第1話 公爵令嬢、聖女の務めを解かれる
王都大聖堂。荘厳な石の柱に囲まれたその中央には、今まさに退任の儀式が行われていた。
「……エルフスリス・オブ・ベオルンヘルム嬢。貴女は本日をもって、聖女の務めを解かれます」
静寂が降りた。祈りの歌が消え、空気がひとつ息を呑む。
白銀の装束を身にまとい、教皇の隣に立つ王太子エードリクは、儀礼的な口調でその言葉を告げた。
エルフスリスは、神殿の中央に立っていた。白い祈祷衣に身を包み、表情一つ変えず、ただその宣告を受け止めていた。
隣には、新たな聖女に任じられた少女、キネウィン・オブ・レオウィン。まだ十五にも届かぬ、金髪碧眼の少女。おずおずと立ちすくむようにして、視線は足元に落ちている。
「これは神託によるものです」
その一言に、わずかに場がざわついた。だが、貴族たちは口を噤んでいた。公的な場で異を唱える者はいない。
「……承知しました」
エルフスリスの答えは、短く、静かだった。 その瞬間、祭壇の空気がひりついた。誰かが見えない絃を断ち切ったかのように、魔力の流れが微かに歪むのを感じた者もいただろう。
だが、誰もそれには言及しなかった。
「これまでの奉仕に深く感謝を。退任後の処遇については追って連絡を──」
王太子エードリクの言葉の途中で、エルフスリスはくるりと身を翻した。白い祈祷衣の裾が音もなく揺れ、彼女は高殿から退いた。
誰も彼女を呼び止めない。新たな聖女の祝詞が始まる中、エルフスリスの姿は、最初からそこになかったかのように扱われていた。
だが。
――私は、見た。
キネウィンの手のひらに浮かぶ魔素のゆらぎは不安定で、制御されていなかった。エードリクの視線は、彼女を見ていなかった。観衆を流し見るように、空虚だった。
あれが“聖女”だというのなら、私は何だったのだろう。
儀式の場をあとにして、彼女は振り返ることなく歩いた。
◇ ◇ ◇
馬車の窓から見える王都の景色は、ただの石と煙の街だった。
「……お茶でもお淹れしますか?」
メイドが気遣うように声をかけてきた。
「あ、うん……ありがとう」
そう返したが、嬉しさの表現はうまくできなかった。笑えばいいのか、声を弾ませればいいのか。正解がわからない。
――この子も、私に気を遣っているのだろう。“聖女を解かれた娘”に対して。
そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「……ごめんね。私は……」
続きは言えず、カップを両手で包むだけだった。
公爵邸へ戻っても、父も母も兄も、何も言わなかった。
「……戻ったか」
父・ベオルンヘルム公爵はそれだけを告げ、執務に戻った。母は視線を合わせず、兄も形式的な労いを一言述べて部屋を去った。そこに非難も、憐憫もなかった。
期待される通りであろうとしていた自分、そうなることができなかった自分。役割を果たすことが、家族との繋がりであったのかもしれない。これからは家族の期待に応えられる自分ではないのだと気付かされる。
エルフスリスは、それが一番つらかった。
◇ ◇ ◇
その晩、誰も来ない屋敷の裏庭で、彼女は静かに祈った。
長く、深く、静かに、ただ手を合わせる。
誰にも見せないその祈りには、術式も詠唱もなかった。けれど、空気が静かに澄んでいく。
蔦のからまる石壁に沿って、小さな花がふたつ、夜に咲いた。
誰も知らない。
けれど、彼女がいた空間だけは、確かに変わっていた。
エルフスリスにとって“祈り”とは、そういうものだった。