呪い
辺境の街ハガイのギルドの一室は、夜の帳が降りた今も、重苦しい静寂に満たされていた。
トランスは、粗末なベッドの端に腰掛け、全身を覆うくすんだ鉄色の聖鎧を軋ませた。胸部の大きな穴は、冷たい空気を吸い込み、彼の内側にある空虚さを象徴しているかのようだ。彼の隣では、リーゼが静かに眠り続けている。彼女の小さな身体を包む『慈悲のマント』は、周囲の薄暗さとは無関係に、純白の輝きを放っていた。
バラックは、使い込まれた木製の椅子に深く腰掛け、琥珀色の瞳をリーゼに向けた。
「リーゼ君が着ているチュニックは、彼女が以前の生活で身につけていたものだね。いくらマントが清潔感を保っているとはいえ、身体のケアは必要だ」
サラは、トランスの食事の片付けを終えたばかりで、わずかに逡巡した。
「……そう、ね。わかった。私にできる限りのことをするわ」
サラは、自身のローブの裾を整えながら、控えめに答えた。
トランスは、リーゼの小さな手をそっと握った。その手は、寝ているにも関わらず、微かに震えているように感じられた。彼は、リーゼの耳元に届くか届かないかの声で、静かに語りかけた。
「……少し、辛抱しろ。すぐに戻る」
リーゼは言葉を発しない。しかし、彼女の閉ざされた瞳の奥で、わずかに瞼が動いたようにトランスには感じられた。それは、彼に全てを委ねる、静かな信頼の合図だった。
トランスは立ち上がり、大きく頑健な身体でサラに道を譲った。
サラは、静かにリーゼを抱き上げ、部屋の隅にある衝立の裏へと連れて行った。彼女がリーゼの薄汚れたチュニックを脱がせようとした瞬間、バラックが口を開いた。
「サラ。マントは脱がせない方がいい。あれは、ただの布ではない。今の彼女から肌身から離すのは危険だ」
衝立の裏から、サラの困惑した声が聞こえた。
「ですが、ギルドマスター。この子の服はひどく汚れています。マントそのものは綺麗ですが……」
「それが『慈悲のマント』の特異性だ。リーゼ君の魂の清らかさに呼応し、身に纏うもの全てを清めようとする自浄作用を持っている。だが、その作用は、マント以外の汚れを完璧に排除するほど強力ではない。それでも、以前の彼女を覆っていた呪いのような悪臭や、泥の付着は、マントの力で極限まで薄れているはずだ」
バラックの言葉に、トランスは再びリーゼが眠っていた場所を見た。マントは、確かに清らかだった。それは、トランスの鎧が纏う錆と汚れとは、対極にある輝きだった。
サラがリーゼの身体を拭き清める間、バラックはトランスに向き直った。彼の表情は、一転して真剣なものとなった。
「さて、トランス殿。君の記憶については、私にも手がかりがない。だが、リーゼ君については、少しばかり推測できることがある」
トランスは黙って頷いた。彼の全身から発せられる緊張感が、部屋の空気を張り詰めさせる。
「孤児は珍しくないが、彼女の存在は異質だった。街の人々は、彼女に対して言葉にできない嫌悪感を抱いていた。誰も彼女に近寄ろうとせず、店で売れ残った残飯すら、彼女に渡ることを躊躇った。誰もが、彼女の顔を見るだけで不快になり、理不尽な怒りを感じたそうだ」
トランスの兜の奥で、彼の視線が鋭くなった。
「……呪いか」
「その通りだ。私の鑑定眼が捉えたのは、「悪意を引き寄せる呪いだ」バラックは重々しく言った。「この呪いは、直接的な死をもたらすものではない。だが、周囲の人間の感情を操作し、対象に不当な嫌悪感や憎悪を抱かせる。結果として、孤立、搾取、そして死へと導く性質を持つ」
それは、静かに、確実に、対象の生命を削り取る、悪辣な呪いだ。
トランスは、胸の穴に触れた。彼がリーゼと出会った時、彼女はまさにその呪いの中で、苦しんでいた。
「俺やサラは、なぜ強く影響を受けなかった?」トランスが尋ねた。
