挿話2 聖女になった少女
石の床は冷たく、祈りの言葉は今日も口の中で宙を舞った。
大聖堂の奥、聖女の間と呼ばれる部屋。壁にかかる織物はすべて純白で、床には香草が撒かれている。だが、その白さと香りは、キネウィンにとってむしろ息苦しさの象徴だった。
「……キネウィン様、祈りのお時間です」
侍女の声に、彼女は小さく頷いた。
毎日三度の祈り。食事前後の浄化の儀。すれ違うすべての者への微笑。
——私は、いま“聖女”なのだ。
そう言い聞かせるように、彼女はゆっくりと立ち上がった。
けれど。
聖女となってからというもの、夢を見るようになった。
最初はただ、何かが囁いているだけだった。
意味は分からなかったが、不思議と心に残った。
だが日を追うごとに、その“誰か”の姿が見えるようになってきた。
——灰色の男。
灰のような髪。灰のような衣。
壁の隙間、影の向こう、誰もいないはずの空間に、確かに立っている。
そして、こう言うのだ。
「君の声は誰にも届かない。君は名を持たぬ器でしかない」
「……違う」
キネウィンは声に出して否定する。
違う。私は、選ばれた。
大聖堂で、神託によって選ばれた。
王太子殿下が、私を……
「君は選ばれたのではない。空いた“座”に、形を与えられただけだ」
言葉は夢の中のものだった。
けれど、それが本当でないという確証は、彼女にはなかった。
祈りの場に立ち、儀式に臨み、人々の視線を受けるたび。
——あの人なら、どうしていたのだろうと考えてしまう。
エルフスリス。
自分が“代わりに立たされた”その人の名。
「私……聖女ですよね?」
夢の中、灰色の男は静かに首を横に振る。
「君は“真名”を持たぬ。ただの代替だ」
キネウィンは、夢の中で涙を流していた。
けれど目覚めれば、何も変わらぬ祈りの時間がやってくる。
彼女は、今日も聖女の装束を着て、笑顔を作る。
誰のために祈っているのか、それが分からなくなりながら。