挿話1 王太子エードリク・シニングズ
祈祷の鐘が、王都の空に鳴り響いていた。
冷たい朝の空気を割って、その音は高く澄んで、けれどどこか虚ろに響いた。
王宮の北棟、玉座の間へと続く私室の書斎にて、王太子エードリク・シニングズは黙然と机に向かっていた。
前夜の祝祭の余韻は、もう王宮のどこにも残っていない。華やかな式典、敬虔な祈り、民衆の歓声。
すべては形として整えられ、そして過ぎ去った。
残ったのは、静寂。
いま彼の手元には、一冊の古びた本があった。
王家に代々伝わるとされる記録、だがその存在を知る者は少ない。
王宮の書庫にある古びた書物。数ある古びた書の一冊、歴史書とも寓話ともつかない物語が綴られている。
歴代王がとりたてて大事に受け継いできたようなものではなく、埋もれるようにただ存在していただけの書物。
エードリクは、黙ってページをめくっていた。
ページの端は風化しかけており、わずかに手を滑らせれば文字ごと崩れ落ちそうなほどに脆い。
『神の御座に背を向けし時、影より這い出でるものあり。
それを人は、“不死王”と名づけたり』
そこに記されていたのは、正史には登場することのない“存在”の記録。
神話とも民間伝承とも判別がつかない、遠い記憶の狭間に埋もれた物語、
かつて世界を死で包んだ“影”。
その書には、王家が災厄にあい見える時、傍らにあったとされる存在——聖女についても記されていた。
「……だが“聖女”は、もういない」
エードリクは小さく呟いた。
否、正確には、“その力を持つ者”を自ら手放した。
元・聖女、エルフスリス・オブ・ベオルンヘルム。
誰よりも清廉であり、誰よりも強く、そして自分にとって誰よりも遠い存在だった少女。
王太子であるエードリクにとって、“自分の意志”で動かせない存在は不安要素でしかなかった。
——制御できぬ力は、信頼には足りぬ。
幼少の頃から彼女を見ていた。
笑顔を浮かべることは少なかった、しかし人の痛みを見て見ぬふりができない。
聖女が王家と共にある存在であれば、癒す相手には選別や優先順位も生まれる。
だが聖女エルフスリス・オブ・ベオルンヘルムは、目の前にある痛みを見すごすことができない。
選別や優先順位などおかまいなしに、彼女が誰かの傷に手を当てるたび、周囲の空気ごと巻き込んで何かを変質させた。
「……お前には何が見えていた、何がしたかった?」
言葉にならぬ疑問が、唇の内側にとどまる。
彼女の力が、“祈り”だけで奇跡を起こすものであれば——便利を通り越して王家どころか、この国の統治基盤すら揺るがしかねなかった。
だからこそ、王家から神殿からその存在を切り捨てた。
神託の名を借りて、静かに、血を流さずに。
傷を癒やし、瘴気を祓うことは、他のものにもできる。
強すぎる力は毒だ。全身に、王国中に回らぬうちに毒を排除した、ただそれだけのことだ……。
エードリクは椅子の背にもたれ、重く目を閉じた。
——自分の決断は正しかったのか。
答えは出ない。
だが、王太子である限り自分は誰よりも正しくあらねばならぬ。迷うことがあってはならない。
「玉座につくとは、常に選ぶことを強いられる。その繰り返しだ」
それが、彼の覚悟だった。
窓の外、遠く王都の尖塔の先に、朝の光が差し込んできていた。
書斎に一人、影を落としながら、彼は再び本を閉じた。
ただ、その最後の一文だけが、頭に焼きついて離れなかった。
『不死王は、聖女の声が届かぬ時、影より目覚める』