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亡国の騎士  作者: 黒夢


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不可解な襲撃 2

夜の闇を切り裂くように、炎が村の家屋を舐め上げていた。トランスは、全身を覆う古びた鉄色の鎧にも関わらず、驚くほどの軽快さで燃え盛る民家へと突進した。


その姿を目にした村人たちは、恐怖と混乱の中にあって一瞬、その異様な騎士に目を奪われた。彼らは自分たちの目すら信じられないといった様子で、ただその場に立ち尽くしている。


「下がれ!」


トランスの低い声が響く。それは感情を排した、しかし有無を言わせぬ断定的な命令だった。


家屋の影から、火付け役のゴブリンが嘲笑うかのような甲高い声を上げた。「ギギャ!」


トランスは思考するよりも速く動いた。彼は剣を抜くことすらせず、その巨体をぶつける形でゴブリンに体当たりした。古びた鎧の重量と慣性が生み出す衝撃は凄まじく、か細いゴブリンの身体は空中で不自然に折れ曲がった。


地に倒れ込んだゴブリンの頭部に、トランスは容赦なく剣を振り下ろす。真紅の剣が、乾いた音を立てて獲物を沈黙させた。


しかし、それは始まりに過ぎなかった。次々と火の手が上がり、煙が視界を奪う。炎の向こうから、巨大な影が姿を現した。オークだ。棍棒を携え、低い唸り声を上げながらトランスに迫る。


トランスは剣を構え直したが、その一撃は深さに欠けた。致命傷には至らず、オークは体勢を崩すことなく、分厚い棍棒を振り上げた。


ドォン!


重く鈍い衝撃が、トランスを襲った。全身を古びた鎧で覆っていても、その衝撃は内部にまで響き、彼は数メートル弾き飛ばされた。背中から地面に叩きつけられた瞬間、視界が激しく揺らぐ。


「……くそ」


古びた鎧は、彼の体を守ってはくれたが、衝撃は完全に吸収しきれない。胸部の、ぽっかりと空いた穴が、まるで彼の弱点そのものを象徴しているかのように、冷たい夜の空気を吸い込んでいた。


トランスの脳裏に、鮮烈な光景がフラッシュバックする。炎。血。瓦礫。そして、彼が守りきれなかった「何か」の断片。


全身の筋肉が硬直し、呼吸が浅くなる。冷たい汗が、兜の内部で彼の顔を滑り落ちた。


(怖い、怖い、怖い、怖い。また全てを失ってしまう――)


魔物に対する強烈なトラウマと、記憶を失ったことによる根源的な不安が、制御を失った感情となって押し寄せる。彼は自らを奮い立たせるために、常に意識的に感情を抑制してきた。だが、この圧倒的な暴力と、目の前の炎の光景は、その抑制の壁を一瞬で打ち砕いた。


彼は無意識のうちに、背中に温もりを探した。いつもそこにいたはずの、小さな、しかし確固たる存在。リーゼの温もり。


(彼女はここにいない)


その事実に気づいた途端、トランスのパニックは頂点に達した。彼は今、一人だ。守るべき存在は遠ざけ、自らの責務を果たすために単独で魔物に立ち向かっている。だが、この恐怖に竦む自分が、本当に責務を果たせるのか。


「あっ――」


トランスは呻き声を上げ、身動きが取れなくなった。目の前のオークが、勝利を確信したかのように再び棍棒を振り上げる。


その時、夜の闇を切り裂いて、三本の鋭い矢が唸りを上げた。


ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ。


一本はオークの眼窩に、残りの二本は喉元と心臓に、寸分の狂いもなく突き刺さる。オークは棍棒を握りしめたまま、巨体を揺らし、轟音と共に地面に倒れた。


「何やってんだよ、お前は……」


トニーが荒い息を吐きながら、建物の屋根伝いに到着した。彼はロングボウを構えたまま、トランスに鋭い視線を向ける。


トランスはゆっくりと立ち上がり、深く息を吐き出した。全身の震えはまだ収まらないが、トニーの介入が、凍りついた彼の精神をわずかに解き放った。


「すまん……助かった」


極度に短い言葉で感謝を述べると、トランスは視線を周囲に向けた。


トニーは矢筒から新たな矢を取り出しながら、状況を説明する。


「リーゼちゃんはむくれてたぜ? 旦那が自分を戦闘から外したことに、ちょっとご機嫌斜めって感じだったが、フラスちゃんをしっかり守ってる。ロートもいるし問題ねぇだろ」


