8 王都の宿
その女性がロビーに姿を現した時、人々のざわめきが止まった。瞬きもせず動くこともできず、視線が切り離せない。見入る。まさに夢中になって見詰め陶然となった。
しぃん、と静まり。宿の広いロビーは、茫然自失状態で木々のように立ち尽くす人々で人間の林ができてしまった。
「い、いらっしゃいませ」
カウンターに立つ初老の男性が声を絞り出す。他の従業員が瞬きと声を忘れてしまっている中、称賛に値する職業意識である。
しかし、相手が悪かった。
声をかけることによって門番と同じく真正面から女性を見てしまったのだ。
「うっ!」
短く呻いて胸を押さえる。心臓が止まりかけたのだ。
美という名前の暴力の直撃を、初老の男性は受けてしまったのである。
美しさを極めた容姿だった。
魅了などと言う言葉では生ぬるい。致死量の毒のような美の化身であった。
個人の好みや嗜好など問題にもならない。
全てをなげうって平伏したくなるような、奇跡の美貌であった。
セイリスに憑依されたティティリーヌである。
『フードを被りましょうか?』
麗しい声が響く。
「い、いいえ。も、申し訳ございません」
胆力を振り絞り、初老の男性が背筋を伸ばして頭を下げる。
「ようこそ、当宿へ。ご宿泊でございましょうか?」
『ええ。でも紹介状がないのです』
初老の男性の額に脂汗が滲む。
紹介状のない、一見の客はお断りの宿ではあるが、この美女を断るなどという空恐ろしいことはできなかった。
『名前も名乗れません。身分も明かせません』
容赦のない追い討ちに、初老の男性は泣きたくなった。
周囲からの視線が初老の男性に突き刺さる。
常の「残念ながら満室でございまして」と言うやんわりとした断り方はできない。美女を追い返そうと考えるだけで、臓腑が冷える。周囲も許さないだろう。
「僕が紹介人になろう」
客のひとりが進み出るが、美女に視線を向けられると声にならない悲鳴を上げて腰をぬかした。
視線をあわせるだけで人が殺せる、とセイリスは言ったが間違いなく美女の美しさは凶器に等しかった。
『身分は明かせませんが、身分の証明ならばできます』
美女が長い黒髪に白い百合のような手を伸ばす。
黒髪に交じって、一筋の銀髪が輝いていた。髪を銀色に染めることは魔法でも染め粉でも不可能である。そして銀髪は王家の色であり、王家と婚姻を結んだ高位貴族のみに時々あらわれるだけであった。
『いかがですか?』
初老の男性は総毛立った。
美女の美貌に目を奪われていたが、マントもマントの下の古風なドレスも一級品だった。流行のドレスではないが特注の逸品であることがわかる品であった。
装飾品も。
首飾りは、信じられないほどの大粒のエメラルドで。
髪飾りは、粒ぞろいの真珠を連ねたカチューシャである。ありえない。天然産の真珠しかない世界で、形のよい丸い真珠の数を揃えるのにどれほどの財が必要となることか。
初老の男性は冷や汗を流してひれ伏した。
「た、ただ今最上級のお部屋のご用意が可能でございます」
『その部屋には何人が泊まれるのですか?』
「寝室が4部屋あるお部屋なので4名様でございます」
美女は満足げに微笑んだ。
ロビーの人々の何人かが恍惚の表情で崩れ落ちる。
『わたしは4人姉妹なので、その部屋に決めます。しかし、名前も明かさない客では不安でしょうから宿泊代は先払いをしましょう。10日ほど泊まりたいのですが、お幾らでしょうか?』
初老の男性はゴクリと唾を飲んで、
「1泊、金貨100枚でございます。10日だと金貨1000枚となります」
と伺うようにおそるおそる言った。
美女は従者をつれていない。フードを深く被った妹らしき少女と手を繋いでいるだけである。
だが、精密画のような繊細な刺繍が施されたバッグから金貨を100枚束ねた塊を、ゴトン、ゴトン、と次々に取り出した。
「ま、魔法袋!?」
仰天した誰かが声を出す。
初老の男性の前には、金貨の塊が20個並べられた。
「あ、あの……?」
『宿泊中に外出をしたいので、馬車と護衛を頼みたいのです。代金が余れば迷惑料として収めて下さい』
「迷惑料でございますか……?」
『この容姿ですので、熱狂者が……』
美女がロビーに視線を流すと、すでに目をギラギラさせた男性が幾人もいた。
生前のセイリスも、その美貌と大神官の地位ゆえにセイリスを盲信する狂信者の集団に悩まされたものだった。
深く頷いて初老の男性は姿勢を正した。
「お任せ下さい。宿泊中は信頼できる護衛を部屋の前にも立たせます。外出も万端の準備を整えさせていただきます」
『ありがとう』
美しく微笑んだ美女に、心臓が停止してしまいそうになるからヤメテクレ! と叫びたくなった言葉をグッと喉に流し込み、恭しく初老の男性は再び頭を下げたのであった。
1銀貨=1000円
1金貨=10000円の設定です。
読んで下さりありがとうございました。