Cafe Shelly 悩める主婦の日々
なんでこうもうまくいかないんだろう。今回もまた、そんなことが起きてしまった。
「だから、あれほどちゃんと準備しておきなさいって言ったじゃない」
「言ったじゃないって、母さんが気を利かせてくれれば、こんなことにならなかっただから。あーもう、どこにやったかなぁ」
娘の真里が、学校に行く直前になって体操着がないと騒ぎ出した。どうしてこんなことになったのかというと、ふだんから「洗濯物はきちんと出さないと洗濯はしない」ということを伝えていたから。
ところが真里は、自分の部屋に洗濯物を溜め込む性格。そのくせ、部屋には勝手に入るなと言うのだから。結局、二着持っている体操着を両方洗濯せずに放置して、いざ必要となったときに
「体操着、洗ってくれた?」
なんていい出す。そして先ほどの会話となった。結局、まだ洗っていない体操着を急遽持っていくことにしたのはいいが、それがどこにあるのか見つからないのだから。
「ねぇ、お母さんも一緒に探してよ」
焦る真里の言葉に、仕方なく部屋に入って探す。すると
「ほら、ここにあるじゃない」
私は部屋に入るなり、一発でお目当ての体操着を探し出すことができた。ホント、どこを探しているのやら。
私が先回りすると、余計なことをしてと言われるし。逆にしてあげないと今日みたいなことが起きちゃうし。結局、私がやっていることってなんなんだろう。
そういえば今日はお茶会の日だったな。お茶会、といってもちゃんとしたお茶の会のことじゃない。ただ、仲のいい友達とランチを食べて、おしゃべりをするという会。だれともなく「そろそろやらない?」と言い出して、都合のいい人だけが集まるという、気軽な会。
なのに、私はこの日になるとちょっと憂鬱になる。それは、ある一人の女性、幸子さんの存在のせいだ。
私の直接の友達じゃないんだけど、なぜだか幸子さんは私にやたらと気軽に声をかけてくる。それはいいことなんだけど、それがなれなれしすぎて。私が彼女の子供のために、制服のお下がりを回してあげたことがきっかけ。しかも、うちの娘の制服を回したのではなく、別の人のものを仲介してあげただけ。
それをきっかけに、幸子さんは次々に「こんなの持ってる人、知らない?」と私に要求してくるようになった。最初は私を頼ってくれているんだなって思って、親切にしてあげていたけれど。それも度が過ぎるとねぇ。今日も何を要求されるやら…。
その会合で、もう一つ憂鬱なことがある。それが旦那の仕事のこと。
「旦那さん、今日も出張なの? ホント、亭主元気で留守がいいよねぇ」
そう言われるのが非常に困る。傍から見れば、私は専業主婦で旦那が稼ぎに行っている間は自由な時間を過ごしていると見られている。さらにうちの旦那の仕事自体がちょっと特殊で。
「旦那さん、また活躍してるじゃない。いいわよねぇ、好きなことをしてお金儲けできるんだから。うらやましいわ」
会合ではこれもまた、いつも聞かされるセリフ。旦那の仕事はカメラマン。写真集も出したし、テレビでも取り上げられたりするものだから、我が家は印税やらで左うちわの生活をしていると思われている。
しかし、内情はまったく逆。正直なところ、かなりカツカツの生活を強いられている。なのにどうして私が働きに出ないのか?
これにはちゃんとした理由がある。
一つは収入がないからこそ、節約して家を守って欲しいという旦那のたっての希望があるから。そして、たまにしか帰ってこれないのだから、そのときには家にいて欲しいという願望もある。
もう一つは義理の母親の介護のこと。私がときどき面倒を見に行かないといけない。
結局、専業主婦って言っても世間一般が思っているほど暇ではない。しかも、唯一の愚痴吐き場であるお茶会も、ストレスが溜まるようなことばかり。私ってどうしてこんなにうまくいかない人生を歩んでいるんだろう。
そもそも、私ってこの先何がしたいんだろう?
