間章「名を持たぬ夢」
夜の診療所。部屋の明かりが落ち、外では風が木々を揺らしていた。 エルフスリスは浅い眠りの中、夢を見ていた。
霧のなかに、白い石の道があった。どこまでもまっすぐで、誰の足跡もついていない。 その先に、誰かが立っていた。背は高く、顔は見えない。ただ、灰色の外套をまとっている。
「……あなたは?」
声が出たはずなのに、音にならなかった。 その存在は静かに振り向く。
“おまえは、まだ名前を持っていない”
頭の奥で響くような声だった。 名前ならある、と言いかけて、やめた。 “聖女”でも、“ベオルンヘルムの令嬢”でも、“あの方”でも、“あなた”でもない―― そう呼ばれ続けて、エルフスリスは、自分の声で自分の名を口にすることを忘れていたのだと気づく。
道の先にいた影は、一歩だけ、こちらに歩み寄った。 その瞬間、石の道の端が崩れた。 白かった石が、黒く変色し、ゆっくりとひび割れていく。
“声を失ったとき、影が這い出る” “おまえの祈りは、届かなくなる”
言葉の意味はわからなかった。だが、そこにあるのは予感だった。 冷たく、ゆっくりと侵食してくる、遠くて近い“なにか”。
――けれど。 彼女はそこで、ほんのわずかに笑った。
「私は……まだ祈れるわ」
小さな囁きだったが、道の端に残った白い石が一つ、ぱきりと音を立てて再び元の色に戻った。
そのとき、目が覚めた。
部屋は暗く、窓の外では霧雨が降っていた。 エルフスリスは静かに体を起こし、掌を胸に当てた。
名前を呼ばれるより先に、まず祈ろう。 “私”という言葉を、心の中で繰り返しながら。