第3話 治癒士と冒険者と診療所の日々
ヘズレアの朝は早い。
空が白むころ、森の猪が鳴き、野の鳥が一斉に声を上げる。
診療所の調剤室に、薬草の乾いた匂いと小さな焚き火の煙が漂っていた。元聖女であるエルフスリスは、診療所の臨時サポート治癒士として働いていた。
「これは炎傷用。煮詰めすぎると効きすぎて痛むから、色が変わる直前で止めるのがコツ」
「うん、分かった。見ててね」
元気な返事をするのはブリュンヒルド。エルフスリスと同じくらいの年齢の女冒険者である。あるとき冒険者ギルドの女頭領、ミルドギフに連れられてきて以来、いついてしまったかのように毎日診療所に顔を出している。
手先が器用なわけでなく、薬草の名前をよく混同する、包帯の巻き方も覚束ない。それでも診療所の手伝いを通じて治療技術を覚えることが、冒険者としての自分に役立つと信じて、毎日のように姿を表す。
見よう見まねということもあり技術においては拙いが、誰かが痛がれば一番に駆け寄り、泣く子には頭をなでてやり、怒鳴る男にもまっすぐ向き合う。怪我や病を患った者が集まる診療所であるのに、彼女がいるだけで、柔らかい雰囲気の空間となっていた。
「聖女様っておとなしくて神秘的な存在かと思ったら、案外普通に優しくて無口なだけだった」
と笑うブリュンヒルドは、エルフスリスの“普通”をとても軽やかに受け止める。
「……普通ってどんなものかしらね」
「ん? なんか言った?」
「いいえ、何でもないわ」
診療所には年配の責任者、オズワルド医師も常駐している。公爵家の庇護を受けている施設であることもあり、エルフスリスの滞在は形式的に整えられ、やや堅苦しいものになるはずであった。
だが、形式や役職にとらわれず、ただ“人として”向き合ってくれるブリュンヒルドの存在は、エルフスリスにとってとても新鮮であり、彼女の診療所での日々に変化をもたらしていた。
ウィンフレズは調合と外来の合間に獣討伐にも出ているため、所内でふたりが顔を合わせる時間は自然と長くなっていた。
「ちょっと、これ見てて。火、弱めてって言ったでしょ!」
「あっ、ごめん、火を見てるとテンション上がっちゃって……とか言ったら怒る?」
「怒らないけど呆れるわ」
こんなふうに笑い合う時間が、いつのまにか当たり前になっていた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、外で騒ぎがあった。
魔獣に襲われたという若い冒険者が担ぎ込まれた。肩と脇腹に深い裂傷。紫黒の染みが広がりつつある。
「瘴気の浸潤が始まってる……オズワルド先生は不在、今すぐ対応できるのは……」
「……わたしが担当します」
エルフスリスが一歩前に出て、青年の傷口にそっと手をかざす。
空気が、凪いだように静まり返った。
術式も詠唱もない。ただ、祈るように目を閉じるだけ。
彼女の掌から淡い光が広がり、紫黒に染まっていた皮膚がゆっくりと薄れ、血の色が正常に戻っていく。
瘴気が、痕跡すら残さず、ふっと消えていった。
「待って、それだけで? 結界とか結晶とか、治癒魔法に必要な手順ってものがあるでしょう?」
「……王都では、このやり方だったから」
「聖女ってみんなそうなの?」
「他人のは見たことないから分からない。最初は結界とか術式とか教わったんだけど、……あまり使ったことはなかったかな」
それは説明でも自慢でもなく、ただの事実。
静寂の中、ブリュンヒルドがぽつりと呟いた。
「……すご……い」
それはまるで、怪我があったという事実をなかったことに一瞬で塗り替えるように、何かが“消えた”瞬間を目撃した者の声だった。
誰もがそれ以上言葉を出せなかった。
ただ一人、“祈っただけ”の少女がそこに立っていた。