誤魔化せる段階だと、モーリアは脳内で言い訳を組み立てていく。
「…………ええと、申し訳ございません。先ほどのは最近見た夢の話でして……」
「夢、ねぇ? 我が国の第一王子が『太陽』だというのは、非公開情報のはずなんだけど」
「んぐ」
逃げ場を即座に塞がれて、組み上げた言い訳を崩されたモーリアは続く言葉を飲み込んだ。
すうっと背中が冷え、外套の内外がモーリアの体温を奪っていく。
ゲームのアルサングは、国のために生きることを自身の存在理由にしていた。
母親に捨てられ、義家族とは距離を置かれ、秘密裏に時折会う父親だけが彼のすべてだったからだ。たとえ、決して父と呼べなくとも。
ゆるめで凪いだ表面上の態度から想像できないほどに、その精神は脆く余裕が無い。それが「盤上のアルカナ」で設定されたアルサングというキャラクターだ。
そしてその脆さゆえ、アルサングには闇落ちルートが存在する。シナリオ進度によって好感度の調整が必要な、少々厄介なキャラクターだった。
その脆く繊細な心を支えるのが、アルサングルートにおけるヒロインなのだが……いま、モーリアの眼の前に立つ彼はどうだろうか。
モーリアはいままで何度も彼と会ってきたが、不安定さを感じることは一度もなかった。もちろん、平和だったために均衡を崩す事態がなかっただけかもしれないが。
「もしかして、君には帝都やこの学園で何かが起きるという確信があった?」
「えっ……」
「たとえば、帝都の神殿に魔の……いや、はっきり言うのは不敬だからやめておこうか」
「…………あ……その、ええと……」
つい先程まで考えていたことを的確に補足され、モーリアの頭の中は真っ白になってしまった。
何故ならそれについて、声に出していないはずなのだ。
ゲームの黒幕である「魔の者」は、帝都の神殿に住まう皇弟の精神を汚染し、そこを足がかりにして大陸中に戦乱の種を蒔いていく。モーリアが気にしている「帝都の呪い騒ぎ」もその一手である。
魔の者は、この世界の外からきた神に近い上位存在で、生物が生み出す負の感情を好むのだ。
しかし、高潔な魂を持つ皇弟は、十数年もの間無意識下で汚染に抵抗し続けた。その猶予の間に魔の者の干渉を世界が察知し、生み出されたのが金等級の奇跡持ちの面々……という設定がある。
「たまにだけど、君は各国の新聞を読んでいるとき、鬼気迫るほどの焦りと圧を出してるんだよね。自分で気づいていたかな?」
「い、いいえ。そのようなことは……ないかと……」
「あとね、君が僕を見る時、たまに義家族と同じような視線があるんだ。まぁ、主に憐れみ……といったところかな。それは、何故?」
「………………」
「君は、何を知って、何を探っている?」
――言うべきか、言わざるべきか。
本来であれば知るはずのないことを知っている……と確信を持たれている。おそらくは、魔の者に繋がりがあると疑われているのだろう。
冗談じゃない、とモーリアの体は冷えていくが心は燃える。モーリアが望むのは平和であって、戦乱などではない。
しかし、最大の問題は、仮に正直に説明したところで欠片も信憑性がないことだ。
だとしても、このまま夢の話だと強弁したところで、モーリアに不利な疑惑が募るだけである。
本心を隠しきれなかったモーリアが悪いのか、気付いたアルサングが鋭いのか。
数ヶ月に渡る観察が疑いの根幹になっているため、これ以上の半端な言い訳は逆効果だ。
自分の行く先も恐ろしいが、家や領地に害が及ぶことも恐ろしい。
さらに言うのなら、眼の前のアルサングが既に闇落ちしている可能性も考えられる。その場合だと、もう何を言っても手遅れだろう。
「……そうそう。ここで全部僕に話すか、取調室で全部話すか。いまなら選べるけど、どうする?」
「いま、ここで、お話しますっ!」
モーリアは、選択の損益を考える余裕もなく叫んでしまった。
※
アルサングの圧に負けたモーリアは話した。事情をすべて吐かされた。
彼の事情の答え合わせや、何故かプロセスチーズのことについても。
「前世だとか、ゲームだとか……にわかには信じがたい話だけど……」
「はい……それは……まあ……」
「弟たちが言っていた事と、話の内容がだいたい同じなんだよね。これは凄いな」
「は、はい……。誠にその通りで……………………えっ、あ、え、弟?」
