4話 美少女登場
(おれ、こんな美少女初めて見たかも……)
ほっそりとした出で立ち、大きな瞳に小さな顔。
ふんわりと背中まで波打つ髪は薄茶色で、外国人のようにさえ見える。
制服のブレザーの上からでもわかるむっちりとした胸のふくらみと、くびれた腰。
膝上スカートから出るすんなりと伸びた色白の脚は艶めかしいくらいだ。
そこらへんのアイドルや女優など太刀打ちできない、圭介からしたら一生お目にかかることのない奇跡のような少女だった。
その美少女は教室の中の様子など気にもしないのか、戸口できょろきょろと室内を見回している。
そして、黒板に書いてある席順を目に留めると、姿勢よく軽やかに教室の前を歩いてきた。
と同時に、我先にと数人の女子が彼女のもとに駆けていった。
「藍田桜子さんよね?」
一人の女子の質問に美少女はにこっと笑顔を向けた。
「はい。よく知ってますね」
(ぎゃ、これが藍田桜子かよ! てことは、おれはこれから3年間、この子を監視し続けるのか!?)
「そりゃあ、知ってるわよ。高校から編入してくるって聞いていたし。同じクラスだなんて光栄だわ」
「桜子さんと同じクラスになったのよってパパに言ったら、きっと驚くわ」
あっという間にクラス中の女子に囲まれ、自己紹介をし合うのを圭介は尻目に見ながら、妙な既視感を覚えていた。
(どっかで見た顔なんだけどな)
1度でも会ったら忘れそうにない顔だというのに、思い出せない。
(テレビとか雑誌か? 芸能活動でもしてるとか?)
さらに奇妙なのは、取り巻くのは女子ばかりで、先程まで目をハートにしていた男子たちは『藍田』の名前を聞いた瞬間から、彼女に近づこうともしないことだ。
それどころか青い顔でこそこそと何かを囁き合っている。
「あれが藍田の令嬢かあ。おれ、めっちゃ好みなのにー」
「残念だよなー。うちなんかじゃ、到底相手にしてもらえねえ」
「いや、でも、こう、お近づきになって向こうがよければ、多少の格差もありじゃねえ?」
「やめとけよ。下手打ったら、おまえんち、あっという間につぶされるか、吸収されて終わりだぞ」
「いやいや、あの総帥なら、気に入らない相手はたとえ娘の好きな男でも、殺し屋雇って人知れず抹殺するだろ」
「藍田総帥のあの噂、本当なのかよ? ウサギの皮かぶった人喰いワニって」
なんだか、ずいぶん物騒な話をしている、とひそかに聞き耳を立てていた圭介は思わず振り返ってしまった。
「なあ、あの子、何者? 藍田さんっていうんだろ?」
圭介の突然の質問は、後ろで話をしていた3人の男をかなり驚かせたらしい。
「おまえ、知らないのかよ。てか、当然か。貧乏人にゃあ、関係ない世界だもんなー」
「意地悪しないで教えてやったら?」
「いや、教える方が意地悪になるんじゃねえ? こいつ、東京湾に沈むかもよ」
(なんなんだ、こいつら)
「しっかし、『藍田』って聞いて、今時『誰か』なんて聞く奴、いるとは思ってもみなかったぜ」
「今年1番の新鮮ネタかもなあ」
(おれに『藍田』なんて知り合いいねえし、テレビでも見たことねえよ!)
圭介にとって藍田桜子はただの監視相手。関わりあう必要がないどころか、関わり合ったら契約違反になる相手だ。
知らなくていいことは、知らないに越したことはない。
どうやら質問に答える気はなさそうだと判断して、圭介がフンと鼻を鳴らして前に向き直ろうとした瞬間――。
「桜子さんの席、ここよっ」という女子の声とともに、ガツンと肩を突き飛ばされた。
その勢いで圭介はイスから転げ落ちそうになる。
「え、うそ、やだあ。桜子さん、かわいそう。よりにもよって貧乏人の隣の席?」
「わたし、触っちゃったわ! 貧乏臭いのうつったらどうしよう!」
(おれを突き飛ばしておいて、その言いぐさはなんだ!?)
圭介は思わず怒鳴りかけたが、目立たないように言われている手前、派手な行動は慎みたい。『退学』の二文字が頭に理性を呼び戻してくれる。
「いやー、美香、近寄んないで。わたしにもうつっちゃうじゃないー」
きゃはは、と甲高く笑う女子の声が圭介の耳に触る。
「平常心、平常心」と胸の中で唱えてみても、怒りのボルテージはどんどん上がっていく。
極めつけは、とぼけたような桜子の一言だった。
「貧乏臭いって、どんな匂い?」
その言葉に女子たちは「桜子さん、冗談きっつーい」とさらに面白がって、けたたましく笑い合う。
(こーの、クソ女! その天然でどこかで恨み買ってんのか!?)
