20話 特別な人だったよ
桜子視点です。
午前中だというのに、すでに蒸し暑いアスファルトの道を、桜子はずんずんと歩いていた。
昨夜、すべてを薫子から聞いた桜子は、心底怒った。
そして、一夜明けてもその怒りはまだ収まらない。
(あんのバカ! バカ! バカ!)
すべての『呪い』を仕組んだのは、幼なじみの貴頼。しかも、圭介を使って監視までさせていた。
そして、圭介と付き合うことになった今、彼を隠したのは、他でもない貴頼の仕業だ。
桜子は幼い頃に数回訪れた杜村家の門の前に立ち、一呼吸してからチャイムを鳴らした。
「はい」と、昔から変わらないお手伝いさんの声で応答がある。
「おはようございます。藍田桜子です。貴頼君に会いに来たんですけど」
「少々お待ちください」という返事とともに、門が開かれた。
下手に電話をかけて来たら、逃げられてもおかしくない。
そう思って、桜子は連絡もなく訪れたわけだが、夏休みということもあり、留守でも仕方ない――が、運よく貴頼は家にいたようだ。
桜子は短いアプローチを歩き、お手伝いさんの開いてくれるドアから家の中に通された。
こちらでお待ちくださいと案内されたのは、応接室だった。
赤を基調としたアンティークの並ぶその部屋は、やはり幼い頃に訪れた時と変わらない。
ベランダから外を覗けば、広々とした芝生の庭が広がっている。
小学校に入って間もない頃、貴頼の家に初めて呼ばれて遊びに来たことを思い出す。
親のしつけが厳しかったこの家には、子供が遊べるようなおもちゃやゲームといったものが全くなかった。
一緒に連れてきた彬や薫子が退屈がるので、みんなでこの庭に出て、鬼ごっこをしたり、木登りをして遊んだ。
ところが、木登りなどしたことがない貴頼がマネをしたところ、あえなく落下。
すり傷程度でケガは大したことはなかったのだが、貴頼の母親が血相を変えて飛んできて、『貴頼さんにこんな危ないマネをさせるなんて! こんな乱暴な子とは金輪際遊ばせません!』と、怒鳴られた。
桜子としてはかすり傷くらいで大げさな、と思ったものの、母親にすがってビービー泣いている貴頼を見て、『ごめんなさい』と一言謝って帰った。
それ以来、この家に来ることはなかったのだが、その代りに貴頼の方が藍田家に遊びに来るようになった。
彼の母親はもちろん桜子と遊ばせることに猛反対だったらしいが、彼はいつも母親の目を盗んでやってきた。
母親の方も貴頼を連れ戻そうと、何度も家にやってきたが、そのたびに桜子の母親が応対して、上手く追い返してくれたらしい。
貴頼のドンくささは筋金入りで、かけっこをすれば途中で必ず転ぶし、足を滑らして池にも落ちる。
そのたびに『桜ちゃん、痛いよー』、『桜ちゃん、つべたいよー』と、泣きべそをかいて、毎回毎回桜子にすがり付いてきたものだ。
時にはケガをして帰ったこともあるが、翌日にはケロッとした顔で遊びに来ていた。
(ヨリってば、あの頃1日でも泣かない日ってなかったもんね)
ここに来るまで怒り心頭の桜子ではあったが、こんな風に昔を思い出して懐かしいのと、おかしいのとで、思わずぷっと一人笑いしてしまった。
(あの頃のままでいられたら、楽しかったのに……)
今の貴頼はもう、桜子の知っていたあの頃の『ヨリ』ではない。
そのことは船上パーティーで再会した時に思い知らされた。
行動にそつがなく、目的のためなら手段を選ばない。
人を貶めることさえ、涼しい顔で平然とやってのける。
しばらく会わないうちに人が変わってしまうのが、悲しいと思った。
人の気配に振り返ると、貴頼が部屋に入ってくるところだった。
「桜子さんの方からやってきてくれるとは思ってもみなかったな」
大人びた表情も、静かな話し方も桜子の知っている貴頼のものではない。
全く別人に会っている気分だ。
桜子は少し離れたところに立つ貴頼を見つめ、それからゆっくりと気持ちを落ち着けるように息を吐いた。
「毎年、誕生日に花束を贈ってくれたの、ヨリだったんでしょ?」
「改めて聞かれることではないと思っていたけど。僕の他にこんなにあなたを想い続けている男もいないでしょう」
「なら、改めてお礼を言うわ。今までありがとう。でも、もう2度と受け取らない」
「どうして?」
「ヨリ、あんたがしてきたこと、あたしが許すと思った?」
「僕がしてきたことって?」と、とぼけたように聞き返す貴頼に対して、一度は収まったはずの怒りがふつふつと込み上げてくる。
それでも桜子は一つ息をついて、冷静に口を開いた。
「もう全部知ってるよ。あたしに告白してきた男の子たちを、お金と権力で引き離したでしょ。他人の人生をもてあそぶような人、あたしが好きでいると思う?」
