プロローグ
世の中に変わらないものなんてない。
けれど、山裾の桜が遠目にもぼんやりと春を纏っているのを見ると、この景色は何十年後、何百年後でもそのままあるんじゃないかなー、なんて、つい、考えてしまう。
大学の春休み。
わたしは10年ぶりに、故郷の村に帰ってきた。
(もう、10年か……)
――― わたしが通っていた小学校が廃校になり、両親の仕事の都合もあって、街へと出たのが小学校3年生の時。
それから、小学校の5年生頃までは毎年村に帰っていたが、クラブ活動や受験で忙しくなって帰れない時が続き、気がつけば10年経っていた。
引っ越しの時には、「村を離れたくない」 と泣き、帰る度に 「もっといたい」 と泣いたのが、昨日のことのように思い出されて、懐かしいような笑えるような、変な気分だ。
2時間に1本しかない電車を見送ってから、人気のない待合室の中をのぞくと、祖父が、隅にひっそりと座って新聞を読んでいた。
早くから待っていてくれたのだろうか。
「おじいちゃん!」
「おう、橘花ちゃん」
手を振ったわたしをすかさず見つけた祖父は、相好を崩して身軽に立ち上がる。
「よお、来たのう。まぁ大きゅうなってからに」
「迎えきてくれて、ありがとう。おじいちゃんは、変わっとらんね」
「偉くなったんよ? 最近は校長先生もやっとるで」
威張ってみせる口調に、思わず笑ってしまう。
『校長先生』 とは、村人がボランティアで運営している森林学校の、一年交代の校長のことである。
廃校になった小学校が、今では森林学校へと姿を変え、折々に都会からの子供たちを受け入れているのだ。
「すごいね」
「おじいちゃんなんか、まだ若い方じゃけえ。はい、はよ乗りんさい」
威張る75歳に促され、車に乗り込むとすぐに、エンジンがかかる。
――― 駅から、さらに自動車で1時間半。
わたしの故郷があるのは、時代からも忘れ去られてしまうような、山奥なのだ。 ―――
「先月、裏の坂村のクニちゃんが亡くなってのお」
曲がりくねった山道を慎重に運転しながら、祖父が話し出した。
「ふうん。『はらはら様』 じゃったの?」
「おうよ。年末から、少し寝ついちょったと思うたら、あっという間よ」
「ほうかね」
「ほいでよ、今日、シモの中田の次郎坊も亡くなったで…… この前、ガンが見つかったっち、話しとったのにのぉ。
そのうち手術をするっち聞いとったのに、その前に逝ってしもうて」
「 『はらはら様』 じゃろうかねぇ」
「おうよ。苦しい思いをする前に、おいでんなったで、良かったのかもなぁ」
祖父の口調は、寂しげではあるが、どこかサバサバとしていた。
――― 『はらはら様』 であれば、諦めるしかない。少なくとも、逝った人のためには良かったのだから。
ずっと 『普通』 だと信じていたその感覚が、この村特有のものだと知ったのは、わたしが大学生になってから…… それも、つい先日のことだった。
ふとわたしが口にしたのを、友人のマキに問い直され、説明すると、首をかしげられたのだ。
「それ、『ピンピンコロリ』 みたいなもの?」
「いや…… どちらかっていうと『ネンネンコロリ』 ?」
本当は、『ピンピン』 も 『ネンネン』 も微妙に違う。
元気だったのに、ある日ぽっくり逝くのは、もちろん 『はらはら様』 ではない。
けれども、病気で苦しみ抜いて亡くなるのも 『はらはら様』 とは言わない。
「たとえば…… ある日、ちょっと具合が悪くなって寝付くでしょ。友達や家族がお見舞いにきて、笑って思い出話をするでしょ。
その後わりかしすぐに、眠ってる間に亡くなっているような時に、『はらはら様』 って言うんだよ」
「独特……ほかに類型がないよねー」
わたしと同じく民俗学を専攻しているマキは、またしても不思議そうな顔をする。
「自然への畏怖の具現、とは違うみたいだし…… どっちかというと 『土着の神』 みたいな、信仰対象になるのかな?」
「うーん…… 近いかな……」
わたしは曖昧にうなずいた。
本当は、少し違う。そして、その少しの違いが、ものすごく違う。
分類され、整理された型からこぼれている何かが、最も真実に近いような気がするのに、それは目に見えるものでなく、口にすることもできないのだ。
しかし、その感覚はマキには説明し難かった。
――― 見えるものしか信じられないなんて……。
胸の底に渦巻く、誰に対してのもの、とも言えない不満を、わたしは 「春休みにでも、調べなおしてみようかな…… 久々に帰りたく、なってきたし」 と独り言のように呟くことで、誤魔化したのだった。
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『はらはら様』 ……それに初めて出会ったのは、わたしがまだ幼く、廊下の隅の暗がりや客間で埃をかぶったピアノや、静かな昼下がりにひとり揺らめくカーテンなどが、それぞれに意味を持っていた頃だった。
その頃、農作業中の怪我が元で寝たきりになっていた曾祖父の枕元に、それは、いたのだ。
曾祖父の病室は、わたしが今寝泊まりさせてもらっている、中庭に面した八畳間だった。
――― 中庭のあじさいの葉が反射する陽光が、集まったのかな。
わたしはまず、そんな風に考えて、母に教えた。
そして、見えない、と言われてガッカリした。しかし、その時に母はこう、言ったのだ。
「きっと、はらはら様じゃね。おじいちゃん、良かったねぇ」
「ふうん」
あの白い光の名前が 『はらはら様』 だと知っただけで満足した私が、それ以上を母に訊くことはなかった。
けれど数日後、わたしはその意味を知ることになる。 ――― 曾祖父の死と、そこで交わされた、大人たちの会話によって。
――― 『はらはら様』 は人の最期に関わる、存在なのだ。苦しみなく、痛みなく、眠るように命の花が散る時…… それは、近くに現れる。 ―――
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「せっかく来てくれたが、そんなわけで明日は忙しいでよ。葬儀の支度じゃけえね」
村の葬儀は、村人総出で行われるのが慣わしだという。
祖父の少々申し訳なさそうな声に 「手伝うよ」 と応じて、わたしはぼんやりと、道脇に残る枯れたすすきを眺めた。
幼い頃、曾祖父の傍で見た白い光。それは今も、この村で亡くなる人たちに寄り添っているのだろうか……。
――― この時のわたしは、村の人たちの間に、一種の集団ヒステリーじみた信仰のようなものが生まれていることには、まだ気づいていなかった。