8話 もしかして、別れ話されてる?
朝から妃那を一人にしたせいか、その日、彼女は輪をかけて圭介を離さず、トイレにまで付き合わされた。
さすがに中にまでは入っていけないので、外で待っているだけなのだが。
それでも「絶対にここを動かないで」と、何度も念を押された。
初めて通い始めた学校で、妃那が昨日のように突然人形になってしまったら、周りの生徒はドン引きするだろう。
それはこの先の交友関係に支障をきたしそうなので、圭介としても避けたいところだ。
とはいえ、この状態でどうやって妃那が自立していくのか、正直予想がつかないのが情けなかった。
午前中の授業が終わり、昼休みに入る。
そろそろ桜子が来る頃だと思うと、圭介は顔が強張ってくるのを感じた。
昼休みのいつ頃に来るのかと思っていたが、桜子は授業が終わったと同時に、教師と入れ違いに教室に入ってきた。
どうやら授業終了前には到着していたらしい。
「桜子さん、もう体調はいいの?」
桜子はいつもの取り巻き女子に囲まれ、笑顔で返しながら、圭介のところへまっすぐにやってくる。
圭介は不安を抱えていたものの、それでも久しぶりに見た桜子の姿に胸がときめいてしまった。
この学校に入学して、初めて桜子を見た時と同じ気持ちだ。
見る者の目を奪ってやまないその美貌とスタイルの良さ――この世のものとは思えないほどの完璧な美少女だった。
あの時も、圭介は呆けたように桜子に見とれていた。
自分とは関係のない世界の少女だと思いながらも、どうしようもなく恋をした相手。
そして、今、彼女が自分のカノジョだということが夢のようだ。
「お待たせ、圭介」
桜子はいつもと変わらず、屈託のない笑顔で圭介に声をかけてきた。
「いや、思ったより早かったけど――」
「天気もいいし、屋上に行かない? この時間、人も少ないし」
「おう」と、圭介は不安を表に出さないように笑顔で応えた。
――が、席を立とうとすると、ぐいっと背中のシャツが引っ張られる。
「圭介、どこに行くの? またわたしを置いていく気?」
振り返るとそこに、妃那の怖い顔があった。
「悪い。桜子と話があるから、おまえはここで待っててくれ」
「いやよ。一緒にカフェテリアに行って、お昼ご飯を食べる約束でしょう?」
「だから、戻ってきたら一緒に行くって。それまで少しくらいガマンできないか?」
「無理。それより、そちらの方を紹介してくれないのかしら? わたし、会うのは初めてなのだけれど」
「紹介って……」
正直、妃那のことは、桜子と『いろいろ積もる話』をしてから、紹介したかった。
今は事がややこしくなりそうで、圭介はためらってしまう。
その時、妃那の顔が突然強張った。
「ほら、桜ちゃん、ダーリン、早く行って! この人、あたしが見張っててあげるから!」
いつの間にかやって来ていた薫子が、後ろから妃那を抱きしめている。
「ありがとな!」
圭介は薫子の作ってくれた好機を逃さず、桜子の手を取ってそのまま屋上まで逃げるように駆けた。
昼日中の屋上は日が焼け付いていて、かなり暑かった。
そのせいなのか、こんなところで昼食をとる生徒もいないので、二人で話すにはちょうどいい。
圭介は給水塔の陰に桜子を連れて行って、そこに座った。
「圭介、さっきの子って――」と、桜子が口を開く。
「ああ、おれのイトコ」
「もしかして、圭介、あの子と結婚するの?」
「なんで……? 知ってるのか?」
「それくらい予想つくよ。神泉家は同族婚の一族なんでしょ? 圭介が実家に帰ったとなると、当然、結婚相手は血縁者になるわけだし」
淡々と話をする桜子が、圭介には別人に見えるくらいに違和感を覚えた。
たった2週間ほど会わないうちに、自分の恋した相手は変わってしまったのだろうか。
雨の中、告白に来てくれた桜子はもうどこにもいないのだろうか。
二人の関係がただただ終焉に向かっていってしまいそうで、圭介は落ち着かなかった。
「桜子、おれが神泉家に行ったのは――」
「圭介」と、桜子にさえぎられた。
「あたし、いっぱい考えたの。圭介のこと、将来のこと。圭介の話の前に、あたしの話を聞いてもらってもいい?」
聞かれて、圭介はうなずくことしかできなかった。
「あたしね、初めて恋をして、圭介が特別になったの。だから、急に連絡が取れなくなった時も、探すのが当たり前。
けど、やっと見つけたのに、圭介には逢えなくて、お母様には2度と来るなって言われて……悲しかったし、頭にも来たよ。
だって、好きだったら逢いたいに決まってるし、それを邪魔されるなんて理不尽だもん」
「悪い……。母親のしたこと、代わりに謝るよ」
圭介が頭を下げると、桜子は「謝ってほしくて言ったんじゃないの」と、かぶりを振った。
「その時、お母様に『頭を冷やせ』って言われて、すぐには理解できなかったけど、おかげでいろいろ考えて、いろんなものが見えてきたんだ。
ほんと、お母様の言う通りだったの。
あたし、好きって気持ちの前では、何でも許されるような気がして、親も納得してくれる気がしてた。
けど、神泉家に押し入ろうとして、警報まで鳴らしちゃって……そんなことが公になったら、お父さんたちは何とかしてくれるかもしれないけど、それでも、二人が今まで一生懸命守ってきたものに傷をつけるところだったの。
あたし、自分の立場っていうものを今まで甘く見てたみたい。
自分の行動でどれだけ周りに影響が出るかなんて、考えたこともない子供だったの。
でも、いつまでも子供じゃいられなくて、あたしも将来を考えなくちゃいけない時が来たんだって悟ったんだ」
「うん……」
この話がどこに向かって行こうと、桜子が語る言葉はすべて聞こうと、圭介は決めて黙っていた。
ただそこに反論の余地があることだけを願って――。
「ごめんね、圭介。あたし、圭介が特別だから、圭介だけいれば他に何もいらないって言ったけど、その言葉を撤回したい。
あたしは家族も家も捨てられないの。お母さんの仕事を継ぐのがあたしの夢で、子供たちを笑顔にするのが好きなの。
だから、あたしはお婿さんをもらって、うちのグループの後継者になってもらう」
桜子の前を向いた瞳が未来を見て、きらきらと輝いている。
彼女は今、どんな『お婿さん』を想像しているのか。
(きっと、おれじゃない誰かなんだろうな……)
もともと圭介が桜子にふさわしいなどと、誰も思っていない。
圭介自身でさえ、思えなかったのだ。
ただ好きだから、どうしても桜子のそばにいたくて、いつかその隣に立てるように高みに上りたいと思っていた。
しかし、圭介がいくら頑張ってもその高みに到達できるかわからない一方で、すでにそれが可能な男はいくらでもいる。
泣きたいのに涙がかれてしまったかのように、ただ目が熱くなるばかりだった。
次話、この場面が続きます。
二人の話の行きつく先は?
 