これといった趣味も持っていないし。特技とかもないし。毎日子どもと姑、そしてたまに旦那の世話。忙しいのに退屈な人生だなぁ。
「おっと、いけない。お茶会に行く準備しなきゃ」
そんなことを思いつつも、お茶会には行ってしまう。楽しいからではない、お茶会をサボると何を言われるかわからないからだ。半ば義務感を引きずりながらお茶会へと足を向ける。
「そういえば、今日はいつものファミレスじゃないところだったな」
携帯メールに来ていたお茶会のお知らせ。ちょっと変わったお店を見つけたから、そこに行こうということになっている。なんでも変わったコーヒーを飲ませてくれるお店らしい。
「Cafe Shelly…カフェシェリーって読むのかしら。私、横文字弱いからなぁ」
ホント、私って横文字とかカタカナとか苦手なのよね。有名な外国人タレントとか商品名とか、なかなか覚えないし。
「なんか、こういうのも憂鬱なのよねぇ…」
そもそも、専業主婦の私には自由に使えるお金はそんなにはない。たまに、人から頼まれてちょっとしたアルバイトみたいなものはやっているけれど。でも、ふところは寂しいばかり。
いつものファミレスならかなり安くで長時間いられるけれど、喫茶店だとコーヒー一杯でどれだけ粘れるやら。他の奥さんが何かを注文すれば、私も同じように注文しないとなんだかみすぼらしくなっちゃうし。こういうのも悩みのタネなのよねぇ。
でも、お茶会をサボれば別のストレスも出ちゃうから。まだ数百円使うほうがましか。
そんなことを考えつつ、待ち合わせ場所の喫茶店カフェ・シェリーに着いた。通りに置いてある黒板の看板に、こんな言葉が書かれてある。
「悩みは悩みと思うから悩みになる。課題と思えば成長できる」
なんか哲学的な言葉だなぁ。悩みって悩みじゃない。悩みと課題って、何が違うのよ?
そう思いつつ、ビルの二階へと足を運ぶ。
カラン・コロン・カラン
扉を開くと、心地よいカウベルの音。同時に漂ってくるコーヒーの香り。さらにその奥から甘いクッキーの香りもただよってくる。なんだかすごく心地良い空間だな。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から聞こえてくる渋い声。とてもダンディなマスターが私を迎えてくれる。さっきまでの思いとは裏腹に、私はこのお店のファンになってしまった。いいじゃない、ここ。
「あ、きたきた。雪江さん、こっちこっち」
手招きをするのは、私達の集まりではリーダー格であり、今回このお店に行こうと言い出した恵子さん。一番年長でもあり、私達をぐいぐい引っ張っていくタイプ。逆を言えば、自分の思い通りにならないときにはすぐに腹を立ててしまう。ちょっとわがままな人だ。
お店の奥、窓際の半円型のテーブルにはすでに四人が座っている。リーダー格の恵子さん、いろんなものを要求してくる幸子さん、物静かな郁美さん、おしゃべり大好きな加代子さん。今回は私が最後に来たようだ。この五人が、一見すると仲良し主婦グループ。なのだが、実際のところはお互いがお互いを牽制しあっているところもある。
「あ、座るところがないわよね。マスター、このイスをこっちに持ってきてもいいかしら?」
もともとは四人がけの席なのだろう。恵子さんが真ん中の三人がけの席のイスを移動してよいかをマスターに尋ねる。
「はい、いいですよ」
マスターはにこやかな顔で、私達のわがままを聞き入れてくれる。このときに思った。イスを一つ動かすだけで、せっかく調和の整った空間が崩れてしまうじゃない。たったこれだけのことで、このお店の空間が、なんだか偏ったものに感じてしまう。
とはいえ、私の座るところがないのは困るし。気持がゆらぎながらも、恵子さんが強引に椅子を動かして私の座るところをつくってくれた。
「じゃぁ、みんなそろったからここの自慢の魔法のコーヒーをいただきましょうよ。マスター、例のコーヒーを五つおねがいしまーす」
「かしこまりました」
魔法のコーヒーってどういうことだろう?そう思いつつも、話題はおしゃべり好きな加代子さんが仕入れた、最近のご近所ネタへと移っていった。
加代子さんの話にうなずきながらも、私はなんだか居心地の悪さを感じている。やはり空間のバランスが悪くなったせいじゃないかな。それとも、もともとこのグループそのものに居心地の悪さを感じているのだろうか。
こういった些細なことを気にしだすと、さらに気持ちがゆらいでくる。私って神経質なのかしら。
「…なのよ。雪江さんはどう思う?」
急に話を振られて、ちょっととまどう。
「えっ、えっと、そうねぇ。まぁ、それはそれでいいんじゃない」