思いがけない単語を認識したモーリアは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
アルサングは、養子に入った伯爵家では末子として扱われているはずである。
とはいえ、モーリアはすべての家の子どもを把握しているわけではない。
末子というのもあくまでゲーム知識由来のものなので、実はアルサングの下にも男子がいたというのは、何らおかしなことではない。
さらに言うのであれば、その“弟”がゲームシナリオを知っているのであれば、モーリア同様に前世の記憶を保持している可能性が高いのではないだろうか。
「あ、あの、アルサング先輩の弟君は、もしかして――」
「これは僕が五歳の頃なんだけど、ゲームで言う王太子……つまり第一王子がね、父上に直訴したらしいんだよ。『もっとアルサングを気にかけろ』ってね」
「んぐ」
想像とは違った方向にアルサングの話が始まり、モーリアは口を噤まざるを得なかった。
はじまりは、アルサングが五歳の頃のこと。母親と共に伯爵家の離れで暮らしていた彼のもとに、王家から手紙が届いた。差出人の名は、当時四歳の第一王子。
そこだけを見れば訝しく思うものだが、既に母屋にて真贋を確認されていた封蝋は本物。母子でおそるおそる確認したその内容は、非公式な茶会への招待であった。
要約すれば、幼子がただ兄に会いたいと願った内容だったのだが――拙さが残る文字で綴られた文章は隙無く整ったもので、ちぐはぐな印象を与えるものだったという。なお、この感想は、アルサングが長じてから読み返した際のものである。
王子からの直々の招待を断る理由はどこにもなく、幼いアルサングは勇気を振り絞った母と共に茶会へ赴くことになる。
そして、美しい薔薇園の四阿に整えられた小さな茶会は――王妃による潔い謝罪から始まった。
アルサングが母の腹に宿ったのは、王妃が他国から嫁いできて一年が経つ頃だった。
当時、懐妊の兆しもなく焦りが募っていた王妃は、見知らぬ女が王の子を孕んだと聞き激昂した。あまつさえ、その女を側室として迎える検討がされているのだ。到底、許せることではない。そうして、正室である王妃の強い拒絶によって側室の件は流れ、王妃がその後の話を聞くことはなかった。
王と王妃は、両者の間に深く長く横たわってしまった溝を、一年近くかけて埋める。やがて、待望の男児が誕生。それが第一王子だ。
乳母からの報告と復帰した公務の合間による触れ合いで、日々成長する我が子を知る。
そんな時にふと思うのだ。先に生まれたであろう王の子は、どうなったのだろうかと。
生きているのか、死んでしまったのか。男児なのか、女児なのか。
それすらもわからない王妃は、我が子の小さな頭を撫でながら、己の罪を思い知った。
あれから数年が経ち、当時のことを少しは客観的に見られるようになっていた。
だが、そうして理性で考えたとしても、故国を代表して嫁いできた以上は、あんな経緯で推された側室を承諾できなかった。
他国から来た妃という立場がある限り、その選択による後悔すらも許されない……彼女はそう思っていた。小さな息子が、兄を気に掛けるまでは。
『――わたくしは、誰が何を言おうとも、あの選択を誇らなければなりません。けれど、名も無きひとりの女として、ただの母としては……巻き込まれただけの貴女にすべてを押し付けてしまったこと、申し訳なく思います』
王妃は許しを求めず、応えを待つことなく腰を上げる。
しかしアルサングの母は、王妃を引き止め許しを告げた。それどころか、あれは不幸な事故だったと言い切った。彼女もまた、貴族の女としてひとりの母として、王妃の苦しみに思いを馳せていたのだ。
似た髪色を持ったふたりの母は、涙を流して許し合った。
ちなみにその後も様々な出来事があり、今ではアルサングの母が王妃の故国へ望み望まれ嫁いでいる。なお、既にアルサングの異父妹がふたりいるらしい。
「い、いもうと……」
「義兄が三人に、異母弟と異父妹がふたりずつって、僕の兄妹構成はけっこう豪華でしょう?」
けらけらと擬音がつきそうなほど軽く笑うアルサングに、モーリアはめまいを覚える。
――知らない。こんな楽しそうに家族の話をするアルサングは、知らない。モーリアは、今にも大声を出して逃げ出したいほどに混乱している。