後で痛い目を見やがれと、圭介は呪いを込めて隣の席に座る桜子を睨みつけた。
と同時に、彼女はイスを倒す勢いで立ち上がり、圭介の腕を掴んで引っ張り寄せてきた。
一瞬、抱きついてきたのかと圭介は思った。
いや、それもカン違いというわけでもない。
彼女は圭介の首筋に顔を埋めて、ピクリとも動かなかったのだ。
圭介の周りだけ音が消え、時間が止まったような奇妙な感覚が身体を駆け巡っている。
ただ、彼女のやわらかな髪が鼻をくすぐって、甘い香りだけが脳天でかろうじて感じられる。
(おれ、自慢じゃないけど、女子とここまで接近したことなかったー……)
わずかに彼女が身じろぎしたと同時に我に返った圭介は、教室中のクラスメートが自分たちを見つめて固唾を飲んでいることに気づいた。
「あ、藍田さん……?」
バクバク鳴る心臓を押さえながら、圭介の口からようやくかすれた声が出た。
が、それは彼女の鋭い声にあっという間にかき消される。
「貧乏臭いって何!? ちゃんとセッケンの香りがして、臭くなんかないわよ! あなたたちは何を根拠に彼を貶めるの!?」
「や、やだ、桜子さん。貶めるだなんて大げさな」
「そ、そうよ。ちょっとした冗談のつもりだったの」
「悪ふざけが過ぎたわ。ごめんなさい。だから、怒らないで」
一斉に女子たちが怯えたように一生懸命愛想笑いを浮かべる真ん中で、桜子は彼女たちを睨み回す。
その光景は女帝と下僕、いや、女主人と虐げられる奴隷にも見える。
藍田桜子がどういう立場の人間なのかはわからなくとも、クラス中の生徒を一言で黙らせるだけの権力はあると一目瞭然だった。
「謝る相手が違うでしょう。謝るなら彼に謝って」
桜子に促され、女子たちが渋々といったように口々に「ごめんなさい」と圭介に向かって告げてくる。
支配する人間の権力の恩恵を受ける陰で、支配される人間の弱さをもろに見せつけられた瞬間だった。
この民主主義の時代にこんな生き方をする人間がいるとは、圭介は想像もしてみなかった。
「……いや、気にしてないから」
先程まで怒鳴り散らしてやろうと思った気迫もすっかりそがれ、圭介の口から出てきた声は変な愛想笑いとともにずいぶん穏やかなものだった。
「じゃあ、仲直りしたところで、この話はここまで。そろそろ席に着いた方がいいんじゃない?」
桜子はポンと軽く手を叩くと、何もなかったかのように大きな瞳をほんのりと細め、誰もがうっとりと見惚れてしまう最高の笑顔でその場にいた生徒たちを魅了したのだ。
彼女の機嫌が直ったと分かった女子たちは、安堵したような笑みを浮かべて教室の中に散っていく。
それを見送った桜子が前を向き直って座った途端、どこかの婆さんのような疲れたため息をつくのを圭介は見てしまった。
その姿があまりに美少女には似つかわしくなく、違う意味でやはり見つめてしまったのだ。
その視線に気づいたのか、桜子が圭介の方を見て、かすかに笑った。
「入学早々、災難だったね。ええと、名前、まだ聞いてなかったっけ。あたしは藍田桜子。あなたは?」
「瀬名圭介です」
「高校からの編入組なんだってね。あたしもなの。よろしくね」
「……こちらこそ」
「あ、そうそう。さっき汗の匂いもした。歩いてきたの?」
しっかり匂いをかがれていたことがわかって、恥ずかしさに圭介の顔は火照ってしまった。
何と答えていいのかわからず、ただコクリとうなずくことしかできない。
「あたしも歩いてきたんだけど、あの坂、結構きついよねー。これから暑くなったら地獄じゃない?」
なんでもない世間話。圭介としては簡単に続けられるものだった。
人見知りではないし、小中と友達に困ったこともない。
しかし、頭の中で叫んでいる。
『入学早々退学になったらどうする!?』と。
それが、彼女との会話を拒ませるのだ。
(この女と和気藹々慣れ合うわけにはいかねえんだよ!)
黙ったままの圭介を見て何を思ったのか、桜子は笑顔をわずかに曇らせ、ただ一言「あ、気にしないで」と、前を向き直ってしまった。
圭介の胸にこみ上げてくるのは、吐きそうな罪悪感だった。
からかわれている圭介をかばい、さらに好意的に話かけてくる相手に無視したも同然の仕打ちをしたのだ。
一人の人間として許される行為ではない。
(おれ、人間失格……)
『必要以上に藍田桜子に近づくな』
あの契約事項がこんなにも重いものだったとは。
それを強いた貴頼こそ人間失格じゃないのかと思い始めた入学式当日だった。
次話から桜子の話になります。