使役の弊害
ロバの鳴き声って言葉にするとどんな感じでしょうかね?
ロッシーの鳴き声が決まらずここまできてしまいました(汗
トランスは、今し方足元に崩れ落ちたオークファイターの残骸を見下ろしていた。その巨体は、一瞬の閃光と衝撃によって、まるで中身を抜き取られたかのように軽々と床に叩きつけられたのだ。
「……弱すぎる」
トランスは、くすんだ鉄色の古びた騎士鎧の胸に空いた穴から漏れる、冷たい空気を吸い込んだ。記憶は戻らない。だが、この鎧を纏う以前、彼が戦ってきた魔物たちは、これほどまでに脆く、動きが単調ではなかったはずだ。
「この屋敷の魔物は、まるで生きた人形のようだ。練度が低い。あるいは、何か別の要因があるのか」
トランスが思考に沈んでいると、背後から鈍い衝撃があった。年老いたロバのロッシーが、その灰色の頭をトランスの背中に力強く押し付けてきたのだ。それは、早く動け、という無言の催促だった。
トランスは我に返り、小さく息を吐いた。
「ふむ。どちらにしても、ロッシーのおかげだ」
彼はロッシーの無言の忠告に感謝し、その背に跨った。ロッシーは、まるで戦場を駆け慣れた歴戦の騎馬のように、トランスの巨体を支えた。
「わからないことを考える前に動こう。フラス殿とリーゼを救出することが最優先だ」
二人は屋敷の奥へと進み始めた。廊下は迷路のようだが、ロッシーは迷うことなく突き進む。その鼻は、フラスの恐怖と、チャンバーの病的な魔力が混ざった、独特の匂いを正確に追っていた。
道中、彼らが遭遇するコボルトやゴブリンの群れは、やはりトランスの記憶にある魔物とはかけ離れていた。彼らの動きは機械的で、統率も取れていない。トランスの真紅の剣、獣王の牙は、その切っ先で次々と敵を打ち砕いた。
「しかし、どうにもおかしい。やはり弱すぎる」トランスの疑念は深まるばかりだった。
***
トランスとロッシーが足を踏み入れたのは、広壮な大広間だった。天井は高く、豪華絢爛な装飾が施されているが、その中に漂うのは、腐敗と薬品の異様な匂い。
大広間の中心で、過剰なまでに派手な装飾品を身につけたチャンバーが、両手を広げて彼らを迎え入れた。彼の顔には、疲労と病的な印象を伴う深い隈があり、その目は飢餓感に満ちていた。
「ほう。騎士様と、そのお供のロバか。よくぞここまで来た」チャンバーは傲慢に笑った。
トランスはロッシーに跨ったまま、剣を構える。
「チャンバー。フラス殿とリーゼをどこへやった」
トランスの口調は冷徹で、感情を排していた。
チャンバーはトランスの疑問を嘲笑うかのように、鼻で笑った。
「そりゃそうだ。貴様が倒した魔物が弱いのは当然だろう」
彼は、まるで子供に説明するかのように指を鳴らした。
「私から離れていると、単純な命令しか行えない」
チャンバーは軽蔑の眼差しをトランスに向けた。
「お前が潰してきたのは、私がここで養殖した、苦労を知らぬ哀れな魔物たちだ。所詮、苦労をせずに育ったところで、上位種でも弱いってことだ。こればかりは私も誤算だったよ。クソ」
トランスとロッシーは、その心が通じ合ったかのように、一歩踏み出した。
「戯言は聞き飽きた。答えろ」
「無粋だな。これだから馬鹿は嫌いなんだ」
チャンバーは苛立ちを露わにし、顔を歪めた。
「やれ」
その指示と共に、大広間の上階にあるバルコニーから、数体のゴブリンメイジとコボルトメイジが魔法を放った。火、風、土の魔力が混ざり合い、トランスとロッシー目掛けて集中砲火が降り注ぐ。
ロッシーは、その老躯からは想像もできない機敏さで、ジグザグに動き、魔法の軌道を避けた。クーゲルと長きにわたり旅をしていた彼の身体には、戦場を生き抜くための本能が刻み込まれていた。
しかし、魔法の嵐を避けきれない。
ドン!
