9話 どっちかしか選べないなら
「あたしなら、圭介くんを特別な一人にできるよ」
圭介の狂わされた頭の中に、茜の甘い言葉だけが響いてくる。
「桜子には圭介くんがあたしの初恋の人だって話したの。桜子が協力するって言ってくれたのは、あたしと圭介くんが付き合ったら幸せになれるって、桜子は思ったからなんだよ」
ささやきとともに寄せられる唇、頬にかかる吐息を感じながら、圭介はどうしてか茜の言葉に疑問を抱いた。
その小さな疑問が、本能に支配された脳の中にわずかな理性を取り戻してくれる。
「茜にとっても、おれは大勢の中の一人だろ? おれが初恋の相手だったとしても、今のおまえは一度おれとヤったら興味をなくすんじゃないか?」
一度呼び起こされた理性は、頭の中の霧を一瞬にして追い払った。
同時に茜の動きも止まり、その表情が強張るのがわかる。
「……なんで、そんなこと言うの?」
「同室の男たちが言ってた。茜がモテない童貞男専門だって。確かにおまえみたいな美人がそんな身体で迫ってきたら、普通の男なら簡単に落ちるよな。
けど、バカだな。なんで、おれなんだよ? カノジョがいる奴や好きな女がいる男は誘わないんだろ?
それはおまえの思い通りにならないって、おまえが1番よくわかってるからじゃないのか?」
「……だって、圭介くんは特別だって言ったでしょ」
茜の声がかすれていることに気づいた時、圭介の頬にパタパタとしずくが滴り落ちてきた。
(泣いてる……?)
泣かせるほどのひどいことを言ったつもりはなかった。
とてもではないが、ウソ泣きにも見えない。
どうも圭介の意図しないところで、茜の心の琴線に触れることを言ってしまったらしい。
「特別って、初恋の相手だからか?」
「……それだけじゃない。もう1度、あの頃のきれいな自分に戻れるんじゃないかって……」
茜がもう1度やり直したいと言っていたことを思い出す。
もう1度やり直したいのは圭介との関係ではなく、自分の人生のことだったのか。
今、泣くほどに後悔する何かがあったとしか思えない。
「何かあったのか……?」
圭介は茜を押し戻しながら身体を起こし、涙を落としている彼女の顔を改めて見た。
――と、同時に、パキリと小枝のようなものが折れる音が聞こえてきた。
それは夜のしじまに異様なほど大きく響いて、圭介ははっと振り返った。
少し離れた木陰に人影がある。
ホテルからもれる薄暗い明かりの中でも、桜子だということはすぐにわかった。
(いつからいた……?)
「ご、ごめん。覗くつもりはなかったんだけど、たまたま通りがかって……」
桜子は困ったようにかすかに笑うと、身をひるがえして去って行ってしまった。
はたから見れば、圭介はビーチベンチで茜と抱き合う形になっていた。
そんな圭介を見て、桜子はどう思ったのか。
弁解の余地があるのかどうか計り知れなかったが、このまま桜子に誤解させたままにしておくわけにはいかない。
「ちょ……待て!」
圭介は茜を突き放してベンチから飛び降りたが、茜に腕を取られて無理やり引き戻された。
「行かないで! 一人にしないで……!」
茜の涙まじりの悲痛な叫びを聞いて、圭介は動けなくなってしまった。
茜にはつらい過去があるに違いない。
それを思い出させ、話のきっかけを作ったのは他でもない圭介だった。
こういう時は、最後まで話を聞いてやらなくてはならないと思う。
(桜子なら、あとで話せばわかってくれるよな……?)
圭介は束の間、桜子の去っていった方向と、泣きじゃくっている茜を見比べ、それからベンチにもう1度腰を下ろした。
「わかった。一緒にいてやる。だから、思ってることは全部吐き出して楽になれ」
今すぐ桜子を追いかけないことを、茜を優先したことを後悔するかもしれないと思いながらも、圭介はこうすることしか選べなかった。
次回は茜の打ち明け話になります。
あまりシリアスになりすぎないように、気を付けますが……