「誤解のないように言っておくけど、僕はあなたをあきらめろ、なんて脅したわけじゃない。彼らはあなたと、あなたをあきらめた場合にもたらされる利益を天秤にかけて、結果、あなたをあきらめるという選択をしただけのことだよ」
「祐希君の件はそうかもしれない。けど、仲野先輩は?」
「あの1年先輩なら、今頃ニューヨークにいるよ。お父さんが外資系の銀行にヘッドハンティングされて、今までよりずっといい生活をしているはずだけど」
貴頼はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「なら、冬馬君は? ご両親を失って、何の利益があったって言うの?」
「彼は残念だけど間違った選択をしてしまったんだ。もともと彼の家の工場は、立ち退き区画になった時から借金がふくれて、もうどうしようもないところまで来ていた。
だから、僕は援助を申し出たんだよ。借金の肩代わりをするから、代わりにあなたから手を引いてほしいって。
でも、時はすでに遅すぎて、彼の両親も正常な判断ができる状況ではなかった。
結果、彼があなたをあきらめようが、どちらにしろ、恋などしている状況ではなくなってしまった。それだけのことだよ」
まるで他人事のように話をする貴頼に心底腹が立つ。
桜子は気づくと、彼の頬を張っていた。
「ヨリ、あんたにとって、他人は思い通りに動かせるゲームの駒か何かなの!? 祐希君も仲野先輩も得たものはあるかもしれない。けど、その代わりに何かを失わなくちゃいけなかったんだよ!
そもそも、誰かにそんな選択させること自体、間違ってるってことがわからない!? あんた、神様にでもなったつもり? 何様よ!?」
頭に血が上ってわめき散らすと、貴頼は桜子の手首をつかんで、ぎゅっと握りしめてきた。
その目に怒りがにじんでいることに初めて気づいた。
「僕にそんなことをさせたのは、あなただろう! 僕にはどうしてもあなたが必要なんだ。なのに、あなたは僕のことを男として見てくれない。僕がなりたいのは弟なんかじゃない! だったら、あなたに近づく男を排除して、僕が最後の一人になるまで、排除し続けるしかないじゃないか!」
桜子は貴頼の強い語気に瞑目して、それからその手を振りほどいた。
「たとえヨリが最後の一人になっても、あたしは選ばない。もう特別な一人は、あたしの中で決まっているの。あたしが死ぬまでそれは変わらない」
「会って数か月の男が生涯の一人だなんて、僕は認められない」
睨むように見つめてくる貴頼の視線をまっすぐに受け止めながら、桜子はゆっくりと言葉をつづった。
「あたし、人にはそれぞれいいところがあって、愛すべきところがあって、みんな等しく大切に思ってきた。けど、圭介に出会って、初めて恋がどういうものかわかったの。
だから、ヨリがあたしに近づく男の子たちを排除したいって思う気持ちも、今ならわかるよ。
けど、思うのと本当に実行するのは、別問題でしょ? それに、本気で誰かを想ったら、お金や権力でその心は簡単に変えられない。ヨリが何を仕掛けてきても、あたしの気持ちは変えられないの」
「あなたはそうかもしれない。でも、彼の方は? 今頃、度重なる不幸にあなたを好きでいることを、あきらめているかもしれないよ」
「それでも、圭介に直接気持ちを聞くまでは、あたしがあきらめない。あたしはこの恋のために全力を尽くすって決めたの。だから、圭介は返してもらうわ。どこにいるの?」
「もう遅いよ。今頃探しても、彼はもうあなたの手には入らないところにいる」
そう言って、貴頼はうっすらと嫌な笑みを見せた。
「どういう意味?」
「もう僕が何かを仕掛けなくても、彼は排除終了。そもそも、簡単に排除できない男をあなたに近づけるわけがないだろう?」
「それは答えになっていないと思うけど?」
「いずれわかる時が来るよ。その時、あなたが前言撤回して、もう一度僕を見てくれることを期待しているよ」
貴頼の余裕が癪に障る。
桜子がこれだけ拒否の言葉を並べても、彼には届かないらしい。
届かないくらいに桜子を欲している。
そうでなかったら、そもそも『呪い』をかけたりしない。
当然といえば、当然と言えた。
「一応、覚えておくよ。でも、ヨリ、これでサヨナラだよ。あたしの人生で初めての『絶交』。
ヨリも充分、特別な一人だったよ」
桜子は貴頼の返事を待たずに踵を返した。
圭介はここにはいない。
残る可能性――神泉家にそのまま向かった。
ついに貴頼との決別。次話、桜子が神泉家を訪ねるわけですが……。
 