「君は、その鎧の内部に、おそらく規格外の魔力を内包している。そして、サラもまた、制御は不安定だが、極めて高い魔力素質を持つ。強力な魔力は、微弱な呪いの波動を打ち消す障壁となるからだ」バラックは説明した。「だが、呪いの影響を最も強く受けていたのは、他ならぬリーゼ君自身だ」
バラックは立ち上がり、衝立の方へ視線を向けた。
「呪いは、リーゼ君の身体から常に微弱な波動を発している。その波動を、今、彼女が纏うマントが、常時跳ね返しているのだ」
「反転の効果か」
「ああ、おそらくは。だが、その反射は、彼女の献身的な意思と連動しており、純粋な自己防衛のために、無意識に魔力を消費し続けている。だからこそ、彼女は常に睡魔に襲われ、深い眠りにつくことで、その消耗を抑えるしかない。彼女は、君の生命と、彼女自身の命を、同時に守り続けているのだ」
トランスは、全身の力を込めて拳を握りしめた。彼の鎧が、低い金属音を立てて軋む。リーゼの献身的な犠牲の上に、彼が立っているという事実が、トランスの心を激しく揺さぶった。彼は記憶を失い、自身が何者かも分からない。だが、この少女の純粋な善意と、そのために彼女が負っている重荷は、彼の騎士としての本能を呼び覚ました。
「……問題ない」トランスは断言した。彼の声は低く、硬質で、絶対的な決意を帯びていた。「彼女の呪いを断ち切ることも、俺の責務となった」
トランスの言葉には、記憶喪失による不安や、魔物に対する恐怖心は一切感じられなかった。彼が今、この瞬間に見出した目的こそが、彼を突き動かす原動力となった。
バラックは、トランスの決意を目の当たりにし、満足そうに頷いた。彼の琥珀色の瞳には、深い安堵の色が浮かんでいた。
「そうか。君の覚悟、しかと受け取った」バラックは静かに言った。「ならば、君に頼みたいことがある。君の旅の目的と、私の願いが、ここで一つに重なる」
バラックは、一呼吸置いた。彼の声は、今度は父親としての、個人的な切望を含んでいた。
「私の娘、サラを、王都へ連れて行ってほしい」
トランスは、その言葉の意味を即座に理解した。
「王都のギルドか」
「そうだ。サラは元々、王都のギルドに所属していた、高い素質を持つ魔法使いだった。妻の病の看病のためにこの辺境に戻っていたが、妻は先月、静かに息を引き取った」
バラックは、左手の薬指に嵌めた簡素な銀の指輪を撫でた。
「私はこの街を離れるわけにはいかない。だが、サラが抱える魔力制御の欠点――は、この街では克服できない。このような辺境より、王都の方が情報が見つかる可能性が高い」
さらに、バラックは続けた。
「そして、君の目的も同じだ。リーゼ君の呪いは、辺境の鑑定士では解析できない高位のものだ。王都の王立図書館や、大ギルド、教会などならば、呪いの手がかり、あるいは解除方法を見つけられる可能性がある。君の鎧の真の来歴についても、王都でなら、より正確な鑑定が得られるかもしれない」
バラックは、トランスの目をまっすぐに見つめた。
「君は、この街の恩人だ。どうか、この恩義を返す機会を私に与えてほしい。君の力で、サラを、そしてリーゼ君を、より安全な場所へ導いてほしいのだ」
衝立の向こうから、サラがリーゼを抱き上げて戻ってきた。リーゼの身体は清められ、彼女の顔以外を覆うように、純白の『慈悲のマント』が優しく被せられている。リーゼはまだ眠っていたが、その表情は以前にも増して穏やかだった。
トランスは、リーゼの安らかな寝顔を視界の隅に捉えながら、バラックに頷いた。
「そうか」トランスは簡潔に答えた。「王都へ向かう。サラを連れて行く。それが、俺の責務だ」
彼の言葉は、重い鎧のように揺るぎなかった。失われた記憶の代わりに、彼には守るべきものと、断ち切るべき呪いが与えられたのだ。




