11話 人魚姫の敗因
圭介は従業員の制服を着ている以上、会場内をプラプラしているわけにもいかず、適当に客の使った皿やグラスを片付けながら、客の合間を縫って会話に耳を傾けていた。
今日の主役――羽柴商事の長男、聡は、この春大学を卒業して同社に入社。
現在は海外事業部に所属、次期社長となるために現場のノウハウをまず身に着けているという。
圭介としては、真面目なカタブツというのが第一印象だった。
一筋の乱れもないタキシード姿といい、背中に棒でも入っているのではないかと思わせるほど、まっすぐにのばされた背筋。
にこやかなあいさつさえ、どこか強張って見えるほど。
次期社長となるべく自分を律し、父親の期待に応える完璧な長男像だった。
チャラ男そのものにしか見えない弟の蓮とは対照的だ。
その婚約者は輸入食品会社の社長令嬢。
来年の大学卒業を待って結婚をするのだという。
小柄でほっそりとした女性で、清楚で可憐。
聡の隣で寄り添うように立ち、次々と述べられる祝辞にはにかんだような笑みで応えている。
そんな和やかな祝いの席の空気がガラリと変わったのは、蓮が桜子を伴って戸口に姿を現した時だった。
黒のタキシードを優雅に着こなした蓮と、水色のロングドレスの裾を軽やかにひるがえしながらその隣を歩く桜子――。
招待客たちの中に驚きの混じった興奮が波紋のように広がっていく。
「ねえ、蓮さんの連れているご令嬢、藍田桜子さんじゃない?」
「最近、見なかったけど、確かにそうだ」
「お二人、お似合いねえ。お付き合いされているのかしら」
「そうじゃなかったら、これだけ親族の集まる席に連れてこられないだろう」
二人の美しさのもとでは、今夜の主役であるカップルも色あせてしまう。
客の注目を一身に集めてしまう。
あまりにいつもと違う大人びた桜子の美しすぎる姿に、圭介もまた呆然と見とれてしまっていた。
それから少しして、圭介は自分の仕事を思い出した。
『聞こえるか?』と、マイクにささやいた。
『聞こえます』と、貴頼の声で応答があった。
『桜子が来た』
『なら、引き続きお願いします』
『了解』
蓮と桜子が親である羽柴社長夫妻のもとへまっすぐに向かうのを見て、圭介も客の合間をかいくぐりながら近くに寄った。
声が聞こえるところまで来ても、桜子に気づかれた様子はない。
「父さん、それに兄さん、紹介するよ。藍田桜子さん」と、蓮は艶然とした笑みを浮かべて隣の桜子を父親に紹介する。
「初めまして。このたびはご婚約おめでとうございます。お招きいただき光栄です」
桜子は慣れたようにあいさつをし、圭介が見たことのない高貴さに満ちた笑顔を浮かべる。
「いや、しかし、驚いたな。このフラフラしていてどうしようもなかった蓮が、あなたのようなお嬢さんとご縁を持つとは」
そう答えた羽柴社長は、言葉の通り驚いた顔をしていた。
「あら、おじさま、男性は本当に恋をすると驚くほど変わるものでしょう? 蓮さんもいつまでもおじさまがご存知の息子ではないかもしれませんわ」
桜子の無邪気な冗談交じりの言葉に場が和む。
そして、その言葉に蓮は嫌味なほどの笑顔を浮かべて続けた。
「そうそう、僕もようやく運命の女性を見つけたので、これからですよ。
今までたくさんの女性と出会ってきたけれど、彼女以上の女性はどこにもいない。
父さんもわかるでしょう?」と、
「まいったな。遊んでばかりのおまえに厳しく言わなくてはならないと思っていたが、そのおかげでこのような素晴らしい女性を射止めたとあれば、何も言えないではないか」
羽柴社長としても、自分の息子と桜子の縁談はこれ以上ない組み合わせなのだろう。
それに加え、桜子の器量の良さを見せつけられれば、苦笑いさえ無理やり浮かべているのが、圭介の目にも明らかに映る。
相手の親もこの付き合いには大賛成。
桜子の親も彼女の意思に任せている以上、二人を遮る障害は一つもない。
(桜子、おまえ、本気でこいつと付き合うつもりなのか? この男はおまえを好きなわけじゃないんだぞ)
圭介は飛び出していって、そう言ってやりたかった。
蓮は兄に対抗しているだけだ。
父親に認められ、期待されている兄に、一矢報いたかっただけ。
桜子を紹介した時の蓮の勝ち誇った笑顔は、まぎれもなく兄に向けられていた。
どんなに出来が悪い弟で、父親から見放されていたとしても、桜子を手に入れたとあれば、もう無視はできない。
それだけのために蓮は桜子を利用している。
(そんなことに気づかないほど、おまえの目は節穴なのか?)
