8話 初恋の相手でも、うれしくないケース
圭介はひとり、プールサイドのベンチに座っていた。
待っても待っても、桜子は来ない。
まさかの、ブッチ。
その可能性に行き当たって頭を抱えた。
(いやいやいや、桜子がそんなひどいことをするわけがない! 来ないなら来ないで、ひと言あっていいはずだ)
ここは風呂にゆっくりつかっていて、まだメッセージを見ていないと考える方が正しい。
「圭介くん」
突然の人の気配に、圭介はびくっと反射的に頭を起こした。
「茜……?」
茜はにこりと口元に笑みを浮かべたかと思うと、すとんと圭介の隣に腰かけた。
「桜子に話って何? あたしが代わりに聞いてあげる」
「桜子に頼まれたのか?」
もしも茜がそれで来たのなら、それが桜子の答えになる。
圭介の告白を聞くつもりはないと――。
だいたい、昨日からの茜の勢いを見ていれば、彼女と二人きりになったらどうなるか、桜子だって予想がつくはずだ。
圭介がその相手になるかどうかは別としても。
だから、ウソであってほしいと、圭介は心底思った。
しかし、茜はその質問にどちらとも答えなかった。
「桜子ってね、昔から何でも持っていて、あたしがほしいって言うと、何でもくれたんだ」
茜は足をぶらぶらさせながら話し始めた。
「小学校2年の時だっけ。桜子、お父さんにもらったクマのぬいぐるみ、すっごい大事にしてたんだ。
あたしはそんなに欲しくなかったんだけど、ただうらやましくて、意地悪したくて、わざと欲しいって言ったの。なのに、桜子は『大事にしてくれるなら、あげるよ』って、あっさりくれたの」
「……まあ、桜子らしいのかな」
茜の話がどこに行きつくのか、皆目見当もつかない。
圭介はとりあえず耳を傾けていた。
「だからね、今回も桜子に頼んだの。圭介くんをちょうだいって」
「……バカバカしい。だいたい、頼むなら桜子じゃなくて、薫子だろうが」
「薫子と付き合ってないことくらい、とっくに気づいてるよ」
「……やっぱり?」
「だいたい薫子って、昔から男の子に興味なかったし。あの子の嘘っこ笑顔、他の人はダマせても、あたしには通用しないんだよ」
ふふふっと笑う茜は、昼間圭介に迫ってきた時とは、全然違う顔をしていた。
金髪のギャル風な姿をしていても、目つきが凛としていて、笑みを浮かべた口元には品がある。
そこから感じ取れるのは、ひと言で知性だ。
同室の男たちが言っていたように、茜はバカな尻軽女ではない。頭のキレる女なのだろう。
(こっちが桜子の親友か……?)
「それでも、桜子に頼むのはお門違いだろ。おれら、ただの友達なわけだし」
「それもそっか」と、茜はふっと表情をゆるめて笑った。
「正確に言い直すと、桜子には圭介くんと上手くいくように協力してってお願いしたの。で、桜子はいつものように、『いいよ』って言ってくれたってわけ」
「それで、おまえが桜子の代わりにここへ来たと」
「圭介くん、まだ気づいてない? あたしたち、初めて会ったの、昨日じゃないんだよ」
「まさか」
「あけぼの保育園、年長さんの時、あたしたち、一緒のスミレ組だったんだけど?」
あけぼの保育園は、間違いなく圭介の通っていた保育園だった。
同時に『アカネ』という名前の女の子の記憶も頭によみがえってくる。
「……あのアカネちゃん!?」
頭に『凶暴』が付くとは、さすがに言えなかったが。
茜はうれしそうにほんのりと目を細めた。
「覚えていてくれた? 『人魚姫』の人形劇で圭介くんが王子様、あたしが海で助けるお姫様役だったことは?」
「……ああ、なんとなく覚えてる、かな?」
などと、圭介は思わず誤魔化してしまったが、『人魚姫』の話があまりに悲惨だったため、インパクトが強過ぎてよく覚えている。
「あの時、圭介くんが王子様役だったから、先生にすっごいお願いして、お姫様役にしてもらったんだー」
「なんで……?」と、圭介は聞いていたが、茜の答えはおおよそ予想がついていた。
「だって、圭介くんが好きだったんだもん。初恋の人」
「それはかなり意外な話で……」
(おれ、こいつに何度ぶたれて、何度蹴飛ばされたんだ?)
