第5話 猪と蜂蜜の午後
昼過ぎの診療所には、かすかに干し草の匂いが漂っていた。エルフスリスは棚に並んだ薬草の束を見上げながら、次に調合すべき分量を頭の中で計算していた。
静かな午後。 外では木々が風に揺れ、遠くから猪の鳴き声が聞こえてくる。この土地では猪がよく出る。食用としても狩られており、町の広場で燻製にされる匂いが風に混じって届くこともあった。
「うわ、だめだ、やっぱり無理!」
背後からドアが勢いよく開き、明るい声とともにブリュンヒルドが入ってきた。
「また何かやらかしたの?」
「包帯、逆に巻いてた……オズワルド先生に怒られた」
エルフスリスは苦笑しながら、黙って新しい包帯を差し出した。
「ありがと。あ、そうだ! 蜂蜜もらったの。パンに塗って食べると最高なんだって」
「蜂蜜?」
「そう! 隣の村の蜂飼いさんが、こっちに来てたの。瓶ひとつだけだけど、分けてくれた」
ブリュンヒルドは嬉しそうに布袋を抱えて見せた。手拭いで丁寧に包まれた瓶には、黄金色のとろりとした液体が見える。
「あとでお茶の時間に一緒に食べようよ」
「……ええ」
こうして彼女と過ごす時間は、不思議なほど落ち着いていた。まるでずっと昔から知っていた人のように、距離が近い。
それは、ブリュンヒルドがあまりにもよく笑い、よく泣くせいかもしれなかった。
「なあ、エル。あんたって……なんでそんなに平気な顔してるの?」
「……どういう意味?」
「いや、その……診療所の人たち、たまにキツいこと言うし、患者さんもわがまま言ったりするし。でもあんた、ぜんぜん怒らないじゃない」
「怒ることもあるわよ。ただ、顔に出ないだけ」
「ふーん……昔は違ったの?」
エルフスリスは少し考えてから、静かに答えた。
「昔は……もっと、泣いてたかもしれない」
「泣くの、だめなの?」
「だめじゃない。でも、泣いても変わらないって思ったら、泣けなくなっただけ」
ブリュンヒルドはそれを聞いて、真剣な顔になった。
「泣けないって、ちょっと、もったいないかもね」
「……そうかしら」
「うん。泣いてスッキリしたら、また笑えばいいんだよ」
その言葉に、エルフスリスは初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。
午後の光が、蜂蜜の瓶の中で静かに揺れていた。
その頃、町の北の森では、数日前にはなかった“地の歪み”が生まれていた。小動物が近づかなくなり、瘴気を含んだ花が一輪だけ咲いていた。
けれど、その異変にまだ誰も気づいていなかった。