初恋のゆくえ
「ねえ、ジョー。大きくなったら僕のお嫁さんになってくれる?」
「ええ、もちろんよ!」
私が大きく頷くと、アルはとても嬉しそうに笑って、私をぎゅっと抱きしめた。お日様のような優しい匂いに包まれて、なんだかくすぐったくて私も笑う。
「ジョー、大好き」
「私もよ、アル」
ぎゅうぎゅうと抱きしめあって、私たちはそのまま花畑に転がった。爽やかな草の匂いと、控えめな野花の香りが広がる。
「じゃあ、僕、黄色のお花で指輪を作ってあげる。ジョーの髪の色でしょ? 僕、母様に作り方を教えてもらったんだ!」
白や黄色、薄いピンクの小さな花がたくさん咲いた花畑。その中に転がって、お互いにじいっと見つめあって、私たちは微笑みを交わす。
「嬉しいわ、ありがとう! アル、大好きよ!」
幼い頃――祖母を看取るためにしばらく逗留していた別邸で、私はそんな約束をした。アルという名の彼は私の同い年で、おそらく私と同じ、貴族階級の子供だったのだと思う。
別邸からほど近い丘にあったあの花畑は、隣の領地とのちょうど境目だったと聞く。私と彼はそこで出会って、お互いを本名ではなく愛称で、アルとジョーと呼び合っていた。探そうと思えばアルを探すこともできたのだろうけれど、私は初恋の思い出を敢えてそっとしておいたままだった。
今でもたまに思い出す、優しくて眩しい思い出だ。
しかし、時の流れは案外早いもので、現在16歳の私は、彼の顔立ちや声をはっきりと思い出すことができなくなっていた。ただ、天使のような黒い巻毛と、新鮮な苺のようにキラキラの赤い目の持ち主だったことだけは、ぼんやりと覚えている。
一方で、彼が黄色い花に例えた私の髪も、成長するにしたがって、鈍く輝く金褐色に変わった。もちろん目の色は変わらないままだが、きっと、どこかの夜会で偶然に出会っても、お互いに気づけるかどうか。
それに――
「ジョイス」
3ヶ月後に迫った誕生日のことを考えていると、廊下からお父様の声がした。はいと返事をしてドアを開けると、
「マクファーソン卿がお見えになった。お前も応接間にきなさい。服装は……そのままで大丈夫だろう」
似合っているからね、と気恥ずかしそうに付け足して、お父様は早足で出て行った。
――ロイ・マクファーソン伯爵令息。私は、15歳から彼と婚約しているのだった。
「こんにちは、アーレント伯、ジョイス嬢。お会いできて嬉しいです。先週は急に来られなくなって、大変失礼いたしました」
3人で程よい距離を保ち、マクファーソン様、お父様、私という順でL字型のソファに腰を下ろした。頭を下げる彼に、お父様もいやいやと優しく声をかける。
「構わないよ。確か、急にガードナー卿がいらっしゃったのだと聞いているよ。我が家とガードナー卿なら、誰だってガードナー卿を優先する」
ガードナー卿というのは、彼の話にしばしば出てくる男性だ。公爵家の令息にして彼の幼馴染で、どこか高貴な家への婿入りが決まっているという。
「そう言っていただけると助かります。ただ、ジョイス嬢に会えない時間が1週間伸びてしまいました。本当に早く会いたかったのですが」
心底残念そうに、マクファーソン様は形の良い眉を下げた。凛々しく整えられた眉には迫力を感じるが、やや垂れた青い目は潤みがちで優しく、目元の印象はちょうど良い具合にやわらかい。
そんな彼に見つめられて、お父様の前だというのに私の頬は熱くなった。
「ワハハ……」
頬を染めてモジモジする私とマクファーソン様を交互に見ながら、お父様が乾いた笑い声を上げた。まもなく娘を奪われんとする父親の、哀愁に満ちた笑いだった。
「ジョイス嬢も、あと3ヶ月で17歳ですね」
