5話 5パーセント以下の可能性とは……
圭介は妃那を抱き上げたまま公園を駆けていた。
人ひとり抱えて走れるほどの筋力と体力があったのかと、自分で驚く。
幸い公園を抜けると、デパートがあった。
入るだけでも冷房が効いていて涼しい。
圭介は妃那を抱えたまま、最初に目についたブティックに駆け込んだ。
驚く店員に「フィッティングルームを借ります!」と言い置いて、妃那をそこに座らせた。
「妃那、とにかく着物を脱げ。自分でできるか?」
妃那がふるふると力なく首を振るので、圭介は女性の店員を呼んだ。
「すみません。着物を脱がせるのを手伝ってやってもらえませんか? 彼女、具合が悪くて。たぶん着物のせいだと思うんですけど」
当然のことながら、若い女性店員には怪訝そうな顔をされる。
いきなり店に飛び込んできた上、妙なことを言っていると思われているに違いない。
「代わりになる服、買ってきますから」
圭介が付け足してみると、「そういうことでしたらー」と、店員はガラッと態度を変えて、ニコニコしながら妃那のいる個室に入っていった。
(か、金の力って……)
初めての権力行使に、圭介は唖然としてしまった。
カーテンが閉められ、しばらくの間、中から衣擦れの音が聞こえていたが、やがて、カーテンが細く開けられた。
「一応、脱がせましたけど、代わりの服、どれにいたしますか?」
(……困った。女の服なんて選んだことねえよ)
「ええと、何でもいいですけど。涼しい感じで、お腹周りがゆったりしたものなら」
圭介の答えはその店員の欲していたものではなかったのか、別の茶髪の店員が呼ばれ、いくつかの服を持ってくるように指示されていた。
着替えが終わったのか、ようやくカーテンが開かれて店員が出てきたが、妃那は青い顔をしたまま、個室の中に座っていた。
着物の代わりにピンクの薄手のスリップワンピースを着ている。
「あの、一応、着せてみましたけど、彼女さん、かなり気分悪そうですよ。救急車を呼んだ方がいいんじゃないですか?」
「妃那、どうする? 病院に行くか?」
「……いいえ。先ほどよりだいぶ良くなったから、大丈夫よ」
(こいつの『大丈夫』はあてになるのか?)
「自分で歩けるか?」
「ええ」
足元を見れば、足袋を履いたままだった。
草履を履くには必要なのだろうが、ワンピースの足元にはおかしい。
店を見回せば、サンダルも売っていたので、ついでとばかりに店員に足に合うものを選んでもらった。
「ごめんなさい。圭介、怒っている?」
店を出てとぼとぼと隣を歩く妃那の顔色は、さっきよりずいぶんマシに見えた。
デパートの中は冷房も効いているし、炎天下を歩くよりは、ずっと身体が楽だろう。
「怒っちゃいねえよ。あんまり心配かけんなよ。これからは無理する前にひと言、言え」
ちょうど空いているベンチがあったので、妃那をそこに座らせた。
「ちょっとここで待ってろ」
「どこに行くの?」
妃那が不安そうな顔で見上げてくるので、圭介はくしゃりと頭を撫でた。
「胃の調子が悪いんだろ? 薬買ってきてやるから」
「嫌よ、一人にしないで」
「おまえは少し休んだ方がいい。ちゃんと戻ってくるから、安心して待ってろ」
妃那の隣に着物の入った紙袋を置いて、圭介はデパートを出た。
ここに来る途中に薬局があったのを覚えている。
薬局で水のいらない胃薬を買って戻ってくると、妃那は圭介が去った時と同じ格好で待っていた。
無表情に前をじっと見据えたまま、完全に人形に戻っている。
一人になるのが怖くて、凍り付いてしまったのか。
「妃那。ほら、薬。これ飲んだら、少し楽になるだろ」
圭介が隣に座ると、妃那はぎこちなく振り向き、それから幾度か瞬きをしたかと思うと、その瞳から大粒の涙をこぼした。
「一人にしないでと言ったのに……!」
「ごめん、悪かった。そんなに怖かったのか?」
泣きじゃくる妃那の頭をやさしく撫でてやると、妃那は「怖かったわ」と何度も繰り返した。
「ほら、ちゃんと戻ってきただろ。だから、もう心配すんな」
圭介は妃那が泣き止むまで付き合ってやるしかなかった。
(まいったな。これじゃ、親離れできない子供じゃないか)
こんな風に依存してくる妃那が独り立ちできる日が来るのだろうか。
そうでなかったら、せっかく『人間』に戻っても、妃那は圭介なしでは外も歩けないままだ。
(いや、まあ、子供だって成長して、いつか親から離れていくんだから、そう悲観したものでもないか?)
