第四話「魔王の決意」
鬱蒼とした森に、肉が焦げたような臭いと、顔を顰める程の血の臭いが充満する。
「はぁ…はぁ…はぁ……」
徹は、その臭いを拒絶するかのように口で深呼吸を繰り返しながら、周囲を見渡した。
体が真っ二つになった者。頭と胴が湧けられ、池が出来るのではないかと思える程血を垂れ流す者。そして、肌が焼け爛れ真っ黒になった肉塊が二つ。
「ヴァルター様!」
「お、おわっ!?」
そして、満面の笑みでこちらに走ってくる魔族の女性―ヴィルヘルミーネ。
彼女はドラゴンを彷彿とさせる爬虫類のような太い尻尾をぶんぶんと振りながら抱き着いてくる。
「最後の魔術、助かったぜ!やっぱりヴァルター様はお強いなぁ!」
(ち、ちかぁ!?)
称賛の言葉と共に、接吻でもするのではと思える程顔を近づけてくるヴィルヘルミーネに、徹は思わず赤面する。これまで女性経験が皆無だった男の反応と考えれば妥当だろうが。
「……ん?」
「どうした?ヴァルター様」
「血が……」
ヴィルヘルミーネの頬には、血がついていた。よく見れば腕や足にも。
「ああ、返り血だな。心配してくれたのか?お優しいな、ヴァルター様は」
「……っ」
にこりと微笑むヴィルヘルミーネに、徹は更に顔を赤くする。高鳴る鼓動の音がうるさい。全身の体温が急激に上がる感覚。
だが、仕方のないことだ。徹にとってヴィルヘルミーネというユニットは憧れの存在。こうして直接話すことを夢想すらしてきた。そんな彼女が、自分をヴァルター様と敬い、微笑みかけてくれている。これでときめくなというのが無理な話だ。
「…近くに川がある。そこで汚れを落とすとしよう」
熱くなった頬を冷ましたくなった徹は、なるべく威厳のある声でそう言った。
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ばしゃばしゃと音を立てながら、ズボンの裾を捲ったヴィルヘルミーネが川の中に入っていく。
それをぼんやりと見ながら、徹は現状の整理を始めた。
(俺……本当にヴァルターになっちまったのか?)
先ほど騎士に向かって放った魔術。そして目の前で顔を洗うヴィルヘルミーネ。
この二つこそが、自分がヴァルターになってしまったことの証。
少なくとも、ただの日本人であった徹には魔術は使えないし、何かを召喚する力も持っていない。
(それに……ここはどこなんだ。地球なのか……それとも、異世界ってやつか?)
襲い掛かって来た騎士。彼らの剣や鎧。魔術や魔族という言葉が当たり前の世界。
とてもここが今まで生きて来た現実とは思えない。それよりかはアニメやラノベなんかでよく聞く異世界という方がしっくりする。―それが非現実的すぎるということに目を瞑れば、だが。
(あり得ない…あり得ないが、そう思うしかない。…俺は何故かヴァルターになってしまって、異世界に来てしまった。…『ミレナリズム』の中、という可能性もあるかもしれないが…。ともかく、ここは現実世界ではないということか)
何故そうなったのかは分からない。だが、今自分がやるべきこと。それは―
(とっととこの世界から逃げ出さないと…!)
徹のこめかみに嫌な汗が流れる。
思い出すのは先ほどの戦い。自分に振り下ろされる剣。
もうあんな死にそうな目に遭うのはごめんだ。こんな危険な世界からはさっさと去るのが吉だ。
「ふぅ~。さっぱりしたぜ。ありがとな、ヴァルター様!」
これからの方針を決めた所で、ヴィルヘルミーネが帰ってくる。
彼女の顔を見て、徹の頭の中に一つの可能性が浮かび上がってきた。
「ヴィルヘルミーネよ、この世界から脱出する方法を知っていないか?」
ヴィルヘルミーネは、『ミレナリズム』に登場するユニット。つまりはゲームのキャラだ。
ここがもし『ミレナリズム』というゲームの中の世界なら、その登場人物であるヴィルヘルミーネはこの世界に詳しいのでは。そう考えた結果の言葉だった。
「ヴァルター様は……ここにいたくないのか……?」
「えっ」
しかし、ヴィルヘルミーネの反応は予想外のものだった。先ほどまで笑顔を浮かべていた彼女の目には涙が溜まり、表情は悲しみに染まっている。
「ど、どうしたんだ。なんで泣い――おぶっ」
驚きのあまり素の声が出てしまった徹に、ヴィルヘルミーネは飛び掛かった。その勢いのまま、徹は後ろ向きに倒れてしまう。
「いったた……って、えぇ!?」
背中に痛みを感じた徹の視界には、ヴィルヘルミーネの顔しか映らなかった。先程よりも何倍も近い彼女の顔。最早鼻は触れ合っており、縦に割れた瞳孔が徹の両目を射抜く。
しかし、今度は徹の頬が赤くなることは無かった。
頬に伝うのは、ヴィルヘルミーネの涙だ。
「オレ……オレは、ヴァルター様と離れたくない!せっかくこうして会えたのに…!やっと直接会うことが出来たのに…!」
「な……!」
ヴィルヘルミーネはそこまで言うと、今度は嗚咽を上げながら泣き出してしまった。徹の顔に、雨のように涙が零れ落ちる。
しかし、今の徹にとってそれはどうでもいいことだった。
(ど、どういう意味だ…!?)
