11話 余計な敵を作っちまった
母親の問いに対し、ニヤリと笑ったかのように源蔵の口ひげがかすかに動いた。
「それは圭介次第だろう。庶民の中で生きてきた圭介には、足りないものが多すぎる。これから圭介には英才教育を施すつもりだ。
圭介がそれに耐え得れば、そういう選択肢もあるかもしれん。今のところはわからん」
上流階級で生きていくための英才教育というのは、圭介にとっては願ってもない話だ。
しかし、後継者になりたいのは藍田家であって、神泉家ではない。
――が、源蔵の言葉に妙な引っかかりを覚える。
「選択肢、ということは、他にも候補がいるってことですか?」と、圭介は聞いてみた。
「もちろんいる。智之の息子の一樹。歳は19で東大の1年だ」
「社長の息子が後継者候補としてすでにいるなら、おれが出る幕ないんじゃないですか……? しかも、優秀みたいですし」
「智之の息子といっても、よそに作った子供だからな。血筋ではおまえと変わらん」
「血筋……?」と首を傾げる圭介の隣で、「ちょっと待って」と、母親が間に入った。
「兄さんには義姉さんとの間に男の子が、葵がいるでしょ。葵が後継者じゃないの?」
源蔵はフンと鼻を鳴らした。
「あの女には他に男がおった。葵はその男との間にできた子だった。このわしを長いこと騙しおって」
「義姉さんと葵は今、どうしてるの?」
「葵はその事実を知らされておらなんだ。かわいそうに、それを知った時にバルコニーから身投げしてな。あの女はノイローゼになって、今は実家のある京都で療養中だ」
圭介はその話に背筋がゾッと寒くなった。
内容もしかり、それ以上に、人ひとり死んだというのに、淡々と語る源蔵が怖いと思ったのだ。
まるで無関係な新聞の記事を話題にしているようだ。
「お父さん、どうしてそんな仕打ちができるの? 兄さんと早苗さんを無理やりに結婚させたのはお父さんだったのに。あたし、知ってたのよ。早苗さんに好きな人がいたってこと」
「それも神泉家のため。仕方ないこと」
「だから、何?」と、母親は気色ばんだ。
「何のためにもなってないじゃない。二人が犠牲になっただけで、今の神泉家には正当な後継者もいない。お父さんは間違ってるわ。だから、あたしは嫌だったのよ!」
「わしは神泉家当主としてなすべきことをしているまで! わしが当主でいる限り、今までもこれからも神泉の血を守り続ける。この家を出て行ったおまえにとやかく言われる筋合いはない!」
源蔵の一喝に、母親とともに圭介も震えた。
祖父と母親の確執は、圭介の思っていたものより根深いものがあったらしい。
それが何かはわからないが、『神泉家の当主』の『血筋』への執着は普通ではないと感じた。
「……それなら、なおさら圭介をここに置くわけにはいかないわ。帰るわよ」
母親はそう言って、圭介の腕をつかんだ。
「どこに帰ると言う? 家もじきに出なくてはならないのだろう。仕事もない。またどこぞの店で水商売を続けるのか? それで、また同じ目にあうとは思わないのか?」
「それでも、お父さんに圭介を任せられない。あたしは圭介の母親なの。息子の幸せを守る義務がある」
「悪いが、圭介は渡さん。おまえがここにいたくないというのなら、勝手に出てゆけばいい」
「何を言ってるの!? 圭介をひとり置いて、出て行けるわけがないでしょ!」
「おまえもここにいて、圭介の行く末を見守っていきたいというならば、考えてやらんこともない。ただし、ここに判を押すのが条件だ」
源蔵が懐から出した一枚の紙は、離婚届だった。
夫の欄にはすでに記入が済み、署名も印鑑も押されていた。
「あの人に会ったの……?」
離婚届を手に取った母親の顔が、みるみるうちに強張っていく。
「いい加減、目を覚まさんか。あの男は最初から最後までおまえの金目当て。この家を出たおまえに用はない。
だいたい、おまえも圭介も捨てて、他の女と暮らしているではないか。半年前から離婚を迫られていたのに、おまえは応じなかったそうだな。向こうは渡りに舟とばかりに判を押した、と弁護士が言っていたぞ」
圭介は源蔵が明らかにした事実に愕然としていた。
(離婚話なんてあったのかよ……)
それが真実であることは、母親の顔を見れば一目瞭然だ。
母親は返す言葉もないのか、ただ膝の上で固く拳を握りしめ、小刻みに震えている。
「……それでも好きだったのよ。紙の上だけでも妻でいたかった。離婚して神泉の姓に戻るのも嫌だったし。だから、離婚には応じなかったのよ」
「それも潮時ということだ。圭介の将来を考えたら、あの男と別れて、これからの人生をやり直せばよい」
「……お父さんには、あたしの気持ちなんてわからないわよ。神泉の血のためにお母さんと結婚して、愛そうともしなかった。自分の子供にすら愛情を持たない。人を愛することを知らないお父さんに、そんな風に言われたくないわ」
母親の言葉は図星だったのか、源蔵がそれについて返事をすることはなかった。
「こっちの条件は言った。あとはおまえが決めろ」
「今日は疲れたわ。返事は後日、落ち着いてからにして」
母親は青い顔のままふらりと立ち上がると、そのまま部屋を出て行った。
「母ちゃん――」
圭介が母親の後を追おうとすると、源蔵に呼び止められた。
「圭介」
「はい……」
源蔵がひげで隠れていても厳しい顔をしていることがわかる。
母親同様、圭介もまた意に反することを突き付けられるのだと覚悟した。
「藍田の娘と付き合っているそうだな」
そんなことまで調べがついているのか、と圭介はもはや驚くのを通り越して、それが当然なのだと思い始めていた。
金と権力を持つ者は、常人が何日もかけてすることを、どうやってもできないことを瞬く間に成しえる。
ここはそういう世界なのだ。
「はい」と、圭介は素直にうなずいた。
「ならば、さっさと別れろ。傷が浅いうちに」
「どうしてですか?」
「藍田の女は代々魔性の者と決まっておる。男を不幸にする星のもとにあるのだ」
源蔵の言葉に、圭介はあきれたため息が出ていた。
「ジイさんまで『呪い』とか言い出すんですか? この科学の進歩した時代に非科学的なことを。不幸なんて、誰かが意図して陥れようとしているだけのことです」
「それは違う。おまえにもいずれわかる時が来る」
「もしも別れなかったら、僕をここから追い出しますか? それとも、無理やり別れさせますか?」
「その答えは、おまえにもわかっているだろう」
わかっているが、うなずきたくなかった。
圭介を手放さないと、親まで離婚させたのだ。どんな手を使ってでも、別れさせられるに決まっている。
「それでも別れるつもりはありません。そもそもここに来たのも、彼女と釣り合う家柄がほしかっただけのことです。彼女と別れるのなら、僕がここにいる理由はないです。
それに、人の心がそう簡単に変えられないことは、母を見ていればジイさんもわかるでしょう?」
「だから、百合子の二の舞にはせん」
源蔵の断言はすでに変えられない未来を定められてしまったようで、圭介の顔からは血の気が引いた。
だからといって、納得できる話でも、譲れる話でもない。
「ジイさんが何を仕掛けてこようと、僕の気持ちは変わりません。それは僕が身をもって証明して見せます」
やっとのことで桜子と付き合えることになったというのに、神泉家と関わりを持ったばかりに、新たな敵を出現させてしまった。
(こういうの、前門の虎後門の狼っていうのか……?)
次話、圭介は神泉家の面々と初めて顔を合わせることになりますが……。