適当な言葉でお茶を濁す。正直、話の内容はさっぱり頭に入っていなかった。興味のない話だったし。
「そうよねぇ、まぁ人は人って言うから」
加代子さんが私の言葉に返してくれて、さらに会話はすすんでいった。どうやら今の答えで間違ってはいなかったらしい。女性同士のおしゃべりはさらに加速を増していった。
ふぅ、やっぱり私、このグループに向いていないのかしら。どうせおしゃべりをするのなら、もっと前向きで知的な話がしたいわ。ここはいつも愚痴ばかり。特に旦那の愚痴が多くて。まぁ、心に思っている不満を吐き出す場が欲しいのはわかるけれど。私の心の中にある不満や悩み、どこか吐き出せる場ってないのかしら。このグループじゃ、私の思いは理解してもらえそうにないし。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
その声に振り向くと、マスターがコーヒーを運んでくれた。このときに思った。この人なら私の話を聴いて、理解してくれそう。でも、こんな見ず知らずのおばちゃんの話なんて聴いてくれるわけないか。
カラン・コロン・カラン
そのとき、ドアのカウベルが鳴り響いた。
「ただいまー」
入ってきたのは、髪の長いきれいな女の子。
「マイ、おかえり」
マスターがそう言う。ということは、この女の子はこのお店の人なんだ。
「そうそう、あの子よあの子。とっても不思議な女の子なのよ」
突然、恵子さんがそう言葉にした。不思議な女の子って、どういう意味なのだろう。
「私が初めてここにきたとき、このシェリー・ブレンドを飲んで、あの子と会話をしたら不思議な経験しちゃったのよ」
「どんな経験?」
みんな恵子さんの話に興味津々。もちろん、そばにはマスターもいる。
「それは百聞は一見に如かずよ。ねぇマスター、あの子に来てもらっていい?」
「はい、いいですよ。今準備していますからもうしばらくお待ち下さい」
私たちはコーヒーを目の前にして、しばらくおあずけの状態になってしまった。でも、あの女の子がどんなことをしてくれるのか。これはとても楽しみだ。
「おまたせしました。じゃぁ、まずはシェリー・ブレンドを飲んでみてください。飲んだら感想を聞かせてくださいね」
マイさんと呼ばれた女の子、一見すると可愛らしい若い子だが、近づいてみるとなんだか第一印象とは違うオーラーを感じる。確かに不思議な感じの子だ。
私たちは早速、目の前に用意されたコーヒー、シェリー・ブレンドをそれぞれ口にする。
うん、おいしい。私はコーヒーの味ってよくわからないけれど、インスタントとは全く違うのはよくわかる。まず香りが違う。そして舌に触れたときに味わい、これは深いものがある。そして、その後に広がる爽やかさ。えっ、爽やか?
コーヒーなのに爽やかってどういうこと?
でも、確かに爽やかに感じる。ミントのようにスーッとする感じ、でもないし。なんなんだろう、ちょっと不思議な味がする。
「わぁ、すっごく甘く感じる」
「えっ、甘い? 私はちょっとほろ苦さを感じるけどなぁ。まるで昔の恋愛みたいに。なんか懐かしくなっちゃった」
「うそぉ、私は口の中で味が踊っている感じを受けたわ。サンバのリズムって感じ」
「なによ、それ。サンバのリズム味って初めて聞いたわ」
みんな思い思いの感想を口にする。おもしろいのは、誰一人同じ味を感じた人がいないってこと。みんなバラバラ。
「うふふ、みんな不思議な体験しちゃったみたいね。私のときと同じだ。じゃぁ、ここからはこの子にまかせちゃうね」
恵子さんが話をまとめる。その言葉で、マイさんが解説を始めた。
「このコーヒー、シェリー・ブレンドには魔法がかかっているんです。それは、飲んだ人が好んだ味がするというものなんですよ。今欲しがっているものが味にあらわれるんです。人によっては、望んだものが映像で浮かんでくる人もいますよ」
「ということは、私って甘さを欲しがっているのかな。甘いものは欲しいけど…まぁ、甘い生活なんて遠のいていたからなぁ」
「やだぁ、あなた、ご主人とラブラブしたいんじゃないの?」
この人達、人の思いをこうやってからかうんだよね。私、そういうのが今ひとつ乗れなくて。
ここから、マイさんが一人ひとりに対して味を確認し、そこから本当に心の奥にある「望んでいるもの」を引き出してくれた。その内容が、今まで自分が気づいていなかった、潜在的な思いや願望だったりするから、みんなびっくり。
そして最後は私の番になった。
「雪江さんはどんな味がしたの?」
恵子さんが私に聞いてくる。みんなの目線が私に集まる。正直なところ、どんなものが私から引き出されるのか、興味半分、怖さ半分。
