連れ去られた二人
大変お待たせいたしました。今後もしばらく更新頻度は落ちます。PVではなくユニーク700でした。感謝感謝です。
リトスの屋敷は、突如として襲いかかった暴力の残滓に満ちている。
リトスは、目の前に立つ男――自分の父であると告げたチャンバーの、上等な絹の衣装と、そこから滲み出る傲慢な空気に、全身を震わせた。
「そんな服を着て、貴族の真似事か?」
彼の声は怒りによって震えていたが、それは恐怖を打ち消すための、悲痛な叫びのようにも聞こえた。
チャンバーは、その挑発に顔色一つ変えず、優雅な仕草で袖を払った。
「金を稼ぐ手段があるにも関わらず、質素に身を窶すお前のほうがよくわからんよ」
その時、後方で控えていたロートが、雨によって鎮火された炎の残骸に気づき、慌てて彼の耳元に囁いた。
「チャンバーさん、火が……。消えちまったっす」
チャンバーは舌打ちを一つ。彼の目的は、この騒動に乗じてリトス一家を確保することであり、戦闘の継続ではない。
「ちっ。目的は果たしたことだし、ここはお暇させて頂こうか」
チャンバーが踵を返そうとするのを見て、リトスは踏み出そうとした。彼の心には、理不尽に家族を奪おうとする父への怒りが満ちていた。
「待て!」
「おっと、動かない方がいい」
チャンバーが軽く手を振ると、ゴブリンスカウトが、小さな身体のフラスとリーゼを、それぞれ片腕で抱え上げた。フラスは怯えきって嗚咽を漏らし、リーゼは抵抗の声を上げられないまま、必死にトランスの行方を瞳で探していた。
「大事な娘が傷物になってしまうぞ? お父さんが大切に使ってやるから」
チャンバーはリトスの絶望的な表情を愉しむかのように、口角を上げた。
「こっちの少女の保護者達に伝えておいてくれ。後は追わぬことだ……と」
彼はそう言い残すと、ゴブリンスカウトとロートを伴い、屋敷の裏手へと姿を消した。
ロートは一瞬立ち止まり、リトスに向かって、苦しげな表情で言い残した。
「俺にも守りたい物があるんです。お嬢さん方は、商会の方で丁重に扱わせてもらいます。では」
ロートの言葉は、まるでリトスの胸を抉るナイフのようだった。リトスは、彼を信頼していた。その信頼が、裏切りの刃となって返ってきたのだ。だが、その残った信頼の残滓が、彼の言葉の真意を探っていた。
「商会……? ロート君、君は……」
彼は膝から崩れ落ち、ただその場に項垂れることしかできなかった。シーレは、夫の隣で、この世の終わりのような光景に、言葉を失って立ち尽くしていた。
***
それからわずか数分後、外部でゴブリンたちを蹴散らしたトランスたちが帰還した。
彼らが目にしたのは、床に倒れ伏すロブ、そして絶望の底にいるリトスとシーレの姿だった。
ベックが最初に状況を理解した。彼は周囲のゴブリンの血痕と、人質が連れ去られた痕跡を瞬時に把握する。
「くそが! 舐めやがって!」
普段は冷静沈着な彼が、珍しく感情を露わにし、地面を蹴りつけた。彼の怒りは、プロ意識を超えた、仲間を傷つけられたことへの純粋な憤りだった。
サラはすぐにリトスとシーレに駆け寄る。彼女の瞳は不安に揺れていた。
「た、大変です! 早く助けないと!」
彼女は理知的で冷静な性格だが、仲間の危機には感情が先走る。
トニーは倒れているロブを検分し、リトスに詰め寄った。
「なあ、リトスさんよ。そいつがお前の親父さんつっても、俺っちがシメていいよな? フラスとリーゼを連れ去ったんだ、問答無用だろ!」
トニーの口調は軽薄だが、その眼差しは真剣だった。彼は仲間や恩人への義理堅さを何よりも重んじる。
その時、サラが異変に気づいた。彼女は、トランスが屋敷の入口付近で膝をつき、全身の鎧を震わせているのを見た。
「トランスさん?」
