25話 お父さんですか?
玄関に入ると「お帰りなさいませ」と、使用人たちがぞろぞろと出迎えに来る。
金持ちの家ならそれが当たり前だと思っていた圭介は正直、面食らった。
藍田家は誰も迎えに出てこないどころか、人の気配すら感じられないくらいに、しんと静まり返っていたのだ。
薫子の「ただいまー!」というバカでかい叫び声も、木霊で返ってきそうな雰囲気だ。
「瀬名さん、上がって。はい、スリッパ」
薫子はテキパキ準備をして、圭介を家の中に上げる。
「なんか、人がいない感じなんだけど……」
雨戸が完全に閉められた廊下も電気が落ちていて暗く、お化け屋敷を案内されている気分で落ち着かない。
圭介は自然とひそひそ声になってしまった。
「うん。今日は日曜日だから従業員がみんなお休みで、うちの家族しかいないんだ」
「あ、そう……。こんなにデカい家なら住み込みの従業員とかいるかと思ってた」
「ほら、うち、お母さんの方針で節約第一の家だから、人件費も節約なんだよ。
部屋を使わなければ掃除もしなくていいから、従業員も減らせると」
「そりゃそうだけどさあ……。それくらいなら、もっと小さい家に住んだ方が金のかかり方も違うんじゃねえ?」
「ほんと、その通り。お母さんが毎年確定申告の時期になると騒いでるよ。固定資産税が高いから売りたいって」
「売れないのか?」
「うち、重要文化財になってるから、土地の切り売りとかダメなんだって。売るならまるっと全部買ってもらわないといけないから、バカ高くて買い手がつかない状況なんだよ」
「……ていうか、結局、おまえんち以上にこんな家を持てる金持ちもいないって話じゃねえか」
「そんなことないよー」
そんな話をしながらもまっすぐに続いていた暗い廊下がようやく終わりを見せて、初めて角を曲がることになった。
その廊下は雨戸が開いていて、ガラス窓越しに午後の陽がさんさんと差し込んでいる。
庭が見渡せるようになると、襖越しにテレビの音が聞こえたり、台所らしいカチャカチャと調理器具の鳴る音も聞こえてくる。
(使ってるのはここだけか? どんだけムダなスペースがあるんだよ!)
圭介はそんなことを思いながらも、ようやく人の気配というものに行き当たって、ホッとしていた。
しかし、その直後、「お父さん、瀬名さんが来たよ」と、心の準備もなく薫子に襖を開けられ、藍田音弥と初の対面――。
一瞬にして直立不動になった圭介であったが、開いた襖からは8畳ほどの和室にちゃぶ台と点けっぱなしのテレビが見えるだけで、誰も見当たらなかった。
「あ、もう、お父さん! 何、寝てるのっ。瀬名さんが来るって言っておいたでしょ! ほら、起きてよ!」
部屋に飛び込んでいった薫子が、ちゃぶ台の向こうで横になっているらしい父親の身体を乱暴に揺する。
「んー、すまんすまん。今、起きる」
よいしょ、と薫子に無理やり起こされた『お父さん』は、パジャマのようなスウェットの上下を着ていた。
頭はボサボサ、眠そうに目をこすりながら、「ふわ」とあくびをした。
(……これが藍田音弥? まさかなあ)
写真やテレビで見た、キリリと人を射抜くような怖い目をした人物には見えない。
『あの知性と色気はどこにいった?』と突っ込みたくなるほどに別人だ。
――が、顔だけ見れば人違いとも思えない。
何より薫子が『お父さん』と呼ぶからには、藍田音弥本人に間違いない。
圭介はどこか現実味がなく、キツネにつままれた気分だった。
「お父さん、どうして着替えてないのよ? お母さんが用意しておいてくれたでしょ?」
『お父さん』は、ぼんやりと柱の上の時計を見上げ、首を傾げる。
「おかしいなあ。昼飯食って、まだ1時間以上あったはずなのに。おれ、そんなに寝てたのか?」
「もう、お父さんってば。いい、あたしは桜ちゃんの手伝いしてくるから、お父さん、瀬名さんの相手しててね。そこにポットとお茶あるから、ちゃんといれてあげてよ」
「はーい……」と、『お父さん』は気のない返事をする。
「瀬名さん、そんなところに立ってないで、こっちに座って。桜ちゃんが来るまで、お父さんが相手してくれるから」
「あとでね」と、薫子は呆然としている圭介を残し、出ていってしまった。
「ええと、瀬名くん。どうぞ、座って」
突っ立ったままの圭介に気づいた『お父さん』が、向かいの座布団を指し示す。
「……し、失礼します」
圭介はぎこちなくあいさつをしてから、言われた通りに座布団に正座した。
その目の前で、『お父さん』はポットのお湯を急須に注ぎ、お茶をいれてくれる。
「申し訳ない、こんな格好で。はい、お茶どうぞ」
「ありがとうございます。あの、お休みのところお邪魔してすみません。お疲れですよね?」
「気を遣わなくていいよ。今日はみんなやることがあるって、誰も相手してくれなくてねえ。おれ、退屈するとすぐ寝ちゃうんだ」
屈託なく笑う『お父さん』は、テレビでは見たことのない親しみやすさがあり、笑顔は彬のものとよく似ていた。
メディアで見るよりずっと若々しい印象を受ける。
その『お父さん』が自分でいれたお茶をひと口すすった後、静かに湯呑を置いたと同時に、圭介をまっすぐに見つめてきた。
その視線は一瞬で隠れたものを暴き出す、エックス線のような鋭い光を放っているかのようだった。
圭介に思わずゴクリと息を飲ませるほどに迫力があり、圧倒された。
(これが経済界トップの男の本性か?)
普段はのほほんとしたウサギのような人間が、その裏に鋭いワニの牙を持つ。
何も持たない弱い小動物は、近づいただけで恐怖を感じ、尻尾を巻いて逃げ出す。
実際、圭介は今すぐこの場から走って逃げたいと思った。
次話、この場面のまま続きます。よろしければ、続けてどうぞ!