チャンバーの変貌
遅くなってすいません。
まったりと進めていきます。
「ごい。やくただずども。わだじがゆうようにづかってやる」
チャンバーの口から漏れた言葉は、すでに人の言語としての体裁を失いかけていた。強欲と渇望が生み出した歪な音が空間を震わせる。
周囲に展開していた魔物――彼らの全身が、まるで砂のように細かな粒子へと崩壊し始めた。それは魔素の結晶であり、彼らの生命力そのものだった。粒子は螺旋を描きながら、全てチャンバーの立つ一点へと、狂ったように吸い込まれていく。
リトスは顔面蒼白になりながら、それでも冷静さを保とうと努めた。彼の心臓は激しく波打っている。彼はこの極限状況下で、臆病な父親の顔から、冷徹な戦術家の顔へと切り替わっていた。
彼は、光の収束が極まる前に、素早くトランスに駆け寄った。
「トランスさん! リーゼちゃんも無事で何よりだよ」
リトスは、腰のポーチから取り出した小さな二つの丸薬を、トランスの分厚い鉄の手のひらに押し付けた。トランスは意図がわからず、深淵の闇を湛えた兜の奥で、わずかに怪訝な反応を浮かべた。
「これは……?」トランスは短く問うた。
「丁度良かった。その丸薬を奥歯に挟むようにくわえるんだ。そうすればチャフの中でも安全に呼吸が出来る」
トランスは一拍置いてから、彼の言葉を信じ、丸薬を口に含んだ。古びた鎧は食事や呼吸を必要としないが、リトスが差し出すものが、リーゼの安全に必要なものだと直感した。
リーゼは、トランスの動きに合わせて、手を伸ばし、丸薬を受け取った。彼女の翠色の瞳は、トランスへの絶対的な信頼を映している。
リトスは振り返り、その場に静かに立っていた老ロバ、ロッシーを見つめた。
「詳しい説明をする暇はなさそうだ。ロッシー、私に力を貸してくれるかい?」
ロッシーは、リトスの問いかけに対して、静かに一つだけ、力強く「ヒンッ」と嘶いた。リトスは迷うことなく、もう一つの丸薬をロッシーの口に含ませた。
光の奔流が、空間そのものを白く染め上げる。
トランスは、リーゼを背中に抱え直し、剣を構え直した。彼の体内に宿る魔力が、周囲の異常な環境に呼応して、わずかにざわめく。
光が収束し、激しい熱と魔力の脈動が周囲から引くと、そこにはもはや人間の面影を残さない異形の存在が立っていた。
馬のような巨大な四足。その体躯は、トランスの大柄な体格を遥かに凌駕し、岩石のような筋肉で覆われている。背中から首にかけては、濃い茶色の体毛が逆立ち、丸太のように太い二本の腕が地面にまで届く。顔面は、クーゲルやリトスの面影が歪に混ざり合い、渇望と飢餓感を露わにした眼窩が、周囲を睥睨していた。
それは、魔物、そしてチャンバー自身の強欲が融合した、文字通りの怪物だった。
トランスは、その異形の姿を前にしても、感情の揺れを押し殺した。彼は魔物に対する強烈なトラウマを持つが、「守るべきもの」が背中にいる今、恐怖に支配されるわけにはいかない。
「なんだ……あれは……?」
トランスの低い声が響く。声には驚愕が含まれているが、それ以上の感情は読み取れない。
チャンバーは、その巨体を揺らし、口を開いた。そこから漏れ出る声は、もはや人の発声器官ではありえない、深く響く低音だった。
「クハハハハ! 見ろ、この完全な姿を! これこそ、この私が手に入れたかった、真の力だ!」
チャンバーは、巨大な腕を振り回し、周囲の壁を粉砕した。
トランスは剣を抜き放ち、チャンバーを睨み据える。
「人の姿を捨てたか、チャンバー!」
「姿などどうでもいい。これは、貴様らクソどもをねじ伏せ、私の渇望を満たすための形だ!」
その瞬間、一つの影が動いた。
トニーだ。彼は、この空間の外、廊下の曲がり角の陰に潜んでいた。彼の【狩人の射手】としての能力は、静寂と隠密性において最大限に発揮される。彼は、この異形の存在の登場を待ち、唯一の隙を狙っていた。
**ヒュンッ!**
風切り音とともに、一本の矢が空間を貫き、変貌したチャンバーの目を狙った。それは、トニーの最高速の、そして最も正確な一撃だった。
だが、チャンバーは動じない。彼は、矢が触れる直前、分厚い筋肉に覆われた腕をわずかに動かした。
**ガキン!**
矢は、まるで鋼鉄の板に当たったかのような音を立て、弾かれた。チャンバーの腕には、わずかな白傷すら残っていない。
チャンバーは、弾かれた矢を器用な指先でつまみ上げた。
「ちょこまかとうるさい虫はそこか」
彼は、矢をつまんだまま、トニーが潜む廊下の入り口に向けて、その矢を投げ返した。矢は、トニーの弓から放たれた時よりも遥かに速い速度で、空間を切り裂いていく。
トニーは、その超高速の矢を間一髪で回避した。彼の顔に冷や汗が伝う。
「ちくしょう、 硬すぎだろ!」
トニーが隠れた直後、チャンバーは巨大な四足で地面を蹴り、廊下の入り口へと突進した。巨体に見合わない驚異的な速度。
**ドォォン!!**
チャンバーの丸太のような剛腕が、廊下の入り口の構造物を殴りつけた。石材と木材が悲鳴を上げ、粉塵を巻き上げながら崩落する。射線は完全に断ち切られた。