大柄なコボルトウォーリアーが、その頑丈な籠手をロッシーの横腹に叩きつけた。ロッシーはバランスを崩し、痛みに嘶く。トランスは即座に飛び降りると、ロッシーを庇うようにして、近くの太い石柱の陰に隠れた。
魔法の爆音が柱の周りに響き渡り、石片が飛び散る。
チャンバーは柱の陰に隠れたトランスを無視し、隣に控えていた魔物に視線を送った。森で戦ったものより小柄だが、その獰猛さは変わらないオーガが、チャンバーの隣に立っていた。
オーガは、その巨大な、まるで丸太のような片手に何かを握りしめていた。
トランスが柱の陰から覗き見た瞬間、オーガがその手に力を込めた。
「あ、あぁ……あっぁぁぁっぁ!」
それは、リーゼの喉から絞り出された、痛みに満ちた、途切れ途切れの絶叫だった。彼女の身体を握り圧するオーガの手に、トランスは血の気が引くのを感じた。
守るべきものが、今、目の前で苦しんでいる。
トランスの心臓を、魔物への恐怖が支配していたはずの彼の心を、純粋な激怒が塗りつぶした。
恐怖心に打ち勝つために無意識に感情を抑制する傾向があったトランスが、その制御を完全に手放した。
「きっさまぁぁぁ!」
トランスは柱の陰から、まるで鋼鉄の弾丸のように飛び出した。その咆哮は、彼の口調からは想像もできないほどの激情を帯びていた。
チャンバーは面白そうに笑った。
「くっはっはっ! 上質な餌があると狩りはしやすくていい!」
トランスは一直線にチャンバーとオーガへ向かうが、上階のメイジたちが、その動きを許さない。風と炎の魔法が、トランスの全身を覆う古びた鎧を叩きつける。
ガギン! ゴウン!
魔法の集中砲火を浴び、トランスの鎧はさらに深く傷つき、動きが徐々に遅くなる。彼は満身創痍だった。鎧の内部にまで熱が伝わり、風の刃が上下左右と揺さぶる。
それでも、トランスは止まらない。彼の視線はただ一点、オーガの手に掴まれたリーゼに注がれていた。
風と炎の魔法でよろよろになりながら、血を吐きながら、トランスは必死に手を伸ばす。
「リ、リーゼェェェ!」
チャンバーは勝利を確信したかのように、リーゼを嘲笑いながら煽った。
「ほらほら、騎士様助けてー。私はここよー」
トランスの突撃は、あまりにも単調だった。彼の動きは、チャンバーにとって、容易に予測できるものだった。
しかし、チャンバーは油断しない。目の前のトランスが囮だと判断した。足の速いあの魔獣のほうこそが、本命の奇襲役だと。
「コボルトウォーリアー。あの魔獣から私を守れ」
コボルトウォーリアーは、チャンバーの指示を忠実に実行すべく、その巨体でチャンバーを覆い隠すように移動した。彼らにとって、使役主の命令は絶対であり、想定外の行動は存在しない。
だが、トランスはロッシーを使役してはいなかった。彼らは、命を預け合う「相棒」だった。そしてチャンバーは、その関係性を完全に失念していた。
ロッシーは、トランスが突撃した直後、魔法の雨が止んだ一瞬の隙を突いた。
彼は、老いによる衰えを一切感じさせない、驚異的な突進力を発揮した。その硬い頭を、トランスの背中、胸の穴のちょうど下あたりに、全速力で激突させたのだ。
ドォン!
それは、トランスの身体を支えるのではなく、トランスの背を突き上げるかのような、捨身の一撃だった。
ロッシーは、クーゲルへの恩義と、眼前で苦しむフラスの友を守るという、純粋な使命感に突き動かされていた。
チャンバーは、その光景に間抜けな声を上げた。
「――は……?」
ロッシーに激突され、トランスの巨体は、まるで砲弾のように加速し、宙を舞った。魔法の集中砲火で動きが鈍っていたトランスの身体に、ロッシーの突進が、本来の起動力を再装填したのだ。
トランスは宙で体勢を立て直す。彼の全身は痛みで麻痺していたが、リーゼの悲鳴が、彼の意識を強制的に覚醒させた。
彼は、その勢いをすべて、腰に帯びた真紅の剣へと集中させた。
「衝撃!」
獣王の牙が、オーガの血を浴びたかのように、さらに真紅の輝きを放つ。空中で放たれた剣閃は、森の主の突進にも似た強烈な衝撃を伴い、見せつけるかのように掲げていたオーガの右手に向けられた。
ザンッ!
丸太のような太さを持つオーガの手首が、断ち切られた。激しい血飛沫が舞い上がり、オーガは苦痛に満ちた咆哮を上げる。
トランスは、リーゼを抱きかかえ、そのまま流れるように着地した。
彼は全身から血を流し、体は限界を超えていた。だが、その兜の奥深く、暗い影に隠された素顔の下で、彼の瞳は炎を宿していたに違いない。
彼は、胸の穴から漏れる荒い息を抑えつけ、血を吐きながら、チャンバーを睨みつけた。
「返して……もらうぞ! 俺の……相棒をな!」
トランスのその言葉は、チャンバーに対しての宣戦布告であり、リーゼに対する誓い、そして、彼を突き上げた老ロバ、ロッシーへの、騎士としての最大の敬意の表明だった。