「私は、スーッとした味がしたの。ミントみたいに。爽やかな感じを受けたかなぁ」
「ってことは、何かモヤモヤしてるんじゃないの?」
恵子さんの言うとおり、たしかにモヤモヤしている。家庭のこと、旦那のこと、そして今のこの場のこと。けれど、決してそれは口にすることはできない。
「雪江さんっておっしゃいましたよね。スーッとした感じから、どんな自分を想像しましたか?」
マイさんが優しい口調で私に尋ねてくれる。その瞬間、なんだかホッとできた。と同時に、心の中のモヤモヤしたものが一瞬晴れた気がした。
あ、これなんだ。私が欲しかったもの。
「はい、いろんな悩みがスッキリして、頭の中が晴れた感じがしました」
けれど、次の言葉を言おうとしたときにまたモヤモヤが襲ってきた。これは言えない、このことはこの人達の前では口にはできない。
「なるほど。けれど、また頭のなかで悩みが湧いてきた。そうじゃありませんか?」
言われてドキッとした。マイさん、私の考えがわかっていたのかしら。
「雪江さんって、なんかいつも神妙な顔してるわよねぇ。悩みってそんなに多いの?」
おしゃべりの加代子さんにはわからない悩みなんだろうな、これ。
「雪江さん、でしたよね。ちょっといいですか?」
マスターがカウンターから私を呼ぶ。一体何かしら?私はカウンターへと移動する。
「雪江さん、ひょっとしたら皆さんの前では自分の悩みを話せないのではないですか?」
「えっ、ど、どうしてそれが…」
「失礼ですが、見ていたらどうしてもみなさんとは馴染んでいないような感じがしたもので。それで、もしよろしければなのですが。マイは実は、カラーセラピストとしても活動をしています。お店が終わってからの夜七時から、予約制で相談を受けています」
このとき、私の心の中ではモヤモヤ感を晴らす光が指してきた気がした。ひょっとしたら、私が今まで話せなかったことが全て話せるかもしれない。そう感じたのだ。
「ぜひ、そのカラーセラピーを受けさせて下さい。お願いします」
「わかりました。マイに話しておきます。あとでご都合のよい日程をお知らせ下さい。あ、これここの連絡先になります」
マスターは電話番号とメールアドレスが書かれた、マイさんの名刺を渡してくれた。この一枚の名刺がとても輝いて見えた。
「さ、怪しまれないうちに戻ってくださいね。このことはもちろん、皆さんには内緒にしておきますので」
「ありがとうございます」
私はお礼を言って、元の席に戻った。席では恵子さんを中心にあいかわらずおしゃべりに夢中になっていた。
この日はこんな感じで解散となった。いつもなら、ここでちょっとした虚しさが漂う。無駄な時間を過ごしちゃったなって。
けれど今日は違う。カフェ・シェリーという喫茶店に出会えたこと。そしてマイさんのセラピーを受けられるということ。私は早速自分の都合の良い日を選んで、名刺に書かれていたメールアドレスへ連絡を入れた。
すると、ほどなくしてメールの返事が返ってきた。
「あさっての夜7時に、お店にいらして下さい。お待ちしています」
その他、セラピーを受けるのに必要な項目が書かれている。料金もそんなに高くないし、ちょっと楽しみになってきた。
「お母さん、何かあったの?」
夜、娘と二人で晩御飯を食べているとそんなことを言われた。ちなみに旦那は昨日から一週間ほど、撮影旅行ということで家を空けている。
「えっ、どうして?」
「だって、今日はやたらとニコニコしているじゃない。あ、いい男でも見つけた?」
いい男、と言われるとマスターの顔が浮かんできた。確かに、マスターとは年齢も釣り合うし、ちょっといい男かもしれないな。マスターと仲良くなるのもいいかも。
「うん、そうかもね」
そう言いつつも、浮気をするなんてつもりはない。
「なんか変なの。でもいいか。いつもみたいに、苦虫を潰したような顔されるよりは、よほど健康的だわ」
私って、いつもそんな顔をしているのかしら?でも、思えば私って、いつも何かに悩まされていた気がする。でも、今はそれが解消されるかもしれないと思うと、なんかウキウキしちゃうのよね。あーあ、いつもこんなふうにいられたらなぁ。
そんなこんなで、気がつけば約束の日の朝。
「今夜はセラピーを受けてくるから。夜は準備しておくから、先に食べておいてね」
「はーい」
真里はちょっとした料理ならできるくらいには育てたつもり。けれど、本格的に晩御飯を自分で料理をするまでには至らない。結局、私がある程度は準備しておかないと、インスタントものしか食べないから。これも悩みの一つなのよね。