チャンバーは、その場に留まり、トニーの気配が完全に消えたことを確認してから、勝ち誇ったように笑った。
「いくら正確であろうとこれでは打てまい。残念だったな、リトス。貴様の錬金薬は、衝撃を与えねば効果がない。そして、魔力無効化のチャフが充満した戦場では、遠距離からの矢による援護が不可欠だった。その援護は、もうない」
チャンバーは、リトスの戦術の弱点を完全に看破していた。
「……分析完了だ」
リトスは、チャンバーの嘲笑を無視し、冷徹な声で呟いた。彼の戦闘時の口調は、普段の臆病な彼からは想像もつかないほど固く、鋭い。
「ロッシー、行くよ」
リトスは、ロッシーの背中に跨った。ロッシーは、まるで彼の言葉を理解したかのように、深く息を吸い込んだ。
**ブォォン!**
ロッシーの身体を、魔力が活性化し、筋肉が隆起した。
ロッシーの瞳には、かつての相棒クーゲルへの恩義と、フラスたち家族を守るという、純粋な決意の炎が宿っていた。
ロッシーは、弾丸のような速度で地面を蹴り、チャンバーに回り込むようにして駆け寄った。
「くはは、どうした? 散歩でもしているのか? 」
チャンバーは嘲笑した。しかし、彼の巨体は、見た目とは裏腹に驚異的な速度を誇っていた。ロッシーが回り込もうとする動きに、まるで影のように並走する。
**ドスッ! ドスッ!**
チャンバーの剛腕が、次々と振り下ろされる。その一撃一撃は、地面を抉り、石材を粉砕するほどの破壊力を持つ。
リトスは、紙一重でそれをかわしながら、ポーチから錬金薬を抜き出し、チャンバーの足元や顔面に向けて投擲した。
「遅いよ、リトス! その程度の攻撃で、この私に届くとでも思ったか!」
チャンバーは、投擲された錬金薬の軌道を正確に読み切り、わずかな挙動で回避した。彼の体には、一切の薬液が付着しない。
リトスは無言で何かを見つめている。彼の錬金薬は、着弾時の衝撃で炸裂する構造になっているため、避けられてしまえば無力だ。
ロッシーは、リトスを庇うように急旋回し、壁際へと追い込まれていく。彼らの退路は、チャンバーの巨体によって完全に塞がれた。
「終わりだ!」
チャンバーは咆哮し、巨大な腕を突き刺して、ロッシーの進行方向を完全に遮断した。そして、もう片方の足で、ロッシーとリトス目掛けて、全てを終わらせるかのような蹴りを繰り出した。
リトスは迎え撃つように、フラスコに入った錬金薬を、空中に放り投げた。狙いは外れる。彼は、このままではロッシーもろとも粉砕されるだろう。
その瞬間、一つの鉄塊が、爆発的な速度で彼らの間に割り込んだ。
トランスだ。
彼が動いたのは、リトスやロッシーの命の危機を察知した、ただ純粋な「守る」という衝動からだった。恐怖心は、彼を竦ませるが、他者を守るという絶対的な責務が、その恐怖を乗り越えさせる。
トランスは、チャンバーの蹴りを自身の古びた鎧で受け止めることはせず、体全体を回転させた。
彼は、背中にいるリーゼのマントを、左腕で強く掴み、空中に投げられた錬金薬目掛けて、マントの端を鞭のようにしならせた。
マントは、リトスの錬金薬を絡めとる。
トランスは、その錬金薬を、チャンバーの蹴り込まれた足に向けて、渾身の力で投げ返した。
そして、リーゼは一拍置くようにして、言葉を発した。
「あーうーあぁー! <反転>」
**ゴオォォォォン!!**
眩い閃光と爆発が、不自然なまでにチャンバー側へと偏って広がる。魔法を問わず反射するリーゼの能力が、錬金薬の爆発エネルギーを増幅させ、チャンバーの蹴り込んだ足の付け根へと叩き返したのだ。
「なっ! にぃぃ!?」
チャンバーの叫びとともに、爆音が轟き、異形の巨体が、まるで紙くずのように吹き飛ばされた。彼の体が壁に激突し、建物の構造そのものが大きく揺らいだ。
トランスは、リーゼを背中に庇ったまま、静かに剣を構え直した。彼の古びた鎧は、爆風の熱と衝撃でわずかに煤けている。
リトスは、ロッシーの背の上で呆然としていた。彼が投げた、本来であればあそこまでの威力とは程遠い錬金薬が、これほどの爆発を引き起こすとは、想像だにしていなかった。
ロッシーは、荒い息を吐きながら、トランスの背中を見つめた。その眼差しは、静かな感謝と、深い共鳴を示していた。
トランスは、吹き飛ばされたチャンバーが、瓦礫の山の中で呻いているのを確認すると、静かに言った。
「……まだ終わっていない」
彼の言葉は、次の戦いの始まりを告げていた。爆発で吹き飛ばされたチャンバーは、その巨体をゆっくりと起こし始める。彼の身体から、黒い煙が立ち上っていた。しかし、その瞳には、以前よりもさらに深い、飢餓と怒りの炎が燃え上がっていた。
「クソッタレが……! この私が……!」
チャンバーは立ち上がると、その巨大な四足で地面を踏み砕き、トランスたち目掛けて、再び突進の姿勢をとった。
トランスは、背中のリーゼの小さな震えを感じながら、剣を強く握りしめた。
「来い」
彼の声は低く、感情を排していたが、その奥底には、守るべきものを絶対に守り抜くという、鋼の意志が宿っていた。




