ロートの真意
ベックは意識を失ったフラスを背負い、慎重に足を進める。フラスの体は小柄で華奢だが、背中に感じる重みは、彼が背負うべき「責任」の重さそのものだった。
「チクショウ……痛ぇな、おい。てめぇ、いきなり人の顔面を殴りやがって。俺は敵意がねぇって言っただろうが」
ロートはベックの前を歩きながら、愚痴をこぼした。彼の顔には、ベックの拳の跡がくっきりと残っている。ロートは時折、振り返ってベックの腰に収められた短剣の柄を確認する。警戒されているのは明白だった。
「うるせぇ。お前のその薄っぺらい演技に付き合ってる暇はねぇんだよ」ベックは低い声で返した。彼の視線は、ロートの背中ではなく、常に周囲の環境と、背負うフラスの状態に向けられていた。「いちいち回りくどいことしてるからだろうが! そもそもなんでこんなことしたんだよ? 監視役なら、大人しく任務をこなしてりゃよかっただろうが」
ロートは立ち止まり、深い溜息をついた。
「それができりゃ苦労はねぇんだよ」ロートは荒々しく頭を掻きむしった。彼の目の奥には、疲労と、どうにもならない状況への諦念が混ざっている。「あの人はな、欲しがるものが手に入らねぇとなれば、この村を焼き払い、皆殺しにする。何の躊躇もねぇ。俺はそれを知っている」
彼は顔を歪ませた。
「あの人は、俺の命の恩人だ。だが、家族を、恩人の家族を、その手で殺させるわけにはいかねぇ」
ロートは、フラスをチャンバーに差し出すという提案が、最悪の事態――村の虐殺――を防ぐための、苦肉の策であったことを説明した。
「俺がフラスちゃんを連れて行けば、チャンバーさんは満足して、他の奴には手を出さねぇ。フラスちゃんを連れて行くのは、俺の役目だったんだよ」
ベックは無言でロートの言葉を受け止めた。彼は、ロートの行動原理が、恩義への忠誠と、根底にある人情味、そして何よりも「死への恐怖」から来る、複雑に絡み合った結果だと理解した。
「魔物の群れが突然消えたのも、チャンバーの能力なんですか?」サラが冷静に尋ねた。彼女はローブの裾を巻き上げ、乱れた呼吸を整えながら、周囲の魔力残滓を分析していた。彼女の澄んだ水色の瞳は、節制の栄冠を得てから、以前よりもずっと落ち着き払って見えた。
ロートは鼻を鳴らした。「あぁ。魔物を使役する能力なんて、あの人にとっては、おまけ程度のもんだ。本領は、他にある。魔物なんて、切り捨てて構わねぇんだよ」
ロートは悔しそうに続けた。
「そもそも、お前たちが来て薬を完成させたりしなければ、ずっと静観してるだけですんだんだ……。俺は、ずっとリトスさんの家族を守るために、監視役を続けていればよかった」
ベックは舌打ちをした。外部の介入を嘆くロートの言葉は、まるで自分たちが悪役であるかのように聞こえる。
サラは、ロートの言葉に含まれた、監視役としての矛盾を見逃さなかった。
「監視役がロートさんだったのなら、知らないふりをしていれば良かったんじゃないですか? フラスちゃんがソーマを完成させたとしても、それを隠蔽することは……」
ロートは、サラの言葉を荒い口調で遮った。
「――だめだ。それじゃ駄目だったんだよ。それにな。粗悪品とはいえポーションを取引していたのはチャンバーさんの息がかかった商会だぞ? 良品が降ろされるようになれば即バレだ」
その言葉に、サラの表情が固まる。
「リトスさんが寄付として回していた良質なポーションが、裏で……」
「そうだ。チャンバーさんは、リトスさんを泳がせていたんだ。リトスさんは、自分のポーションが貧しい人々に届いていると信じていた。あの人は純粋すぎるんだよ。自分の夢を、家族の愛を、疑うことなんてできやしねぇ」ロートは吐き捨てるように言った。
「完成さえしなければ、夢は夢のままでよかったんだ。夢の中に入れたんだよ……」