真里を学校に送り出し、今日は夜までは時間がある。せっかくだから、早めに街に出てみるかな。特に用事もないのに、街をブラブラするなんてこと、しばらくやってなかったからなぁ。
けれど、これがまさか後悔する出来事になるとは。
「あらぁ、今日は一人でお買い物?」
なんと、街中でバッタリと恵子さんにでくわしてしまった。恵子さん、やたらと着飾っている。
「あら雪江さん、今日は一人でおでかけ?」
「えぇ、まぁ」
「なんだか優雅でいいわねぇ」
優雅って、恵子さんのほうがあきらかに優雅な生活って感じの服装じゃない。私はせいぜい、ちょっとだけ外出着って感じの服なのに。
「私はね、これから娘の三者面談なのよ。ホント、子どもの進路って悩むわよねぇ」
そういえば、恵子さんのところは駅裏の私立の中学校に行っているんだったな。私のところは公立の高校。特に進路で悩むことはなかったけど。お嬢様学校だから、いろいろとあるんだろうな。
「それでね、娘は今の学校の高校に行きたいって言っているんだけど、私はもっとレベルの高いところを受けさせたくて…」
恵子さん、頼まれもしないのに勝手に喋りだす。はぁ、こういうのに付き合わないといけないから、さらにストレスが溜まる。今日はせっかくのびのびと過ごそうと思っていたのに。
「あらやだ、もうこんな時間。まったく、雪江さんが話しかけてくるから危うく遅刻しちゃうところだったわ。それではまた」
ちょ、ちょっと。私から話しかけただなんてとんでもない。そっちが勝手に私を見つけて声をかけて、さらに勝手に喋りだしたんでしょうが。ホントにもう。
結局、気分を落ち込ませたままマイさんのセラピーを受ける時間になってしまった。このままじゃ、ホント病気になりそう。私って、どうしてこんなに悩みが多いのかしら。
カラン・コロン・カラン
昼間とは違って、扉を開けるとそこには神秘的な空間が待ち構えていた。少し薄暗くなったカフェ・シェリー。そして、真っ白な衣装を着たマイさん。
「雪江さん、お待ちしていました。どうぞこちらへ」
エスコートしてくれたのはマスター。私は言われるがまま、お店の真ん中の丸テーブルの席に座った。
「お待ちしていました。今からここで話すことは、一切外には漏らすことはありません。安心してお話下さい」
そう言ってニコリと笑うマイさん。あ、これだ。他の主婦仲間とは違うもの、この微笑みが私に安心感を与えてくれる。そして、その眼差しは私を救ってくれるという確信に満ちたものを感じる。
「今から行うのは、オーラソーマと言ってあちらに並べてある二色のボトルを順に四本を選んでいただき、そのボトルから意味を解いていきます。では早速、あちらのボトルから直感で四本、選んでいただけますか?」
ボトルが並んでいる棚の前に立って、じっとそれを眺めた。
「これと、これ。それから…これかな。うーん、あと一本は…」
直感で気になったものを順に手にしていく。そして、マイさんのいるテーブルに戻って、選んだボトルを順番に並べる。ここからマイさんのセラピーが始まった。
マイさんいわく、選んだ二色のボトルと選んだ順番に意味があるとか。まるで占いのようだが、これはボトルを通じて心の奥にある、自分の答えを引き出す手法らしい。
だから、マイさんがボトルの意味からリーディングをして、いろいろなことを私に質問してくる。私は質問されるたびに、ボトルを眺めながら答えを考えていく。
なんだか不思議な感覚。最初の方では、心の中にあったいろいろなもやもやしたものを吐き出していた。子育てのこと、旦那とのこと、姑とのこと、そして友達関係のこと。特にこの前一緒にこの店に来た友達の存在の愚痴が多くなっていた。
けれど、気がついたらこんな話のほうが中心になっていた。
「そうね…私、もっと自由になりたいのかな。今まで、いろんなしがらみがあって、そこが私を束縛しているような感じがするの」
「なるほど、そう思っているんですね。では、雪江さんを縛っているものの正体って何だと思いますか?」
「私を縛っているものの正体…」
そう言われて考えてしまった。頭に浮かぶのは娘、旦那、姑、そしてお茶友達の顔。けれど、その存在は私にとって縛りではあるけれど、なければ良いというものではない。それぞれが私にとっては大切なものでもある。
じゃぁ、私は何に縛られているの?
「では、雪江さんが選んだボトルをもう一度眺めてもらえますか。そこからひらめいた言葉を口にしてみて下さい」
私が四つのボトル。これをあらためて眺めてみた。そもそも、私はどうしてこれらの色を選んだのだろう。直感、そう言われるとそうなのだが。これらの色に意味があるのだろうか?