ヴィルヘルミーネは『せっかく会えたのに』と言った。だが、ヴィルヘルミーネが『ミレナリズム』というゲームのキャラならば、同じ文明で主従関係であるヴァルターなど数えきれなくらい会っているはずだ。
しかし、彼女は『やっと直接会えた』―そう言った。ならば――
「も、もしかして、ヴィルヘルミーネ…。お前、俺がわかるのか?」
「ひっぐ……ああ、勿論だ」
徹の分かりづらい質問に、全く疑問を持たずに是と答えたヴィルヘルミーネは、涙を流しながらも笑顔を作り、言った。
「トオル様…。オレのただ一人の主だ……!」
「っ!」
(なんてこった…ヴィルヘルミーネは、俺…一ノ瀬徹という人物を理解している…!?)
だとするならば…目の前のヴィルヘルミーネはただの『ミレナリズム』に存在する戦闘ユニットヴィルヘルミーネではなく、徹がこれまで『魔王文明グリントリンゲン』でプレイする際に愛用し、何千回も共に勝利を、そして敗北を味わってきたヴィルヘルミーネということなのではないか。
「オレは…貴方の指揮の下、数えきれない勝利を味合わせてもらった。熱くなる戦闘を何千回もさせてもらった。最高の景色を、幾度となく見せてくれた…。オレの、慕う主だ…!」
ヴィルヘルミーネの涙ながらのその言葉に、徹はようやく確信した。
目の前のヴィルヘルミーネは、自分がこれまで何回も共に『ミレナリズム』で戦ってきたヴィルヘルミーネなのだと。
「だから、いなくなるなんて言わないんでくれ…!あなたがここに、オレと共にいてくれると言うならなんでもする!さっきみたいな奴らがまた来たらオレが全員ぶっ殺してやる!だから…いなくなるなんて、言わないでくれ…トオル様…!ここで、オレたちの…貴方の文明を興そう…いつものように」
「―――」
その言葉に、徹は胸が高鳴るのを感じた。
この世界。現実世界ではないこの異世界で、いつもプレイしている『ミレナリズム』のように、自分の文明を興す。
この胸の高鳴りは、全身を支配する高揚感は安易に拭えるものではなかった。
そして、徹のこの世界から帰りたいという願望は、どんどん薄れていく。
両親は幼くして失い、兄弟もいない。友達はいることにはいるが、休日に遊ぶ程濃い関係ではない。自分がいなくても、会社はきっとうまくやっていくことだろう。
そう考えると、徹が現実世界に残した未練は無いと思えてきた。
「分かったよ、ヴィルヘルミーネ」
「え…?」
いつしか、徹はヴィルヘルミーネを優しく抱きしめていた。
「ここで興そう。俺たちの文明を、『グリントリンゲン』を、楽園を。だから、その力を貸してくれるか、ヴィルヘルミーネ」
徹は真正面から、自分の上に覆いかぶさるヴィルヘルミーネにそう言った。
これまでの人生で、いくらでも夢想してきたことだ。
仕事に行き、帰っては『ミレナリズム』をしてまた仕事に行く。そんな暗い毎日から脱出して、いっそのこと『ミレナリズム』の世界で生きていたい。
それがこんな形で叶うのなら、それも悪くないと、そう思ったのだ。
「っ!ああ!任せてくれ!このヴィルヘルミーネ、必ずトオル様の力になるぜ!」
涙を晴らしたヴィルヘルミーネは、満面の笑みでそう言ったのだった。