「でも、圭介くん、あの頃、ユメコちゃんのことが好きだったよねー。まあ、実際、かわいかったし、クラスのアイドルって感じ? あたし的には意地悪したくもなるじゃん」
『圭介くん、またユメコちゃんをいやらしい目で見てたっ。このヘンタイ!』と、ケリを入れてきたのは、子供心にも嫉妬をしていたからというのか。
(愛情表現が間違ってるよな……。おれは普通にアカネちゃんが怖かったぞ)
「昔はともかく、茜も見違えって、男にモテモテじゃん」
「そうだね。でも、圭介くんに再会して、あの頃の気持ちを思い出して……もう1度やり直したくなったの」
「やり直すって言っても、あの頃に戻れるわけないし、なあ」
「桜子から『圭介くん』の話は聞いてたんだけど、まさか初恋の男の子だなんて思ってもみなかったんだ。だから、昨日、初めて紹介されて、ほんと驚いたんだよ」
「……悪い、すぐに気づかなくて」
「でも、思い出してくれて、うれしい。まさか覚えていてくれるなんて、思ってもみなかったから。ほら、すっごいドキドキしてる」
茜は色気とはほど遠い無邪気な笑顔で圭介の手を取ると、そのまま彼女の左胸に押し付けた。
薄いキャミソール越しにやわらかな胸の感触が、圭介の手のひらにはっきりと伝わってくる。
と、同時に圭介はのぼせたかのように自分の顔が真っ赤になるのがわかった。
時待たずして、身体の血液は股間に向かって勢いよく流れていく。
「あ、ええと……」
茜の手を振り払えばいいのに、彼女の押さえつける力がそれほど強いわけでもないのに、手が吸い付いたように茜の胸から離れない。
「圭介くん、桜子をどんなに好きになってもムダだよ。桜子は男も女もなくて、人ってものがみんな好きなの。誰か一人を特別に好きになることはないの。
桜子は自分の立場をちゃんとわかっているから、いつか自分の将来にふさわしい人をただ選ぶだけ。圭介くんは選ばれないよ」
頭が本能に支配されている今、茜の言葉が呪文のように脳裏をぐるぐると回り、消えないシミをつけて歩く。
桜子に『好きだ』と告げたら、『あたしも好きだよ』と返してくれる。
けれど、その『好き』は、圭介のものとは違う。
誰もが好きな桜子は、たった一人の男に特別な感情を抱いたりしない。
茜はそう言っているのだ。
そんなはずはないと言い返せないのは、圭介も同じ印象を持っていたからだ。
実際、ついこの間も、桜子は『恋というのがよくわからなかった』と電話で言っていた。
誰かに告白されたら自分のことを好きだということだから、それで付き合うと。
今は桜子も成長して意識が変わったのかもしれないが、圭介が告白したところで『好き』はもらえても、それは友達以上の『好き』にはならないのではないか。
(結局、カレシに立候補したところで、それ以上の関係を求めるなんて、最初からムリだったんじゃないのか……?)
『桜子は自分の将来にふさわしい人を選ぶ』
『圭介くんは選ばれない』
これまでいろいろな人に同じことを言われてもめげなかった。
なのに、茜からの言葉はなぜか圭介がここまで保っていた気力をそいでいく。
桜子のことを昔からよく知っている親友の言葉だからか。
それとも、この胸の感触のせいで頭が正常に機能していないせいか。
気力ばかりか身体の力も抜けてしまい、圭介は茜にベンチの上に押し倒されても抵抗ができなかった。
膝の間に割って入った茜の太ももが股間を刺激し、体中の興奮がさらに脳を狂わせていく。
誘っているのは茜の方。
このまま本能に任せて抱いてしまったとしても何の問題もない。
(そうしたら、おれも桜子のことはきっぱりあきらめて、楽になれるのか?)
今は『楽になってしまいたい』という誘惑に勝てる気がしなかった。
茜は第2章-1 人魚姫編の1話目にちらっと出てきた女の子でした。
前話までで気づいていた方がいたら、すごい!
次話もこの場面が続いて、茜に翻弄されまくりの圭介がどうなってしまうのか? になります。