命について 1
夏の日差しが簾を溶かすように思われる正午であった。私は鎌倉にある祖父の家にお邪魔していた。祖母のいれた麦茶を傾けながら、コップに擦れる氷の音を聞いて涼んでいた。先だって、A教授が子規の「仰臥漫録」を読むように勧めてきたものだから、風鈴の懐かしさと、少し褪せた扇風機の永遠と回り続ける羽を肴に、私は子規を開いた。
しかし、どうして子規とは対面できそうにない。彼の歌を詠んでいると、どうも糸瓜の青さと有名な横顔とが滑稽に感じられて、歌どもの哀愁が馬鹿らしくなってくる。
そうして一人苦笑していると、子規が呪ったか、腹痛だ。私は便所へ急いだ。祖父母の家とはなんとまあ不思議な間取りをしていることか、あるべき場所には便所がなくて、徒に長い廊下があって、客間があって、さあ着いたと思うと、祖父が入っている。老人は起床は早いが、小便は遅い。仕方がないので私は無様な格好で待ったのだが、畢竟ロダンの所謂考える人の格好が落ち着く。さて祖父は扉を開けて、孫がそんな格好でいるものだから「おい大丈夫か」と聞くが、元凶に心配されたのじゃあ堪らない。子規に眺められた糸瓜も大凡、こんな調子であったろう。
「仰臥漫録」を詠んで一つ分かったこともある。「生きねば」ということである。学者から言わせれば、皆目見当はずれなのかもしれんが、学者とて子規ではない。どう読んだとて、死人に口なし、ただ私の糧となるばかりである。
さて、生きるとはいったいどうしたものか。生というもの考えて見ると、これまた厄介なものである。飯を食って寝るだけでその崇高な目的が果たされるとも思われない。子規のように歌でも詠んでみるか、
夏風鈴 糸瓜も吾も蚊も 鳴る命かな
あぁ駄目だ。私に歌は向かない。では、散歩でもしてみようか。いいや、子規に不遜だし、第一一人はちと寂しいものさ。取り敢えず、するべき事もないので、家の中を徘徊して見ることにした。
するとなんと今まで気が付かなかったが、この家には至る所に蚊取り線香がある。人間の生存がために、堕ちてゆく蚊達は哀しく憐れな命である。人間の領域を侵犯したとして命までとられるのだから、これは同情するべき問題かもしれん。家などは、人間が後から建てたものに過ぎず、自然とは相容れない存在である。言われなき罪を着せられる蚊君たちを思うと不憫極まりない。ちいとばかり血を吸うのを止してもらうしかない。
蚊にも適用される無法は、そのまま人間にも適用される。人間を生かすための仕事が、いつの間にか仕事を生かすための人間となってしまった。この関係はいつから生じたものか、
生きるとは、なんとまあ難しいものなのだろうか。