13話 けっこう幸せな関係
この話は彬視点です。
彬はとりあえず家を出て、ずんずんと歩きながらスマホの中から妃那の連絡先を探していた。
自分の周りだけ地震が起きているようで、足元がおぼつかない。
自分がこれほどショックを受けるとは思ってもみなかった。
桜子と圭介の関係を知って、あの場で泣き出さなかっただけマシなのか。
メッセージを打つのも面倒くさくて、そのまま電話をかけた。
ツーコールで妃那は『もしもし』と応答する。
「今から会える? 今すぐ。そっちはいつでもいいって言ったよね?」
妃那は束の間沈黙した。
『わかったわ。今から出るから、30分後にいつもの場所で」
彬はほっとして電話を切り、駅に向かって歩いた。
電車を乗り継いで、待ち合わせ場所の駅に着いたのはギリギリだった。
妃那の乗った車は道に停車している。
彬に気づくとすぐにドアが開かれ、中に乗せられた。
妃那はじいっと彬の顔を見てくる。
「……なに?」
「いえ。何を怒っているのかと考えてみたの」
「それ、考える前に普通は聞くんだよ。どうしたのって」
「聞いてほしいの?」
「……いや、別にそういう意味で言ったんじゃないけど」
聞かれたところで、このめちゃくちゃな頭ではうまく話ができるとは思えなかった。
「ごめん……」
ホテルに入るなり、込み上げる衝動に手加減ができず、壊してしまいそうなほど妃那を乱暴に扱ってしまった。
初めての時以来かもしれない。
今では大事にしているはずの相手なのに、自分が止められなかった。
それでも力尽きるほど抱いた後、頭の中はすっきりと軽くなっていて、全身疲労はあってもどこか爽快感すら覚える。
ついここに来るまで、この世の終わりのように絶望で目の前が真っ暗だったのがウソのようだ。
ちらりと横眼で見ると、妃那はうつぶせになって目を閉じていた。
(長いまつげだな)
ぎっしりと生えたまつげがきれいなカーブを描いて、目元に影を落としている。
眠ってしまったのかと思ったが、その唇が動いた。
「謝る必要はないわ。わたし、粗雑に扱われる方が好きなのよ」
「なら、よかった? けど……」
目を閉じたまま動かない妃那を見ていると、やはり人形のように見える。
そのせいなのか、彬は独り言のように話し始めていた。
「僕さぁ、姉さんがいつか恋人をつくって、1度でもそういう関係になったら、無理やりやっちゃおうと思ってたんだよね……。
当然、姉さんは傷つくし、悲しむから、僕はそれで自殺しようと思ってた。最初で最後に大好きな人を抱いて、僕の人生を終えようって。
だから、そんな日が来たら、どんなふうに姉さんを抱いてやろうかって、そんな妄想ばっか繰り返してたんだ」
「あなた、わたしが思った通り、嫌な奴ね」と、妃那は小さくつぶやいたが、目は閉じたままだった。
「自覚してるから、否定しなかったと思うけど」
「そうね」
「実際に今日、その日が来て、目の前が真っ暗になって、気が狂いそうだった。
けど、今はすごく穏やかな気持ちでいられる。あの時、君の誘いに乗ってよかった。
こうして今、一緒にいてもらえてよかった。ありがとう」
妃那はしばらく黙っていたが、パチリと目を開いた。
「感謝しているなら、頭をなでてくれないの?」
「……もしかして、なでられるの待ってた? してほしいの?」
「わたしは好きだわ」
彬は手を伸ばして妃那の頭をなでてやった。
妃那は無邪気にうれしそうな笑みを浮かべている。
いつも妖艶ともいえる色気で迫ってくるのに、こういう時は別人のような顔をする。
ほんと、変な人だなと、彬は笑ってしまった。
そんな妃那は真顔に戻って、じいっと彬を見つめてくる。
「質問なら考える前にした方がいいよ。答えを推察するより速いから」
「……もう、死のうとは思わないの?」
「どうして?」
「前にそんな風に穏やかな顔をして、すべてをあきらめて死を選んだ人がいたから。彬も同じなのかと思って」
妃那にそんな身近な死があったとは知らなかった。
しかも、死を選んだということは自殺だ。
そんな妃那の前で死ぬつもりだったなどと言ってしまって、激しく後悔した。
「死なないよ。もう僕に死ぬ理由はなくなっちゃったし。これからも、君がこうしてそばにいてくれるなら」
妃那を元気づけるつもりで言ったのに、泣き出してしまった。
相変わらず妃那は子供のようにわあわあ泣く。
「どうしてあなたがそんなことを言うの……!?」
「ええー……。迷惑なの?」
