2話 監視してください
約束の1分前――角を曲がってくる車が圭介の視界に入って来た。
(まさか、あれか? いや、まさかなあ)
駅から離れた住宅街、狭い路地を走るような車には到底思えない黒光りリムジン。
そんな車が慎重に角を曲がり終えて、圭介に向かってそろそろと走ってくる。
圭介の『まさか』は見事に現実となって、木造2階建てモルタルアパートの前でリムジンはぴたりと静かに止まった。
(やべえ。合成写真にしか見えねえ)
圭介があまりの不自然さにポカンとしていると、運転席から品のいい黒スーツを着た老人が下りてきて、後部座席のドアを開けた。
慣れたように降りてきたのは、淡いグレーのスーツを着た中学生くらいの少年だった。
圭介より頭1個分背が低く、ほっそりとした身体つき。
色白で女の子のようなつぶらな瞳をしている。
色素が薄く、わずかにくせのある茶髪は圭介のものとよく似ていた。
「こんにちは」と、あいさつしてきた声は電話の人物のものに間違いなかった。
「あんたが貴頼?」
「はい。詳しい話は車の中で。通行の邪魔になりそうですから」
貴頼に促され、圭介は人生初のリムジンに乗車。ゆったりとした革張りソファに座ると、どこかの応接室のように感じられる。
目の前に慣れたように座る貴頼に比べ、ここでは逆にパーカーにジーンズの圭介の方が合成写真になっていた。
運転手にドアを閉められ、やがて音もなく車は走り出した。
「では、時間を取らせては申し訳ないので、手短に話します」と、貴頼が口を開いた。
「手短って……」
(初めて会う親戚なら、ゆっくりおしゃべりでもするんじゃねえのか?)
圭介の予想に反して、貴頼は親戚という親近感を見せることなく、妙な威圧感を与えてくる。
「実はこうして連絡したのは、一つ頼まれごとを引き受けてほしいのです」
「頼まれごと? おれに?」
「はい。ある人を監視していただきたいんです」
「監視って……おまえ、金ありそうだし、普通なら興信所かなんかに頼むもんだろ? それとも、ヤバいことだから、そういうところを使えないのか? だったら、余計にごめんだね」
圭介の言葉に動じた様子もなく、貴頼は淡々とした表情をちらりとも変えない。
目をほんのりと細めて、ゆったりとシートにもたれかかり、圭介を真正面から臆することなく見つめているだけだ。
「犯罪等に関わることではないので、ご心配なく。
監視対象は藍田桜子さんといって、この春高校1年生、あなたと同じ学年。
校内での彼女の様子を僕に教えてほしいだけです。
興信所も校内までは入れませんから、あなたに頼んでいます」
「で、その女、おまえに何かしたのか?」
それが貴頼の顔に初めて感情が表れた瞬間だった。
たった一瞬だったが、しいていうなら『怒り』。
そもそも監視するからには、その何かは決して面白いものではないのだろう。
(あ、なんか、やばそう)
「いや、話したくなければいいんだ。で、なに? もしかして、その女、おれと同じ高校に通うのか? それで、おれに頼んできたとか?」
「いえ。彼女は青蘭学園高等部に通う予定です。ですから、圭介さんにもそちらに通ってもらうことになります」
「普通に無理だろ。おれ、青蘭なんて受験してねえし、都立行くこと決まってるし。
だいたい青蘭学園っていったら、日本一学費が高いお坊ちゃんお嬢さん校だろうが。うちにそんな金があるわけねえだろ」
「もちろん頼むのはこちらの方ですから、学費や制服代、昼食費、その他もろもろの必要経費はこちらで持ちます。
都立高校といっても学費が免除なわけではないでしょう? 圭介さんにとってもメリットはあると思いますが、どうですか?」
(う、痛いところをついてくる……)
そのなんたらという女を監視するだけで、待遇は第1志望だった私立高校とほぼ同じ。
しかも、偏差値レベルは受かった都立高校とさほど変わらないのだ。
圭介もにわかにわいてくる好奇心には勝てなかった。
「……監視って、どの程度のことをするんだ?」
「難しいことではないです。ただ彼女の人間関係を観察して、僕に報告するだけです」
「本当にそれだけ?」
「こちらに詳しく書いてあるので読んでください。納得できたら署名捺印を」
貴頼は脇に置いてあったアタッシュケースから1枚の紙を取り出し、圭介に差し出した。
「雇用契約書って……」
そのタイトルと貴頼の顔を見比べて驚く圭介の前で、彼はあっさりと「正式な仕事の依頼ですから」と答えた。
内容はといえば、12時半と5時にメールで定期連絡。
必要時は依頼主の方から連絡を取る。
依頼主に関することは他人に口外しないこと。
藍田桜子に必要以上に近づかないこと。
これらを破った場合には契約解除、つまり即高校退学。
依頼主の方から解除を申し出た場合は、高校卒業時までの必要経費はそれまで通り支払われる。
確かにこの程度の契約なら、難しいことはない。
女を観察して、1日に2度報告。
それだけだ。
「なあ、おまえのことを話しちゃいけないって、学校に知り合いでもいるのか? この女の他にも」
「それはもちろん。僕はこの春、中等部の3年ですから」
