追憶と追跡
夜明け前の空は、深い藍色と血の色が混じり合った、不吉な予兆を孕んでいた。
トランスは、自身の意識の深淵で、無限に続く戦場の悪夢に囚われていた。それは、彼が何者であるかを忘れ去るほど、魂を深く抉り取った過去の断片であった。
闇の中で、耳鳴りのように響くのは、甲高い悲鳴。
「きゃぁぁぁ!」
それは、無力な民が、理不尽な暴力に蹂躙される瞬間の音。血と鉄の匂いが鼻腔を焼く。
「助けてくれー! ぎゃぁぁ」
「くそっ!」
彼は、全身を覆う鎧の重さを感じながら、次々と襲いかかる魔物を斬り裂いていく。その動きは、記憶を失う前のものか、あるいはそれ以上の、悲痛なまでの迅速さだった。
避難させたはずの幼い子供が、瓦礫の陰で冷たくなっているのが目に入る。
「あ……、そんな……」
その一瞬の隙を突いて、同僚と思われる騎士の胸を、巨大な魔物の爪が貫いた。鮮血が夜の闇に散る。
彼の心臓を掴むような、強烈な喪失感と恐怖。魔物は、まるでトランスが最も大切にしていた何かを奪い去ったかのような、歪んだ歓喜の形相で彼に襲い掛かってくる。
「ギアアアアアア!」
彼は、屍の海を越えて城へと急いだ。その道筋には、無数の同胞の亡骸が転がっている。
魔物や魔族の目には、憎悪と、復讐にも似た激しい感情が宿っていた。
「おかしいだろう……、お前たちが襲って来たんだ……」
トランスの混乱した内なる声は、戦場の喧騒にかき消される。
「大丈夫だ……。あいつが傍にいるんだから……。きっと大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるかのように呟きながら歩を進めて行く。
城の最も高い塔の広間。彼は、そこで最も恐ろしい光景に遭遇する。
白く輝く鎧を纏った親友が、漆黒の戦士の前で、膝をついている。
その顔は見えないが、その白銀の鎧が、絶望的な光を放っている。
彼の目の前には、守るべきであった対象が、無惨にも剣に刺し貫かれていた。
「――!」
トランスは、記憶の残滓に刻まれた黒騎士の姿に、沸き立つような怒りを覚えた。彼は、その怒りに突き動かされるように、全身の鎧が軋む音を立てて突撃した。
「きっさまぁぁぁぁ!」
親友は、血を吐きながら、か細い声で叫ぶ。
「ーーよせ! トランス!」
剣で貫かれた__はまるで最後の力を使うかのように掠れた声で懇願する。
「だ……め……、にげ……」
黒騎士は冷酷だった。その漆黒の巨躯は、感情を持たない機械のように、貫いた__の身体を、まるでゴミのようにトランス目掛けて投げつけた。
トランスは、反射的にその__を受け止めようと、一瞬、攻撃への意識を逸らしてしまう。
この隙を見逃すほど、黒騎士は甘くなかった。
漆黒の大剣の突きが、__を抱きかかえようとしたトランスの胸部中央に、正確に放たれる。
「――うわああああああああ!」
胸を貫通する、冷たい、絶対的な力の衝撃。それは、肉体を破壊するだけでなく、彼の魂の核を砕き、存在そのものを空洞にするような、虚無の痛みだった。
***
トランスは荒い息を吐きながら、現実に引き戻された。
瞼の裏に焼き付いた黒騎士の姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……夢? そしてここは……?」
全身を覆う古びた鎧の重さは、もはや彼の意志とは関係なく、ただの鉛のように感じられた。しかし、その鉛のような重さの中に、温かい、そして力強い脈動を感じた。
彼は自分が、老いたロバのロッシーの背に乗せられていることに気づき、驚きに目を見開いた。
ロッシーは、以前の貧相な姿からは想像もできないほど、筋肉が隆起し、四肢の蹄の上には、トランスの鎧と同じく、白銀の鏡面のような輝きを放つグリーブ状の脛当てが具現化していた。その変貌した体躯は、力強い魔獣のようでありながら、どこか古の騎士の威厳を漂わせている。
「ロッシー?」
「トランスさん! 良かった……」
サラが、その水色の瞳を潤ませて彼を見つめていた。彼女はすぐに、自分の役割を思い出したかのように、冷静な表情に戻る。