このとき、淡い紫色のボトルが目に入った。と同時に、私の心に浮かんだもの。それは「縛られていない縛り」という言葉。
「縛られていない縛りって、どういう意味?」
ふと私が口にした言葉を、マイさんはすかさず拾い上げてくれた。
「なるほど、縛られていないという状況が雪江さんを縛っているのか」
「えっ、ど、どういうこと?私、意味がわからない」
「そういえば、雪江さんはこの前シェリー・ブレンドを飲んだときにスーッとするっておっしゃっていましたよね」
「えぇ、たしかにそんな味だった」
「その時のことを思い出して下さい。悩みがスッキリして、頭の中が晴れた感じがした。確かそんなことをおっしゃっていましたよね」
「そうだったかしら…でも、悩みのタネはつきないものよね」
「どうして悩みって出てくるんでしょうね?」
「どうしてって、そりゃ周りの人たちが次々と私にいろんなことを要求してくるから」
「どうして要求してくるんでしょうか?」
「うぅん、私だったらなんでもしてくれるって、そう思っているんじゃないかしら。私だってそんなにヒマじゃな…」
言いかけて気づいた。私、自分ではそんなにヒマじゃないと思っていたけれど。私の用事って、そのほとんどが人から頼まれたことで占められている。それはどうしてか。私は時間のある人間だと思われているからだ。
縛られていない縛り、つまり私が専業主婦でヒマな人間に見られているから、周りの人が私に頼み事をして縛ろうとしている。私はそんな縛りの中で毎日時間を過ごしている。
今日だってそうだ。私がヒマそうに街をブラブラしていたから、恵子さんは私に声をかけてきた。私が忙しそうにしていたら、声をかけてもすぐに断ることもできたし、恵子さんだって話をすぐに切り上げたに違いない。
「何か気づかれたようですね」
「はい、私、ヒマじゃないって思っていたけど。よく考えたら周りの人はみんな、私には時間があると思っていろんな頼み事をしてきたんです。私はそれに縛られて生きてきた気がします。これが縛られていない縛りってことなんですね」
「私もそう感じました。雪江さん、失礼ですが今やりたいこととか、目指していきたいものってお持ちですか?」
そう言われると、私にはこれといってやりたいことや目指したいことはない。ただ毎日を過ごしているだけ。そのことをマイさんに告げてみた。
「でも、今すぐにやりたいことなんて見つからないし…。それがあったほうがいいのはわかるけど」
「そうですね。今この場ですぐにってわけにはいかないでしょう。ではあらためて、一本目と四本目のボトルを眺めてみて下さい。一本目は自分の本質、四本目は未来の可能性を示したボトルです。何かイメージが湧いてきませんか?」
言われたとおり、私はジッとボトルを眺める。このとき、二つの色がとても気になった。一つはどちらかというと原色に近い、濃い赤色。もう一つはさっきも気になった淡い紫色。この二つが対比しているように感じた。何か意味があるのかな。
ふとそのとき感じたこと。それは理想と現実。淡い色のほうが理想で、濃い色のほうが現実。私はもっと軽く、ふんわりとした自分でいたい。けれど、実際には重苦しい状況が私をつつんでいる。
でも、どちらも大切。理想だけでは生きてはいけない。現実をうまくかみあわせて、理想の状態をつくっていく。これが大切なんじゃないかな。
この感覚、どこかで味わったことがある気がする。えっ、いつだっけ?