「……ちょっと待て。同じ学校なら自分で監視すりゃいいだろうが。わざわざ金かけて、人を雇う必要ないだろ」
「中等部と高等部は校舎が違うんです。公の行事以外で中学生が高等部の校舎をうろついたら目立ちすぎる。だから、頼んでいるんです」
「あ、そう。あと、この最後の解除条件? 意味わかんないんだけど。『藍田桜子に好意を持った場合、契約即時解除とする』?」
「その言葉の通り、圭介さんが彼女を好きになったら終了ということです」
「なんで? 好きになっちゃマズいのか?」
「おおいにマズいということです」
貴頼の怖い笑顔を目にして、圭介はそれ以上聞けなかった。
それにこれ以上詳しく聞いて、余計な争いごとに巻き込まれたくない。
知らぬが仏、ということは人生において往々にしてある。
「じゃあ、まあ、少し考えさせてもらってもいいか?」
「今、答えを出してください。ここまで話を聞いて簡単に帰すわけにはいかないので」
「簡単に帰さないって……?」
脅している相手にこれほどマヌケな質問もない――が、圭介は背中に変な汗がわいてくるのを感じながらも、思わず聞いてしまった。
「この車の行き先は圭介さん次第ということです」
「……つまり、答えを出せって言いながら、断ることは許さないんだろ?」
「断る理由も見当たらないでしょう?」
貴頼の切り返しに、圭介は言葉に詰まった。
確かにその通りだったのだ。
おそらく貴頼は、最初から圭介の断れないおいしい条件をきちんと用意して、この話を持ち掛けてきた。
圭介の家の事情や取り巻く環境など、すでに調べてあったのだろう。
でなければ、話を手短に済ませられるわけがない。
道理で親戚らしい会話が一つもないわけだ。
(こいつ、この歳で人を使うことに慣れてんだな)
上品で丁寧に話しながら、相手より優位に立つ。
見るからに金持ち、生まれた時から人を支配する側。
人より多く持っているものを大いに行使して、人を意のままに操ることを知っている。
そして、人を従わざるを得ない気分にさせる。
圭介からすると、目の前の少年はそういう部類の人間だ。
(イトコって言ってるけど、こいつ、本当に血のつながった親戚か?)
圭介は改めて目の前に座る貴頼を見やった。
圭介も小学校の頃は目がぱっちりとした色白な丸顔で、『女顔』とからかわれることもあったが、ここ数年で顎のラインがすっきりして、男っぽくなったと自分では思っている。
そんな圭介の小さい頃の写真と比べてみても、貴頼とは目鼻立ちが違う気がした。
「あのさあ、契約はともかく、おれ、おまえが本当にイトコなのかどうか知らねえんだけど」
貴頼は思ってもいなかった質問だったのか、一瞬面食ったようだった。
「お母さんから聞いてないんですか?」
「聞いたけど、最低一人いるって言ってただけ。おまえ、そいつと名前違うし。
そもそもおれとおまえは、どういう関係なんだ?」
「僕の母が圭介さんのお母さんの姉、という関係です」
「ああ、そういや、母ちゃんの姉ちゃんにも子供がいるかもって言ってたっけ。
で、おまえんち、何やってんの? 金持ちそうだけど」
「うちは代々代議士の家系で、父も祖父も国会議員です」
「すげえ……姉ちゃんの方は玉の輿に乗ったんだな」
母ちゃんとは大違いだ、と圭介はブツブツぼやいてしまった。
「さあ、玉の輿だったのかどうか」
そう言った貴頼の表情にわずかな陰りが走った。
どうやらこれ以上、家族の話をしたくないらしい。
圭介はすぐに気づいて突っ込むのをやめた。
「わかったところで、サインしますか?」と、貴頼も話題を変えるように聞いてきた。
「ここにサインすりゃいいんだろ?」
圭介は受け取ったペンで自分の名前を書き、朱肉で拇印。
こんな紙切れ1枚の契約書に効力があるのか圭介にはよくわからなかったが、こうして貴頼との間に雇用契約は結ばれた。
「ところで圭介さん、予定外に一つ問題が」
「おい、サインした後に何か付け加えるのはサギ師の始まりだぞ」
「そんな大げさなことではないですよ。彼女に必要以上に近づかないことに違反してはいけないと思いまして」
「なんだよ?」
「圭介さん、背が高くて顔もイケメンとまでは行きませんがソコソコですので、目立たない格好をしていってもらった方がいいかと」
「目立たない格好って?」
「変装道具、制服と一緒に後で送ります」
「ちょっと待て」と、圭介は手を挙げてさえぎった。
「おれが近づかなくても、女の方が近づいてきたら違反なのかよ?」
「結果、同じことでしょう? だから、そうならないように圭介さんは目立たない方がいいということです」
圭介はここへきて改めて契約書の控えを読み直してみた。
最初に読んだ時は大したことは書いていないと思ったのだが、逆に契約事項が曖昧になっているということに初めて気づく。
つまり、言外に含まれることがモロモロどこかに当てはまってしまうという寸法だ。
(やられた。おれ、マズい契約しちまったんじゃねえ?)
あっという間に何かやらかして契約違反。そして、高校を退学になることが目に浮かぶ。
青ざめる圭介の前で、貴頼は満足そうな笑みを浮かべていた。
次話から、圭介の高校生活が始まります。