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挿話3 白百合の決意

 王宮の回廊を歩くとき、エセルバは常に絹の音をまとっていた。

 その歩みは静かでありながら、誰の目にも止まるように設えられていた。


 彼女は王宮にあっては王妃であり、神殿においてはマーテル・マグナ(至聖導主)であり、そして人としては王太子エードリクの母だった。


 体調の思わしくない王に代わって、エードリクの玉座継承が目前に迫る今、その立場はかつてよりもはるかに重く、鋭いものになっていた。


 「……すべては、民の安寧のために」


 それが彼女の口癖だった。

 だがそれは、民を愛する思いからでる言葉ではなかった。

 混乱は弱者を踏みにじり、強者を暴走させる。彼女にとって「安寧」とは秩序の別名だった。

 王家による秩序を徹底すること、それこそが「民の安寧」であった。


 大聖堂の一室、内部禁書庫と呼ばれる小部屋で、エセルバはある術式の巻物を手にしていた。


 その紙は湿り気を帯びており、少しでも強く扱えば崩れそうなほどに古い。


 「まだ早い……予兆は顕れていない」


 巻物に記されていたのは、極北に封じられた存在についての警告。

 巻物には、封じられた存在が蠢く時を知らせる術式がかけられていた。


 巻物には、こう記されている。

 封じられた存在「<死の竜>は千年にわたる怨嗟が満ち、御使い絶えしとき、影より蘇る」


 その予兆となるのが<不死王>。

 死の竜が現れる以前、その前兆として蘇る“王”。


 王家にのみ伝わる口伝によれば、かつて王国は<不死王>により、すべてを失いかけた。

 <不死王>を封じなければ封じられた存在がもたらす厄災により、王国は消え去っていたかもしれない。

 だが、<不死王>は封じられ厄災がもたらされることはなかった。

 <不死王>を封じたとき、大きな役割を果たしたのは、歴史に名を残すことがなかった一人の聖女だったという。


 だが王妃エセルバは、今世の聖女にその座を失わせた。


 「制御できぬ力など……。民は敬意と恐怖を混同する」


 秩序こそが「民の安寧」。

 だからこそ、エードリクにあの決断を勧めた。

 血を流さぬ追放。祭祀としての交代劇。


 あれは、間違いではない。……はずだった。


 けれど、封印を維持する術式の中枢に、ここ数日微かな揺らぎが見える。

 数百年ものあいだ乱れたことのない構造が、わずかに歪み始めているのだ。

 封印のほころびを、巻物にほどこされた術式が告げているとも思える。


 「<不死王>は確認されていない。いまはまだ……」


 壁に飾られた白百合の刺繍を見上げる。

 それは、かつて自らが王妃になってまもない頃、手ずから刺したものだった。

 清らかさと、静けさと、理想。


 ——白百合は、ただ美しくあるだけでは足りぬ。

 根を張り、棘を隠し、毒を忍ばせてこそ、王家の花たり得る。


 エセルバは静かに巻物をしまい、部屋を出た。


 彼女は信じている。祈りも、統治も、秩序も。

 かつて少女が刺繍に込めた想いとはまったく異なってはいたが、変わらぬ力強い想い。

 それは、秩序によって<不死王>を封じるのだという決意であった。

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