そうやって母同士の確執が落ち着いたところで、アルサングは改めて弟から挨拶を受ける。
年下とは思えないほどに洗練された所作と挨拶に、自分の拙さが恥ずかしくなった衝撃を、アルサングは未だ覚えているという。
弟に触発されたアルサングは、それまでとは一転して勉強に身を入れだした。
母と弟におだてられながら成長し、やがて第一王子である弟が七歳になり、王国一番の大神殿で奇跡を授かった。
第一王子の儀式とはいえ、身内しかいない場へ密かに呼ばれ、アルサングが弟の晴れ舞台を見守るその時――。
『これから、この世界に危機が訪れます…………私は、滅びの未来から戻ってきました』
儀式の終わりと同時に、第一王子が滅びの予言と驚愕の事実を告げたのだ。
神話で語られる「魔の者」が帝国の皇弟を操り、世界中に争いの火種を撒き散らす。
そして、魔の者の手下に唆された王国貴族が、王国に混沌の渦をもたらす。
その滅びの未来では、王国は荒れ果て、帝国は分断され、戦火は拡大し続けた。
仲間たちと魔の侵略に抗う中、魔の者の手によって金の『星』が拐かされ、殺されてしまう。
彼らは希望の象徴を失ってもなお抗い続けたが、やがて限界が訪れる。
絶望が世界を蝕むなか、金の『隠者』が古書より見つけ出した記述に一縷の望みを託すことにした。
金の『太陽』と金の『月』、そして金の『死神』が力を合わせれば、世界の理に介入し時間を巻き戻すことができる……などという夢物語だ。
常識的に考えれば、その選択は正気の沙汰ではないだろう。しかし、もはや取れる手段は他に何もなかったのだ。
世界を救うため、第一王子らは大博打に挑み――――――結果、彼らはやり直すチャンスを得た。
『彼女にも、帝国の死神帝にも、私と同様の記憶があります。死神帝と協力するため、私と彼女はこれより帝国へ参ります。父上……いえ、陛下。どうか、王国をお願いいたします』
第一王子の言葉に応じ、その隣に並んだのは、金の『月』であり彼の再従姉妹にあたる公爵令嬢――ゲームのライバル令嬢のこと――である。まだ小さな少女は、何にも怯むことなく見事な口上と淑女の礼を披露した。
幼い見た目にそぐわぬ振る舞いと強い眼差しの持ち主がふたり並び、儀式の間に降り注ぐ陽光を浴びる。
神秘的で異様さもある光景に、その場の誰もが第一王子の言葉を信じるしかなかった。
そうして第一王子と公爵令嬢は、病気療養という形で表舞台から身を隠した。
同時に希望の象徴たるヒロインも匿い、魔の者から狙われぬよう市井に紛れて今も影で動いている。
「学園入学前に一度だけ、僕も帝都に行ったんだ。その時、皇帝陛下に拝謁できたんだけど、前の僕について言われたよ。今度は裏切るな……ってさ。その時は言われている意味がわからなくて釈然としなかったけど、君の言うゲームシナリオとやらが“前”をなぞっているのなら、なんだか納得した」
「王太……第一王子殿下は、その辺りの事情説明は……?」
「単に“前”はそういう可能性があったから、無闇矢鱈と接触してくる人間には気をつけてくれってだけで、詳しくは話してくれなかった。……君の話を聞いて、だいぶ気を遣われていたと改めて思ったよ」
長く息を吐いて肩を落とすアルサングに、モーリアの眉が下がる。
モーリアの知るゲームシナリオと、第一王子の“前”がどこまで一致しているかはわからない。
しかし、第一王子がアルサングの境遇を気にかけていたのは事実であるため、キャラクター設定部分にさほどの違いは無いのだろう。
それを考えれば、第一王子の気遣いも大いにあるあろうが、何よりも彼本人が言いたくなかったのだろうと、モーリアは思う。
きっと第一王子にとって、王太子を裏切るほどに疲れきった“前”のアルサングは、何も知らなかった自分の象徴なのだ。
はじめは、アルサングの裏切り回避のため気にかけたのだろう。けれど、それ以上に孤独な少年を掬い上げたかったはずだ。
「つまり……私がその『無闇矢鱈と接触してくる魔の者側の人間』であると、お疑いに?」
「そんなところ。まあ、話しかけたのは僕からだったけど」
「で、では、疑いはもう晴れ――――――」
「僕の一存で決められることではないから、上に相談するよ。そもそも、君が本当に銀等級なのかも怪しくなってきたし」