「腹が立つわ!」
「じゃあ、君の推察通りに僕に死んでほしかったとか?」
「バカなの!?」
「……そう、バカだから、君の言いたいことがさっぱりわからないんだよ」
「わからなくていいわ。説明するのも面倒だから」
「じゃあ、僕にどうしろと……?」
「前にも思ったけれど、泣いている女性を見たら、やさしく抱きしめるのが一般的でしょう? あなたはどうして放置しておくの?」
「いや、だって、一般的かもしれないけど、恋人同士とか親子とか、そういう関係があってこその一般論だよ。その辺で泣いている知らない女性を抱きしめたら、警察に捕まるよ」
「でも、彬はわたしと寝ているのよ。犯罪の重さからいったら、抱きしめる方がよほど軽犯罪で済むと思うけれど」
「……君は正しい。ものすごく正しいよ」
理詰めで責められ、彬は思わず納得してしまった。
仕方ないので、起き上がって妃那を抱きしめる。
「もう遅いわ。彬が変なことを言うせいで、すっかり涙が止まってしまったわ」
「あ、そう……」
付き合いきれない、と彬は再びバタリとベッドに倒れ込んだ。
「感傷にも浸らさせてくれないなんて、あなたって、ほんと嫌な奴だわ」
「けど、嫌いじゃないんだよね?」
「そうね。あなたはわたしなしには生きられないのでしょう?」
「……そこまで大げさに言ってないけど」
「同じ意味ではないの」
「いや、まあ、そうなんだけど。ニュアンスの違いってものがあるんだよ」
「では、違うの?」
「……違わないけど。もう、とにかく、これからもこの関係が続いていけば、僕は死のうなんて思わないし、けっこう幸せに生きていけるってこと!」
彬がヤケになって叫ぶと、妃那は驚いたように目をパチクリした。
それからじいっと考え込んでいる。
「また質問?」
「いいえ。なんだか不思議な感じがして……。わたしも前より幸せなような気がするわ。
彬のおかげなのかしら。圭介が言っていたのって、こういうことなのかしら……」
妃那は一人でブツブツとつぶやいている。
「……今、何時?」
「8時少し前よ」
「……もうそんな時間? 道理でお腹空いたと思った。僕、朝から何にも食べてない……」
「そういえばわたしもそうだわ」
「デリバリー、注文する?」
「帰るのではないの?」
「帰っても夕食の時間過ぎてるし。なんか、今頃うちは大騒ぎになってそうで、そんなところに帰っていく勇気がない……。君は時間大丈夫?」
「わたしは大丈夫よ。圭介の家庭教師はまだ終わっていないし」
「圭介さんは勉強かぁ……」
彬はメニューと自分のスマホを持ってベッドに戻ると、妃那の食べたいものを聞きながら電話で注文した。
「ところで、彬」
「何?」
妃那を振り返ると、眉根を寄せて難しい顔をしていた。
「先ほど疑問に思ったのだけれど、圭介と桜子はいつそのような関係になったのかしら?」
「いつって……そこまでは聞いてないけど」
「圭介の行動を思い返してみても、該当する時間が見つからないわ。唯一可能性があるとしたら、先週の土曜日、圭介があなたの家に行った日になるけれど――」
「その時なんじゃない? 親は出かけてたし、僕もいなかったし……ていうか、君と会ってたし。うちにいたのは姉さんと薫子だけだったんだから」
「わたしも意外だったけれど、何もなかったそうよ。あの圭介の悔しそうな顔を見たら、ウソとは判断できなかった」
「それ以外だって――」
「その後、二人きりになったのは金曜日の授業中だけ。圭介のネクタイの結び目が変わっていなかったから、何もなかったと思うわ」
「そんなところまでよく見てるんだ……」
「結論から言うと、もっとも可能性の高い事実は彬の勘違い、もしくは誰かに騙されたということになるのだけれど。誰に聞いたのかしら?」
「誰って、姉さんに――」
彬は言いかけて、「あれ?」と首を傾げた。
(姉さん、はっきりそうだって言ってない? てっきり恥ずかしいから、隠してるのかと思ったんだけど……)
「たぶん、僕の勘違いです。お騒がせしました」と、彬はペコっと頭を下げた。
今回は勘違いだったとはいえ、遅かれ早かれ、こういう日は来る。
その時、自分がどうなるか、予行練習をさせられた気分だ。
(……けど、なんかもう、どうでもよくなっちゃったかも?)
妃那がこうしてそばにいる限り、いつその日が来ても大丈夫な気がした。
たとえ壊れても、きっと立ち直れると思うから――。
同じ頃、藍田家には王太子が引っ越しして来て、ひと騒ぎ?