遠い記憶を呼び起こしてみる。子どもが産まれた頃、結婚した頃、就職したばかりの頃、学生の頃…
いや、もっと前だ。もっともっと、ずっと昔。中学生、いや小学生。そう、小学生の頃だ。あのときに似た感覚を味わった気がする。でも、よく思い出せない。なんだったっけかなぁ…
ここでふと思った。こういったことを呼び起こしてくれるものがある。そうだ、この力を借りよう。
「あの…今思っていること、いや、思い出そうとしていることがどうしても思い出せないんです。だから、シェリー・ブレンドの力を借りてもいいですか?」
するとマスターは何も言わずに、いつの間にか淹れてくれていた熱々のコーヒーを私に差し出してくれた。なんてタイミングいいんだろう。
運ばれてきたコーヒーカップに指をかける。すでに香ばしくて独特の香りが広がっている。私の中で期待感が高まる。今度は何を見せてくれるのだろう。
飲む前にもう一度、心の中を整理する。私がほしい答え、それは小学校の時に体験した記憶。相反する二つのものを一緒にするためのもの。それが何だったのか。
よし、と自分の中でちょっとだけ気合を入れて、シェリー・ブレンドを口に運ぶ。
最初はコーヒー独特の苦々しい感じ。しかし、すぐに甘い感じがした。甘さと苦さ、相反する二つの味がいい感じでミックスされて、なんとも言えない味わいをみせてくれる。けれど、その二つが一つになるということはない。
それぞれが独自性を持って私に主張してくる。苦味も大切、甘さも大切。
ここでふと思い出した。そうだ、これだ。
小学生の頃、私は塾に通っていた。勉強が大切ということ、それは理解していた。けれど、塾に行くのは友達と会えるから。そこでのおしゃべりが楽しくて行っていたようなものだった。
友達との楽しい時間も大事。けれど、成績を上げることも大事。相反する二つのものを同時に行うことになる。だから、それぞれに対して集中することにした。
「そうか、二つのことを一つにしちゃおうと思っているから苦しくなるんだ。それぞれは別でいいんだ」
「何か気づかれたようですね」
マイさんの言葉で現実に引き戻された。そうだった、私は今、マイさんのセラピーを受けているんだった。
「よかったら、気づかれたことを聞かせていただけますか?」
「はい、今私が気づいたことは…」
私は小学生の頃の話、そしてそこから気づいたことを口にした。口にしてみると、さらに思ったことが自覚できる。そうか、そういうことだったのか、と。
「ということは、現実に起きていることはそれなりにきちんと受け入れる。それとは別に、自分が追いかけたいものは追いかけていく、ということですね」
「はい。でも、まだ追いかけたいもの、理想的なものが見つからなくて」
「それについては、私はこう思うんです。自分が本当にやりたいこと、追いかけたいものは無理やり作るものじゃない。現実の生活の中で見つけていくものだって。私も、実はこのカラーセラピーは偶然見つけたものなんです。マスターとまだ一緒になる前、たまたま読んだ本の中で見つけて。なんとなく気になって調べ始めたら、勉強を初めて今みたいになっちゃいました」
やりたいこと、追いかけたいものは現実の生活の中で見つけていくもの。そんなこと、考えもしなかった。ただ今を生きて行く、それしか頭になかった。
「じゃぁ、私もそういう意識を持って生活をしていれば、きっと何かが見つかる。そういうことなんですか?」
「そう思えばそうなると私は思っていますよ」
マイさんの言葉に、安堵感を覚えた。そうか、きっとそういうものなんだな。
ホッとした時、何気なくシェリー・ブレンドを再び口にした。すると、さっきとは違った味がする。
奥が深い、というのが最初の感想。さらにその奥に大きな広がりを感じる。
そうか、きっと何かを見つけると、その奥深いものを探索していくんだな。そして、それがわかったときには大きな世界が広がる。私はそう受け止めた。
「そういえば、さっきマイさんとマスターってご夫婦だって言われましたけど。失礼ですが見たところ、歳の差があるようにみえるのですが」
「あはは、確かに私とマイは歳の差カップルです。私は以前、高校の教師をしていまして。マイはそのときの教え子なんですよ」
なんだかこの二人のことを、もっと知りたくなった。ここからは世間話好きのおばちゃんになってしまった。
結局、そこからは世間話。おかげでマスターとマイさんの馴れ初めも聞けたし。なんかこのお店に愛着が湧いてきた。と同時に、このシェリー・ブレンドというコーヒーにもとても興味が湧いてきた。
「マスター、こんなにおいしいコーヒーを淹れるコツってなにかあるんですか?」
「そうですね、ひと言ではなかなか言えないのですが。毎月コーヒーの淹れ方教室というのをやっています。よかったら参加しませんか?」
「行くいく、次はいつあるの?」
「次回は二週間後の日曜日の午前中です。ぜひいらしてください」
「ハイッ」
なんか楽しみが一つ増えたな。こんな気持になるの、久しぶりだ。私も美味しいコーヒーを淹れられるようになったら、今度はみんなを我が家に誘ってお茶会するのもいいかもしれないな。