お父様が出て行ったあと、先ほどまでお父様がいた位置に座り直し、彼は嬉しそうに切り出した。彼は1歳年上だが、2人きりの時でも丁寧な言葉で会話してくれている。
「ちょうど先日、仕立て屋からの報告が届いたんです。仕立てはいたって順調だそうで、来月あたりに一度試着してもらいたいとのことです。伯爵と行かれても構いませんし、僕に頼んでくださっても、喜んで一緒に参りますよ」
「まあ、ありがとうございます。父と相談してみて、お手紙を差し上げますね」
「ありがとう。僕はジョイス嬢の字も好きだから、楽しみにしています」
こんなふうに、マクファーソン様はことあるごとに私に好意を伝えてくれる。元々は父親同士の決めた政略的な婚約だったが、偶然にも共通の友人がいるとわかり、それから私たちは意気投合したのだった。
「あ、それと……バーティもジョイス嬢によろしくと言っていましたよ」
「あら、ガードナー様が? ぜひ、お礼をお伝えしておいてくださいませ」
「はい」
ゆったりと微笑んで、マクファーソン様は目を細めた。釣られて私も笑う。
「ジョイス嬢が僕の目の色のドレスを着てくれると思うと、今から楽しみで仕方ありません」
「わたくしもです。マクファーソン様から贈っていただけるというのも嬉しいですし、なんだか、その……マクファーソン様の目は、とても素敵な色で、憧れていますから」
婚約するや否や、彼はなんとかお父様を説得し、私の誕生日パーティーのドレスを仕立てる権利をもぎ取っていた。去年に続き、2着目のプレゼントである。
彼がしてくれるように、言葉にせよ行動にせよ、私もスマートにこの思いを伝えられたらよかったのだが、なかなかうまく行かない。どうしても照れてしまうのだ。
しかし、拙いなりにきちんと彼に届いたようで、白くきめ細かい彼の肌に紅色が広がった。
「……結婚が楽しみです」
照れながら言うマクファーソン様に、私も大きく頷き返した。
17歳になると、貴族院に成人の届出ができるようになる。婚約は何歳からでも可能だが、婚姻をするには成人を迎えている必要がある。私とマクファーソン様は、私の成人後に半年間の花嫁修行――という名の結婚準備期間を経て、それから結婚する予定だ。
ジョイス・マクファーソンになる日を楽しみに待つ一方で、ふと、アルも元気にしているといいなと思う。あの時に交わした約束は、確かに真心から来る、子供なりの純粋な愛の結び目だった。こちらに戻ってきてから全く消息は知らないけれど、キラキラとした優しさを贈ってくれた彼も、きっと幸せでいてほしいと、小さな頃の自分を撫でるように願うのだった。
「結婚おめでとう!」
誓いと指輪の交換、そして結婚証明へのサインを終え、喜びの場は結婚式からパーティーへと移る。聖堂から戻り、晴れて彼の――ロイ様の妻となった私は、夫とともにマクファーソン邸にやってきたゲストに挨拶してまわる。
「ああ、あそこにバーティがいる。ジョイス、一緒に行きましょう」
「はい、ロイ様」
主要なゲストを捌けば、あとは比較的自由が利く。まだ会ったことがないままのガードナー様は私も気になっていて、二つ返事で再び彼の手を取った。
ダンスを踊るかのような華麗なエスコートで、ゲストたちの間を抜けていく。
ロイ様がエスコートの速度を落とすのと同時に、私の目にある男性が飛び込んできた。
「やあ、ロイ、そしてマク、……」
私が息を呑むのと同時に、彼も言葉を止めた。
親しげな笑みに、軽く上げた片手。この方が、間違いなくガードナー様だろう。
ウェーブがかかったような黒髪は後ろに撫でつけられて、ぱっちりと愛嬌のある目には赤い宝石がキラキラ光っている。