彼女が声をかけると、トランスは深淵の底から絞り出すような、重い呻きを上げた。
「すまない……。身体が……思うように動かん……」
彼の全身を覆う古びた鉄色の鎧は、まるで鉛のように重く、彼をその場に縫い付けているようだった。トランスの胸に空いた穴が、暗い影を深めている。彼は魔物に対する強烈な恐怖心という制約を抱えているが、それは彼が守るべき対象を失った今、純粋な恐怖となって彼を襲い、鎧の重さを増幅させているのだ。
***
リトスは、シーレに支えられながら立ち上がった。彼は気弱な性格だが、娘と妻の危機に直面し、その瞳には強い決意が宿っていた。
「チャンバーは……商業都市アーキナへ向かったはずです。ロート君が漏らした商会とは、私が薬を納品していたところである可能性が高いでしょう」
リトスは、ロートに裏切られた痛みを押し殺し、冷静に事実を伝えた。彼の知性派の一面が、危機に瀕して発揮されたのだ。
トニーは即座に反応した。
「アーキナか! 場所がわかってんなら殴りこみかけようぜ! すぐだ、馬に乗って追いかける!」
トランスの異変は気になるものの、彼は持ち前の楽観性で即座の行動を主張した。
その言葉に、シーレが顔を曇らせた。彼女は病弱ではあるが、周囲の状況を冷静に見ていた。
「まあ……。馬は、難しいかもしれませんわ」
シーレは咳き込みながら続けた。
「少し前から、このビカの村にいた健康な馬たちはことごとくいなくなる事件がありまして……。魔物によるものか、盗賊によるものか、誰も分からず……」
ベックは即座に外の馬車を繋いでいた場所へ確認に向かった。彼は数秒後、絶望的な顔で戻ってきた。
「うちらの馬までいなくなってやがる……」
どうやら、チャンバーは周到に彼らの移動手段を奪っていたらしい。
ロブが覚醒した。彼は背中に強い痛みを覚えながらも、上半身を起こした。
「ううむ……。ええ、あくまで打撲程度ですよ。しかし、馬がないとは困りました」
商売人であるロブにとって、移動手段の喪失は致命的だった。
サラは、膝をついたまま動けないトランスの腕を掴み、引っ張ろうとした。しかし、鎧の重さは彼女の予想を遥かに超えていた。
「くっ……! とてもじゃないけど抱えたり引きずったりできる重さじゃないですよ……! トランスさん、一体どうしたんですか、この鎧は!」
彼女の魔力制御補助用のペンダントが、不安で握りしめられる。
トランスは、重い兜の奥で、わずかに息を吐いた。
「……俺を置いて先にいけ。アーキナへは身体を引きずってでも向かう。間に合わせる」
彼の言葉は、常に必要最低限で断定的だ。
「無茶ですよー! そんな重い鎧をまとって、どうやって数百キロも離れた都市へ……」
サラがトランスを制止しようと、さらに力を込めたその時だった。
屋敷の隅で、静かに事態を見守っていた老いたロバ、ロッシーが、ゆっくりとトランスに近づいてきた。
ロッシーは、トランスの古びた鎧に、その灰色の鼻先を擦りつけた。
「ロッシー? さすがにお前では、俺は……なにっ?」
トランスが驚きの声を上げる。彼の声は、これまでの重い沈黙から解放されたかのように、わずかに感情を含んでいた。
ロッシーがトランスの足元に触れた瞬間、トランスのグリーブが、鈍い鉄色から白銀の鏡面のような輝きを放ち始めた。その光はロッシーの四肢の蹄の上へと流れ込み、瞬く間に具現化した。
それは、トランスの鎧と似通った、純白に輝くグリーブ状の装具だった。
ロッシーの枯木のようだった身体が、魔力活性により一瞬で隆起し、体躯が肥大化する。老いの皺は消えなかったが、その筋肉は岩のように固く、魔獣を思わせる活力を帯びていた。
ロッシーは、その変貌した姿で、静かに頭を垂れた。