「えっ、上って……えっ?」
思いがけない言葉が耳に入り、モーリアの心臓が跳ねる。もしかして、アルサングの個人的な警戒だけではなく、国から本格的にマークされていたのだろうか。
焦ったモーリアの不用意な行動が、既に家や領地に不利益をもたらしているのかもしれない。それを考えるだけで、目の前が真っ暗になりそうだ。
「だから無駄に疑惑を深めないためにも、あまりひとりで行動しないように。……ああ、可能な限り僕と一緒にいたほうがいい」
「それは、その……別の疑いを呼んでしまうのでは? いえ、私ではなく先輩が、ですが……」
貧血寸前でふらふらになりそうなモーリアはうまく働かない頭で考え、アルサングの提案に戸惑う。
年齢も性別も違うふたりが、四六時中といっていいほどに共に居るとなればそれは――婚約者や恋人みたいではないか。
モーリアの現在の状況は、彼女自身が迂闊だったからだ。アルサングは、モーリアを見極めるために近づいていただけである。そんな彼に尻拭いの一部をさせるというのは、いささか心苦しい。
「……ん、あぁー……別にいいんじゃないかな。だって君、僕のこと好きでしょ? 僕も君に興味あるしね」
「えっ?」
「ん?」
アルサングは、明日の天気について話すような気軽さでモーリアの心を暴き、穏やかな笑みで自らを開いた。
何を言われたのか理解が追いつかないモーリアは、間抜けにもぽかんと口を空けてしまった。
モーリアは、それを考えたことがなかった。
なぜなら、モーリアにとってアルサングとは、いつか闇落ちするかもしれない「キャラクター」だったから。
前髪と眼鏡が隠した端正な顔にいくら見惚れようとも。
本のページを捲る長い指先に焦がれようとも。
困った時に導いてくれる落ち着いた声に安堵しても。
こうして直々に尋問されていても、アルサング本人には微塵も恐れを抱いていないことも。
モーリアは、そこにある感情を深く考えたことがなかった。
なぜなら、それに気づいてしまったら、未来がもっと怖くなると思ったから。
※
モーリアはあれよあれよと流されて、王城で偉い人たちと話をすることになり、王都の大聖堂で奇跡の鑑定を受け――まごうことなく銀等級だった――て、アルサングの婚約者になった。
元から共にいる姿をよく見られていたこともあり、学生たちはふたりの婚約を当然のことだと受け入れ、悪評を覚悟していたモーリアは拍子抜けした。
「そりゃあ家格の差はあるけど、僕は所詮養子だからね。長い両片思いの末に僕のアピールが君にようやく通じたと、友人たちに盛大に祝われたよ」
「こちらも……その、私がずっとお慕いしていたって周囲に思われてたみたいで……。私ってそんなにあからさまだったんです……?」
「うん、わかりやすかった。君って、表情を隠すの下手だからね。僕を見つけた時の君の様子、詳しく知りたい?」
「う、うう……遠慮します……」
貴族の必須項目ともいえるポーカーフェイスだが、どうやらモーリアは不得意な側らしかった。
顔中に熱を集めながら、モーリアは両手で顔を覆う。穴があったら入りたいほどに恥ずかしい。
「可愛いんだよ。図書館だとね、真剣な顔をしていたのにふっと表情を緩めるんだ。それに、よく僕を見ながら手を止めているときが――」
「遠慮しますって、言いましたー!」
ふたりぶんのランチセットを広げたいつぞやの四阿で、並んで座りじゃれ合う関係になっていた。
なお、風に暖かさを感じる季節になったが、モーリアとアルサングがよくここに居るので他の学生は気を遣って近づいてこない……らしい。実に恥ずかしいと、モーリアは思う。
モーリアは、あの尋問からアルサングともっと深く関わるようになり、彼がゲームの「アルサング」とは大きく違う存在であると実感する。
義家族とは変わらず距離があるのだが、ゲームシナリオのものより温かい関係ではあるようだ。
王家とは程良い距離で交流を続けていて、他国の実母とも手紙のやり取りをしている。
「僕は裏切らないよ。今の僕にはモーリアがいるしね」
「そうですね。私が絶望させませんよ、世界のためにも」
「そこは僕のためにって言ってほしいな」
「……世界のためです」
自分だけの愛を求め続け、その末に壊れた「アルサング」はどこにもいない。