「バーティ。来てくれてありがとう。彼女が妻のジョイスだよ」
彼の沈黙を、私の呼び方に困ったせいだと思ったらしい。ロイ様は、やわらかい声で私を紹介し、そっと腰を引き寄せた。
「ジョイス。彼がバーティ――アルバート・ガードナー。僕の親友です」
アルバート……
それが、あの懐かしいアルの――彼の名前だったらしい。私は彼をアルと呼び、ロイ様はバーティと呼んでいたのだ。
それから――
パーティーの後、アルと私の昔話を聞いて、ロイ様はくすぐったそうに、そして残念そうな笑い声を上げた。
「なんだ。そうと知っていたら、僕は小さな頃のジョイスの話をたくさん聞けたのに」
「あの頃は、父上が体調を崩していたんだ。父上は療養しながら執務もしていたから、邪魔をしないようにと、叔父上にしばらくお世話になったんだ……。代替わりしたばかりで父上の立場が不安定だったから、他言無用になっていて言えなかった。すまなかったよ」
となると、私がアルのことをあれこれ周りに尋ねなかったのは、正しい判断だったようだ。あれこれとじゃれ合う2人を見て、思わず微笑みが浮かぶ。
「ジョー……いや、今はマクファーソン夫人か。改めて、結婚おめでとう」
「ありがとうございます、ガードナー様」
優しく目を細める彼に、あの時の思い出がふっと過ぎる。野花に、空に、鳥に、興味津々で輝いていた赤い目は、今も変わらず煌めいている。
そして、視線を滑らせれば、その左手には鮮やかなシトリンの指輪。
よかった。幸せなんだな。
シトリンの色から彼が連想するのは、私の髪ではなくて、きっと別の女性の姿だろう。
そう思えるのが、どこかホッとして、どこか誇らしくて……。
「ガードナー様の婚約者様は、きっととても素敵な方なのでしょうね」
胸を満たす温かい喜びに任せ、笑いかける。
「わたくしは、ロイ様に大切にしていただけて、ともに思いあって過ごすことができて、幸せ者なのです。ですから、同類は一目で分かってしまうのですよ」
「そうだよ。バーティったら、惚気てばかりのくせに、万が一のことがあったら嫌だからって、なかなか紹介してくれないんだもの。ジェニー嬢が君にめろめろだってわかっているくせに……だから、バーティ、結婚式には絶対呼んでね?」
見せつけるように私を抱きしめてきたロイ様に苦笑しつつ、ガードナー様は大きく頷いた。
その表情は、私たちに呆れているようでもあり、或いは自分にも思い当たる節があるかのようでもあり……
「とにかく、2人が幸せになれてよかったよ。……マクファーソン夫人、初めて君と会った後のロイの様子、知りたくはない?」
「まあ、ぜひ!」
「え、ちょっと、バーティ。ジェニー嬢がいないから、僕が圧倒的に不利じゃないか。ねえ、それは反則ではない?」
私をぎゅうぎゅうと抱きしめながら狼狽えるロイ様。そんな様子に私とガードナー様が揃って笑い、結局はロイ様も釣られて笑い始める。
あの時の約束は叶わなかったけれど、私たちはそれぞれに幸せだ。
もしかしたら、本当にアルと結婚していても、それはそれで幸福だったのかもしれない。だけど、今の私には、やっぱりロイ様しかいないと思うし――それはきっと、アルも同じ。
アルとの約束があるからといって、ロイ様との結婚が裏切りというわけではない。
ロイ様と結婚したからといって、あの時の恋が嘘になったわけでもない。
いまの私に言えることは、ただ一つ――
「ロイ様、愛していますよ」
私の口からこぼれた言葉に、最愛の夫がどういう顔をしたか。
それは、お腹を抱えて笑い始めたガードナー様の姿を見れば、きっと誰にだって分かってしまうに違いないのだった。