リトスが、病弱な妻シーレのために尽力し、その過程で作り出したポーションが、彼の意図に反して、チャンバーの商会の利益のために裏取引されていた。そして、リトス自身は、その事実を知らず、慈善活動をしていると信じ込んでいた。
ベックは、ロートの哀愁に満ちた横顔をじっと見つめた。奴隷時代にチャンバーに救われ、その後にリトスにも救われたという彼の複雑な境遇。彼にとって、リトス一家の平穏な「夢」を守ることは、恩人への忠誠と、自己の存在意義の両方に関わる、切実な問題だったのだろう。
ベックは、腰に手をやり、短剣の柄から手を離した。そして、静かに短剣を鞘に戻した。
「はぁ……。面倒くせぇ話だ。お前も、ご苦労なこった」ベックはため息をついた。「で、結局チャンバーの目的ってなんなんだ? ソーマがなんだか知らねぇが、そんなに大事なもんなのか」
ロートは、ベックの警戒が解けたのを感じ取り、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「ソーマと賢者の石だ」
「賢者の石?」サラが聞き返す。彼女の知識によれば、それは伝説上の物質であり、錬金術師の究極の目標とされていたはずだ。
「あぁ。ソーマは『可能性を開く薬』だとか言われてる。で、賢者の石は、錬金術師の悲願であり到達点にあるもの……らしい。詳しくは俺も知らねぇ」ロートは曖昧な表現で答えた。
「ソーマについては、クーゲルは作っていたらしい。実際フラスちゃんもつくってみせたしな」
ベックは懐から、その小さな瓶をそっと取り出した。フラスが倒れる直前に完成させたという、透明で微かに虹色に光る液体が入った小瓶だ。完成品をゴブリンスカウトが運ぶところだったのだろう。
「おっ、もしかしてこれだったりするか?」ベックはロートにその小瓶を見せた。
ロートは目を見開き、反射的に大声を上げた。
「それだ! 絶対に無くすなよ? すごい薬だってことだけはわかるんだからな! チャンバーさんが喉から手が出るほど欲しがってた代物だ!」
ベックは平然と小瓶を懐に戻した。
「そんなポンポン作れるもんなのか?」
「そんなわけないだろ!」ロートは興奮気味に否定した。「実際それを作ってから倒れたわけだしな。フラスちゃんは、あの薬を作るために、自分の魔力どころか、生命力まで絞り出したんだ。危うく死にかけるところだったんだぞ」
フラスがソーマを完成させた代償として、魔力と生命力を使い果たし、倒れてしまったことが明らかになった。
ロートがそこまで説明した瞬間、強烈な地響きが彼らの足元を揺らした。
――ゴオオオオオオッ!!
それは単なる振動ではない。空気が、大地が、そして彼らの皮膚の下の細胞までもが、異様な圧力で震えている。
それは、トランスが放つ咆哮とは全く異なる、野蛮で、悍ましく、それでいて途方もなく巨大な、獣の雄たけびだった。
サラは思わず両手で耳を覆った。彼女の瞳が大きく見開かれ、恐怖と驚愕に揺れる。
「ななな、なんですかこの魔力の震えは……! 強大すぎます……!」
サラは魔力制御のプロフェッショナルだ。彼女が戦慄するほどの魔力とは、想像を絶する規模を意味していた。
ロートの顔から血の気が引いた。彼は震える声で、目の前の現実を告げる。
「チャンバーさんが、力を使ったんだ……」
ベックは、苦々しい表情で口元を歪ませた。
「ふぅ、とっくに胃の中にでもありそうだな。贅沢なことで……」
チャンバーが、フラスが倒れてまでも作り上げた「可能性を開く薬」ソーマを利用した可能性。その結果が、今、彼らを襲っているこの悍ましくも強大な魔力の震えなのだろう。
「先を急ぐぞ。お前も、大人しくついてこい。変な真似をしたら、容赦なくこの短剣で腹をかっさばく」
ベックは背中のフラスを抱き直し、荒々しくロートの背中を叩いた。