あとは、世界の危機がなんとかなれば文句なしのハッピーエンドだ――もちろん、それが一番難しいのだが。
モーリアは少し拗ねた様子を見せるアルサングの口に、サンドイッチを押しこんだ。
※
――それから数年後、世界中が大きく揺れた。
さらにしばらくが経った頃、病気療養中だった第一王子と公爵令嬢が、前触れもなく王国の社交界に姿を現した。
彼らの病気療養は表向きの理由で、実際は皇帝と共に帝都での革命運動の鎮圧にあたっていた。その功績により、帝国内においての王国の地位が向上したと発表される。
同時に第一王子が立太子され、公爵令嬢との婚約も発表。突然の吉報に、王国は大きく湧いた。
そんな騒動に先駆けて、モーリアは彼らと挨拶する機会に恵まれていた。アルサングと共に茶会の席が設けられ、帝国での話を聞いた。
帝都に紛れ込んだ第一王子とライバル令嬢である公爵令嬢は、死神帝と協力してそれぞれの立場から神殿を監視。動きがあれば都度対処し、必要があれば泳がせ、魔の者の影響力を抑えることに尽力し続けた。
状況は膠着したまま年月が過ぎ、やがて密命を帯びたヒロインも合流することになったのだが、どういう理由か彼女も前の記憶を持ち越していたのだという。
再会を涙で喜びあった彼らは、事態の解決に向けて結束を固くした。
前で誘拐されたヒロインの記憶から、今までノーマークだった人物が浮上する。
念の為に、その人物の監視を続けていれば、ひとつの暗殺計画が炙り出された。対象は、とある公国の幼い姫である。
計画はある程度泳がされた後に潰され、姫は現在も健やかに成長している。
帝国の下位貴族が複数絡んでいた計画だったため、大公妃が荒れてワイン相場も荒れた。あれは結局、皇帝が少し口を出して沈静化したのだった。今となっては懐かしい思い出である。
なお、暗殺計画を潰した後に判明した事実なのだが――公国の姫はなんと、もう一人の金の「太陽」の持ち主だった。
そこからの展開は、怒涛のようだったという。
ふたりぶんの金の「太陽」は強く願った。その願いは共鳴し、大空を揺るがした。
そして、その衝撃は深い眠りについていた創造神を呼び起こす。
目覚めた創造神と魔の者は相対し――――敗れた「魔」はこことは違う次元に封印された……らしい。
――それは、見事なまでのデウス・エクス・マキナであった。
話を聞いたモーリアは、もはやおぼろげなゲームの記憶を呼び起こす。
ゲームのハッピーエンドでは、「魔の者」はヒロインらによって倒されたものの、消滅したりはしていなかったはずだ。
皇帝は戦いの最中で死に、帝国という組織は壊滅。だが、荒れた国々がそれぞれ再起する――という、未来に希望を見出すエンディングである。
帝国は健在、王国は地位を上げ、世界の破滅は無事に回避した。
人間社会である以上、小さな争いはそこら中にあるが……おおむね平和だ。
学園を卒業したモーリアは、外交官の妻として帝都へ派遣されることになった。
腹芸ができぬ人間に外交官の妻が務まるのかと、アルサングに泣き言をぶつけたこともある。その時は「全員が全員腹黒だと息苦しいから、君はそのままでいてほしい」と慰められた。
実際、彼から求められたのは情報サポートだったので、モーリアの不得意項目はあまりバレていない。……いまのところは。
そんな風に、魔の者が消えた世界は、モーリアが知らないことで満ちている。
結婚時に国王から「息子を頼む」と頭を下げられてモーリアが失神しかけたり、駆けつけたアルサングの母に泣かれたり。
王太子になった第一王子と、ゲームのライバル令嬢だった公爵令嬢の仲睦まじさに感激したり。ゲームのヒロインが、非攻略対象なはずの第一王子の侍従と恋に落ちたり。
その他の金の奇跡持ちの攻略対象たちも、華々しく活躍している。
アルサングは血筋も金等級の奇跡も隠したまま、ただのひとりの人間として笑っている。
だからモーリアもモブとしてモブなりに、アルサングと共にこの世界で生きていくことにした。
天秤少女改稿中に思いつき、そこから派生した短編でした。
なお、設定をちょっと流用しただけで、キャラや世界観の繋がりとかは全くないです。
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