「ったく、心配かけんなよな。トランスさんよぉ」
トニーは、少し離れた位置から、弓を構えながら周囲を警戒している。彼の軽快な口調には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。
トランスは起き上がろうとしたが、リトスの声が優しく彼の行動を押さえた。
「トランスさん、まだ動かないでください。ご気分は?」
リトスの腰の低い口調が、現状を現実のものとしてトランスに突きつける。
「……私は、動けないのか」トランスは、極度に寡黙な口調で尋ねた。
リトスは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「その……、あの時、トランスさんは身動きが取れなくなってしまって……。私たちは、あなたを運ぶことすらできませんでした」
トランスは、胸に空いた穴に、無意識に左手を添えた。この無力感は、悪夢よりも現実的な地獄だった。
リトスは、ロッシーを見ながら説明を続けた。
「絶望していた私たちを救ってくれたのは、ロッシーです。ロッシーが、まるでトランスさんの鎧と呼応するように、突然変貌を遂げ、あなたを担ぎ上げたんですよ。そして、自らアーキナへと向かう道を選び、馬車を引いて出発してくれました」
ロッシーは、トランスの問いかけに対し、力強い嘶きを上げた。その眼差しは、老いによる諦念を完全に捨て去り、一途に前だけを見据える、戦士のそれだった。
「そうか。ロッシー……」トランスは、感謝の念を込めて、短く答えた。
サラが、魔力制御補助用のペンダントを軽く握りしめながら、情報を報告する。
「私が神眼で痕跡を追っています。この変貌したロッシーの速度なら、追いつける可能性があります。痕跡は、人質を乗せた馬車と、ロートと思われる者の足跡、そして魔物の微細な残滓……間違いなくアーキナに向かっているようです」
商業都市アーキナ。チャンバーの商会の所在地。
リトスは、姿勢を正した。彼の瞳には、普段の臆病さとは裏腹の、強い決意の光が宿っていた。
「これは、私の父親が起こした不始末です。フラスとリーゼさんを取り戻すため、そして、これ以上父の暴走を許さないためにも、微力ながら戦わせて頂きます」
ベックは、顎の無精ヒゲを撫でながら、現実的な視点で状況をまとめた。
「ま、村の方はロブさんに任せておいて大丈夫だろう。あの商人は、ああ見えて情報網と交渉術は一流だ。俺達はさっさと二人を取り戻して帰ろうや。手間をかけさせやがって、クソッタレが」
トニーは、ロングボウを構え直し、琥珀色の瞳を輝かせた。
「へへへ、前回は留守番だったけど、今回は大活躍しちゃうかんな。俺っちの弓の腕を見りゃ、サラちゃんも惚れ直すって! 見ててくれよ!」
サラは、トニーの軽薄なジョークに対し、いつものように小言を交えずに、ただ力強く頷いた。
「はい、がんばりましょう。トランスさん、私も全力でサポートします」
仲間たちの、揺るぎない信念と、献身的な姿勢。それは、トランスの胸に空いた虚無の穴を埋める、唯一の光だった。彼らは、トランスの恐怖や弱さを受け入れた上で、共に前進しようとしている。
トランスは、その光景に、感情を抑制しようとする自身の癖を忘れ、わずかに口元に苦笑を浮かべた。
鎧の重さはまだあるが、もはや彼を縛る鎖ではない。それは、守るべきものを失った己の弱さの具現化であり、同時に、再び立ち上がるための試練であった。
トランスは、冷たい夜明けの空気の中で、仲間たちに向けて、決意を込めた短い言葉を放った。
「……すまない。ありがとう」
彼の言葉は、感情を排した冷静沈着なものだったが、その奥底には、強い誓いが宿っていた。
「今度こそは救って見せる」
その誓いは、彼の内なる声として、夜明けの空へと静かに響き渡った。
変貌したロッシーは、力強く蹄を鳴らし、白銀の装具を輝かせながら、商業都市アーキナへと続く荒れた道を、猛然と駆け抜けていった。




