第2話 霧と猪の町、ヘズレア
馬車が止まったとき、遠くで猪の鳴き声が聞こえた。
乾いた土と、苔むす石のにおい。森の濃い緑が、霧にかすんでゆらめいている。
「……懐かしい音」
エルフスリスは荷車からゆっくりと降り、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
王都の鋭い石の匂いと違い、ここでは風が柔らかい。湿り気を帯びた空気は、土と命の匂いがした。
町の名はヘズレア。王国の西方、辺境に近い小さな町。
舗装されていない道、瓦屋根よりも藁葺きの家が多く、町の北端には古い石環が残っている。誰が作ったのかも分からないその遺跡を、人々はただ「石の輪」と呼び、特別な日には静かに手を合わせる。
町の人々の暮らしは質素だ。魔獣の襲撃を避けるため、夜の外出は控えられ、家々には乾燥させた薬草と木製の護符が吊るされている。
けれど、どこか穏やかで、落ち着いた土地だった。
「まさか本当に来るとはな……」
待っていたのは、粗野な革の外套をまとった青年。褐色の髪を無造作に括り、背には薬草鞄を背負っている。
「ウィンフレズ……久しぶり」
「聖女様、公爵令嬢様が、来るような町ではないんだがな。何があったのかは聞かないぜ」
皮肉ではなく、照れたような笑みだった。彼の笑顔に、エルフスリスはほんの少しだけ眉を緩めた。
「困ったように笑うのね。まるで昔あった時みたい」
「昔あったとき?」
「初めてあったとき」
「やばかった俺が助けてもらった時か。恥ずかしいから忘れてくれると助かる」
ふたりは小さく笑った。
父・ベオルンヘルム公爵が納める地であるヘズレアに、エルフスリスは何度か来たことがある。子供の頃を除けば、聖女として治癒の巡回としての滞在であった。聖女として訪れた地は多くあったが、この地の空気は深く彼女の記憶に残っていた。
「荷物、持つぞ。宿は俺んとこに決まってる。診療所と兼ねてるから、都合もいいしな」
「……ごめんなさい、迷惑をかける」
「迷惑だなんて思ってねぇよ。頼ってもらえたみたいで嬉しいぜ。気が済むまで自由にしてくれたらいい」
彼の声には、気取ったところも、見返りを求める色もなかった。
とはいえ、未婚の令嬢が独身男性と二人で暮らすなど、ありえないこと。診療所には責任者である年配の医師・オズワルドが常駐しており、建物も公爵家の庇護下に置かれていた。エルフスリスには離れの一室が用意され、彼女の滞在は形式的にも“巡回治癒士の一時宿泊”として整えられていた。
それでも王都と比べれば、ここはあまりにも静かで、自由で、心の負担が少ない場所だった。
王都では誰もが言葉に裏を隠し、優しさにも形式と計算があった。
けれど、この町では、言葉はまっすぐだった。
霧が流れ、森と町の輪郭がぼやけていく中、エルフスリスはほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
彼女の“再出発”は、誰も知らない小さな町から始まった。