乗りかかった舟と、圭介はあきらめて深いため息をついた。
結局、迎えの時間が来るまで、圭介は妃那と一緒にデパートの中をウロウロして過ごした。
以上で、『渋谷の街散策』は終了。
「今日はこれで帰らないか?」
スケジュールによれば、これから横浜まで行って、中華街で食事することになっている。
ドライブはともかく、今の妃那に食事は無理だ。
「ダメよ。わたしは大丈夫だと言ったでしょう? このまま予定通りに行くのよ」
飲んだ薬が効いたのか、妃那は元気を取り戻したようだった。
顔色もよくなったし、食事の量にさえ気を付ければ、大丈夫なのかもしれない。
圭介はそう判断したのだが――。
車の中、出かける時と違って妙に静かだと思い、妃那の方を見れば、こっくりこっくりと舟をこいでいる。
午前中から出かけて、すでに半日以上。
初めて外に出た妃那にとっては、見るものすべてが珍しく、興奮するものばかりだったのだろう。
その分ストレスもあったに違いない。
(疲れて当然か)
ふらふらと寝ている妃那を軽く引っ張ると、圭介の膝の上に倒れ込んでくる。
そのまま寝続けているのを見て、圭介は思わず笑ってしまった。
(スケジュールを完遂できない可能性5パーセント以下、なあ……)
距離も渋滞状況も、店の混み具合もすべて計算に入れていたというのに、妃那自身の体力がまったく加味されていなかった。
(天才とバカは紙一重って、こいつのこと言うんだな)
せっかくの頭脳なのだから、こんなくだらないことに使わず、もっと世のため、人のためになることに使えばいいのにと思わずにはいられなかった。
「運転手さん、すみません。このまま引き返して、家に戻ってください」
圭介は運転席に向かって言った。
「よろしいんですか?」
「こいつ、今日はもう休ませた方がいいので」
「かしこまりました」
夕方のラッシュ時で渋滞にはひっかかってしまったが、それでも横浜に着くのと同じくらいの時間には、家に戻ってこられた。
「妃那、着いたぞ」
最後まで眠ったままだった妃那を揺り起こすと、彼女ははっとしたように起き上がって、眠そうな目をこすった。
「横浜に着いたのかしら? これから中華街見て――」
「家に着いたんだよ。今日はもう終わり。次の機会に行こうぜ」
「どうして!? せっかく予定を立てたのに、どうして変えてしまうの!?」
「おまえ、疲れて限界だろ。今度計画立てるなら、自分のことをちゃんと考えて立てろよ。
それに、計画は計画でぜひとも遂行しなくちゃいけないものでもない。その時の気分でいくらだって変更したっていいものなんだから」
妃那は不満そうに口をとがらせていたが、やがてコクリとうなずいた。
「わかったわ」
「そういうわけで、今日はゆっくり休め。おれも久しぶりに外に出て疲れた」
圭介が車を下りようとすると、妃那にシャツの背中を引っ張られた。
「圭介は楽しかった?」
「おう、楽しかった」
笑顔で言ってやると、妃那も「なら、よかったわ」と、こぼれるような笑顔になった。
1日出かけている間に、学校の編入手続きは完了。
圭介が自分の部屋に戻った時には、青蘭の制服がすでに用意され、明日から学校に行けるようになっていた。
今日1日妃那の様子を見てきて、いきなり学校に行ったらどうなるのか、とかなり不安を覚える。
しかし、圭介としては、まずは青蘭に戻って、桜子に会うことが最優先だ。
1学期の始め、あれほど学校に行くのが嫌だと思っていたのがウソのように、今はかかっている制服を見ると、うれしくて仕方がなかった。
次話、圭介&妃那の新学期が始まります。




