15話 据え膳食わぬは……後悔するかも
「圭介、もう他の女の子に触れたりしないで。Hなことしたいなら、あたしがいつでも相手するから」
そう言った桜子の声は苦しそうだった。
おかげで、失いかけていた圭介の理性が頭の中に戻ってくる。
「茜みたいに胸は大きくなくて、魅力もあんまりないかもしれないけど……あたしのことを好きって思ってくれるなら、あたしのワガママを聞いて。もうヤキモチ焼いて、イヤな自分になりたくないの」
圭介の腹の上に重ねられた桜子の手がかすかに震えている。
圭介が抱きたいと思うほどに、桜子は心から望んでいるわけではないのだ。
(ああもう、おれ、何をカン違いしてるんだ……!?)
圭介は恥ずかしさに頭を抱えたくなった。
そもそも桜子は単に自分の想いを伝えに来ただけだった。
そして、ついさっき、互いに気持ちを確かめ合えたところ。
桜子にそこまでの覚悟があったという方がおかしい。
おそらく桜子は圭介が茜と抱き合う姿を見て、2度とそんなことが起こってほしくないと思っただけなのだろう。
圭介は大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせ、桜子の手に自分の手を重ねた。
「おれさあ、おまえのこと、誰とも比べられないくらい最高の女だって思ってんだ。そういうおまえが誰かに嫉妬する必要なんてないんだよ。
だから、そんな理由で抱かれる安い女になるな。少なくともおれが言ってることを信じられるまで待てよ」
「そんなこと言われても、自信持てないよ。今までだって、二人きりになったこと、何度もあったのに、圭介はいっつも平然としてて、あたしばっかりドキドキして……。
それって、女の子としての魅力がないってことじゃないの? 茜に迫られてた時とは大違いだよ」
「あのなあ……」と、圭介はあきれた声が出てしまった。
「それはおまえに女としての魅力があるとかないとか、そういう問題じゃないだろ?」
「どういう問題なの?」
「おれからすると、正直、おまえはずっと手の届かない存在だったんだ。『呪い』のおかげで『友達』として、おまえの1番近くにいられることに満足してた。
だから、それ以上のことは期待しないようにしてたし、そういう目でおまえを見ないようにもしてた。『友達』の関係が崩れる方がずっと怖かったんだ」
「だから、最初『呪い』を解くことに乗り気じゃなかったの?」
「そういうこと。けっこう情けないだろ」
「でも、最後は解いてくれたじゃない」
「それはおまえがつらい思いをしてるのがわかったら。おれの自己満足のために、おまえをいつまでも苦しめておくわけにはいかないだろ?」
「……ホントのことを言うとね、圭介があたしと付き合いたいから、『呪い』を解いてくれたんだって思ってたんだ。だから、海に行っている間に恋人同士になれるのかなって、すっごい期待してたの。
なのに、茜に先を越されちゃって悔しかったし、圭介は本当にあたしのことを『友達』としてしか見てなかったんだって気づいて悲しかった――」
「悪い。おれがモタモタしてたばっかりに、おまえを苦しめて……」
「あやまらなくていいよ。苦しくなったり、悲しくなったりするのは、それだけ圭介のことが好きだからなの。あたし、やっと恋がどういうものかわかったんだよ。それにいっぱい悩んで苦しい思いをした分、今、とっても幸せだって感じるの」
「それは……おれも同感だな」
乾燥機が止まって、部屋の中に響き渡るのは雨音だけになった。それが余計に部屋の中を静まり返らせて、互いの言葉も止めた。
しばらく無言のまま、圭介はこの幸せの余韻に浸っていたかった。
――が、桜子の方はそうではなかったらしい。
「……服、乾いたみたい。そろそろ帰らないと。たぶん、みんな心配してると思うし」
「あ、うん」と、圭介は残念と思いながらうなずいた。
「圭介、こっち見ないでね」
桜子の身体が離れたと思うと、足元に落ちていたバスタオルが消えた。
背後からゴソゴソと衣擦れの音が聞こえてくる。
「もう大丈夫」という声に、圭介はゆっくりと振り返った。
そこにはバスタオルを巻いた桜子が顔を赤く染めて、わずかにうつむいていた。
「どうしよう。今頃になって恥ずかしくなってきちゃった……」
忘れかけていた圭介の本能が、桜子の姿が目に入るなり呼び戻されてしまう。
圭介は火照る顔を隠すように回れ右するしかなかった。
「桜子、頼むからそれ以上、おれを刺激すんな。今すぐどうこうしないって言っても、ギリギリでヤセ我慢してんだから」
「ご、ごめん。すぐ着替えてくるね」と、桜子が部屋を出ていってくれたので、圭介は一気に脱力してその場に座り込んだ。
(おれ、桜子を抱ける日まで、今日のこの日を後悔し続けるんだろうな……)
というより、ムダなガマンをしてしまったようで、すでに後悔の嵐だ。
しかし、自分の4畳半の狭い部屋を見回すと、やはりこれでよかったのだと思い直す。
こんなボロ家で初めてなんて、桜子がかわいそうだ。
圭介は自分の方が桜子のいる世界に上りつめると決めた。
彼女をこの底辺に引きずり落としてはいけない。
桜子を好きになっても、もともと上手くいく可能性などゼロに近かった。そんな夢のようなことが現実となったのだ。
今の自分になら、きっとそれをなしえる。
桜子を本当の意味で幸せにできるかどうかは、これからの自分の頑張り次第。
焦って得することはない。
これくらいのガマンができなくてどうする。
圭介は自分を叱咤激励できるだけの余裕が、初めて持てたと思った。
「お待たせ」
乾いた服を身に着けた桜子が再び姿を見せた時には、圭介の心は落ち着いていた。
「駅まで送るよ」
「うん」と、桜子はうれしそうに笑った。
傘を持って家を出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
「ジメジメしてた心が晴れたら、空もすっかり晴れたね」
アパートの外階段を下りながら桜子が言った。
「さっきの雨、おれのせいだって言われたもんな」
「えー、あたしのせいじゃないの?」
「つまり二人のせいってことだな」
圭介はクスクスと笑う桜子の手を取って一緒に歩き出した。
次話は家に帰った後の桜子の話になります。