それからすぐに汽笛が重くこの大広間にも響き渡り、船は出港した。
客たちは食事をしながら会話を弾ませる。
桜子は蓮とともに招待客に次々とあいさつをして回り、酒をふるまっていた。
そんな桜子の姿は、まるで本物の蓮の婚約者のようだった。
食事があらかた終わり、広間の隅に控えていた楽団が演奏を始める。
1曲目は今日の主役カップルが大広間の中央でダンスを披露し、それから何組かのカップルが続いて踊り始めた。
圭介は桜子と蓮が踊るのを壁際に立って見ながら、どこか映画のワンシーンを見ているような気分になっていた。
桜子はどんな服装をしていようが美しい。
しかし、今日の彼女はシャンデリアの光を浴びて、特別きらびやかに輝いて見えた。
いつもは背中に流れる髪を頭の上にまとめ上げ、ほっそりとしたうなじをのぞかせている。
ほんのりと色づいた唇に優美な微笑を浮かべ、やわらかな眼差しをまっすぐ蓮に向けながら 透き通るような白さの細い腕をその身体に絡めている。
圭介はそんな桜子を見つめているうちに、徐々に息苦しさを感じてきた。
そんな目で他の男を見るな。
そう叫びたいのに、声も出ない。
この場から奪い去ってしまいたいのに、足がすくんで動けない。
目の前に広がるのは、圭介とは無縁の上流階級の世界。
その世界に楽々と溶け込み、自然に呼吸をしている桜子は本人がどうであれ、『あちら側』の人間だ。
圭介は同じように違う世界の人間に恋をした人魚姫のことを考えずにはいられなかった。
彼女は自分の恋のために居心地の良かった海の中という世界から、陸の世界に飛び込んだ。
人間が自然に呼吸をする世界は、海の中で生活していた人魚姫にとって、それだけで息苦しかっただろう。
それまで魚のひれで優雅に泳いでいたというのに、重い身体を引きずり、慣れない2本の足で地べたを這いずり回るのは、どれだけ苦痛だっただろう。
あまりに違う世界に住む王子に気おくれして、たとえ声があったとしても、愛を伝えることなどできなかったかもしれない。
かといって、その思いを断ち切って人魚に戻ることもできないほど、王子に恋い焦がれてしまっていた。
海の中に戻れば、叶わなかった恋にすがり、この先、苦しい思いをしながら生きていかなくてはならない。
それがわかっていたから、人魚姫は自分を消すという方法で恋に終止符を打ったのだ。
人魚姫が敗北したのは、自分自身の弱さ。
世界の違いを超えてまで、愛を貫こうとする強さがなかったこと。
(おれも人魚姫と同じになるのか……?)
好きだという気持ちだけで近づきたくて、一緒にいる時間が愛しくて、世界の違いを見ないようにしていた。
恋のために違う世界に飛び込んだ人魚姫に比べ、圭介自身はこうしてただ遠くから見つめているだけで、何の行動にも移せないでいる。
(おれの想いは、所詮そんなものなんだろうか)
次話、すっかり意気消沈している圭介に救いの手(?)があるかも?
貴頼も登場します。