ふと気がつくと、私の頭のなかで理想的なものが広がっていたことに気づいた。そうか、理想って大きなものじゃなくていいんだ。こんなに身近で、小さなことからやっていけばいいんだ。
よく、夢は大きく持て、なんていうけれど。そんなことはない。ちょっとした、小さなものからでも意味があるんだ。
カフェ・シェリーからの帰り道、あらためてそのことに私は気づいた。
この日以来、私の気持ちは大きく変わった。今までならちょっとしたことですぐに腹を立て、悩んだりしたものだが。
「ねぇお母さん、体操着どこ〜」
「まったくもう、ちゃんと洗って部屋に置いておいたよ」
「ありがとう、お母さん」
こんな感じで、軽く文句は言うものの、軽くいなせるようになった。また、主婦友の集まりでもこんな感じ。
「あそこのご主人、また浮気したんだってよぉ〜」
「ふぅん、そうなんだ。加代子さんところも気をつけてね」
今までだったら聞きたくなかった悪いうわさ話も、一度受け止めて、言った相手に軽く同じようなことを返せるようになった。言われた相手も、それほど真剣には受け止めていないみたいだし。
私、今まで周りの人に流されていたんだ。周りの言葉に耳を向けすぎて、自分というものを見失っていたんだ。現実にばかり振り回されて、理想となる自分がなかった。
けれど今は違う。私には一つ目標ができたから。それは、私が淹れたコーヒーをおいしいと思ってくれるようになること。それを目指して、いよいよ今日はカフェ・シェリーのコーヒー教室へと足を運んだ。
「さぁ、今日から頑張るぞ!」
気合を入れて、いざカフェ・シェリーへ。
カラン・コロン・カラン
「こんにちはー」
扉を開けると、いつもの香りがする。うん、これだ、私が目指すものは。このお店のように、ここに来ると落ち着くと言われるようになりたい。そのための第一歩を今日から踏み出すんだ。
「雪江さん、お待ちしていました。これで全員揃いましたね」
すでに私の他に四人の受講生がそこにいた。そのうちの一人は男性、あとは女性ばかり。年齢も私が一番年上じゃないかな。まだ二十代と思える二人、そしておそらく三十代が一人。男性とカップルか夫婦のように見える。
「では今から、コーヒーの淹れ方教室を始めます」
始まってみると、みんな気さくに声を掛け合って会話が弾む。驚いたのは、みんな年上の私に対して、敬意を払いながらもよそよそしい感じもなく話題を振ってくる。
このとき、頭のなかであのとき味わったシェリー・ブレンドのことを思い出した。苦味と甘味、二つの味が独自性を持って私に主張してきた、あの味だ。
敬意と気さくさ、これは相反するものに感じる。けれど、今目の前にいる人達は、私に対してこの二つをうまく使っている。そうか、二つ別々のことでも一緒にできるんだ。あらためて勉強させられるな。
「こうやって、ゆっくりと『の』の字を描くようにお湯を注いでください。そしておいしいコーヒーを淹れるコツはこのときにあります。このコーヒーを飲んでくれる人の笑顔を思い浮かべることです」
マスターの言葉、今の私にはとても響いてくる。私は今まで自分のことしか考えてこなかった気がする。自分の悩みって、自分をどうにか良くしようと思っていたからこそ出てくるもの。けれど、本当は人のために何かをしてあげるってことが大事なんだな。
そうか、ここにいる人って、みんなそれができているんだ。だから、一見すると相反することでも、簡単にできちゃうんだ。
自分さえ良ければいいって思いが強いと、相反するものの間に立たされて苦しくなってしまう。相手も良くて私も良い、これって可能なことなんだよなぁ。
そう思いつつ、私もマスターの言うとおりに、飲んでもらう人の笑顔を思い浮かべながらコーヒーを淹れてみる。果たしてどんな味になっているのかな。
「では、お互いに淹れあったコーヒーを飲んでみましょう。そのときの感想を素直に相手に伝えてあげてくださいね」
果たして、私の淹れたコーヒーは、みんなからどのような評価を受けるのだろうか?
「では、いただきます」
私のコーヒーを最初に飲んだのは、カップルの男性。飲んだ瞬間、ちょっと眉をしかめた。あまり美味しくなかったのだろうか?
だが、次の瞬間にしかめた眉がハの字を描いた。そしてひと言。
「なるほど、こんな味も出せるんですね」
「えっ、どんな味?」
続けてカップルの女性が私のコーヒーを飲む。
「へぇ、あなたが淹れたのとはまた違う風味ね。あなたのは苦味が強く主張する感じだけど、こちらのはホッとする味かな。主婦歴が違うと、こんなにも安心できる味になっちゃうんだ」
それを皮切りに、各々が飲んだコーヒーの味の評価が始まった。どれもそれなりに個性を持っている。同じ豆なのに、淹れ方が違うだけでこんなにも味が違うなんて驚きだ。
「そうなんです、大事なのは個性。一人ひとり想いが違って当たり前です。それが味に出ただけ。また、その時の気分によっても味が変わります。安定した味を求めたければ、いつもにこにこしていることですね」
それで納得。カフェ・シェリーのマスターやマイさんはいつも笑顔だから。
ここで私が求めているものがようやくわかった。いつも笑顔、これだったんだ。よし、悩める主婦はもう卒業だ。
<悩める主婦の日々 完>