トニーの報告は、トランスの心を幾分か落ち着かせた。彼は、トニーの軽薄な口調の裏にある、仲間への気遣いを理解していた。


「それより、様子がおかしいんだよ。ゴブリンどもは、火を放つとすぐに逃げやがる」


トランスはトニーの言葉に同意した。彼の違和感は、トニーの冷静な観察によって確信へと変わる。トランスは無言で、兜に仕込まれた『節制の栄冠クラウンオブテンペランス』の力を集中させた。


神眼アナライズがゴブリンたちを捉えた。


「――ゴブリン。状態。使役」


トランスが感情を排した声で、断定的に告げる。


「テイマーだ」


「そうか! 魔物使い!」トニーはすぐに理解した。「道理で、連携が取れてやがるわけだ。一体誰が、こんな辺境の村で……」


トランスはまだ精神の回復が追いつかず、動きに精細を欠いていた。彼の剣筋は鈍く、反応も遅い。トニーはその隙を逃さなかった。


「旦那、右だ! 俺が左を抑える!」


トニーは矢を連射し、トランスに迫る小型の魔物を牽制する。トランスは、そのカバーを信じ、トニーの指示通りに動いた。


トランスの剣が、トニーの牽制によって動きが止まった魔物を正確に捉える。二人の連携は、言葉の少なさを補うように洗練されていた。


村人たちは、この二人の果敢な戦いを見て、再び希望を見出し始める。


「頑張ってくれー!」


村人たちの声援は、トランスの心に微かな温かさをもたらした。彼はまだ恐怖に苛まれていたが、その恐怖を押し殺し、責務を全うする意志を固めることができた。


魔物の波を一時的に押し戻したトランスとトニーの元へ、サラとベックが合流した。サラはローブの上に外套を羽織り、ベックは二振りの短剣を構え、警戒態勢を取っている。


「二人とも無事だったか?」トランスは短く尋ねた。


ベックが周囲を見回しながら答える。「ああ、こっちは問題ねえ。トランスの旦那も、無茶しやがって」


トランスはすぐに本題に入った。「魔物は使役されている。放火が目的だ」


サラは冷静に状況を分析する。「魔物使いですか。厄介ですね。この規模の火災になると、戦闘どころではありません。とにかく、この火を消さないと」


ベックは同意し、腰のポーチから水筒を取り出した。「ったく厄介だな。だが、水をかける程度では追いつかない。サラ、できるか?」


サラは、トランスの兜の額に鎮座する菱形の赤い宝石を見上げた。それは、トランスが戦闘に突入する直前に、彼女のサークレットから移された、魔力蓄積のための媒体だ。


「トランスさん。一度魔力を戻させてくださいね」


サラは、トランスに許可を求めるように優しく言った。彼女は、トランスの戦闘を支えるために魔力を共有していたが、今度は村の危機を救うために、その蓄積された魔力を使用する必要があった。


トランスは無言で頷いた。


サラが節制の栄冠クラウンオブテンペランスを意識すると、赤い宝石は淡い光を放ち、トランスの兜から離れ、サラの頭部に装着されたサークレットへと吸い込まれた。


「あぁ、何とかなりそうか?」トランスは安堵の息を漏らす。魔力の共有が途切れた瞬間、彼の身体は再び重い鉛のように感じられた。


サラはサークレットに触れ、トランスから蓄積された魔力が自分の魔力回路に流れ込むのを感じた。


「これだけの魔力があれば大丈夫です!」彼女は力強く答えた。


そして、サラはトランスの顔を覗き込むように近づき、彼の兜のバイザーを上げさせた。


「それより、ちょっと顔を見せてください……」


サークレットは、トランスの極度の恐怖と消耗した精神状態を如実にサラに伝えていた。彼女は、トランスの顔が蒼白で、大量の冷たい汗をかいているのを見て、息を呑んだ。トランスの顔の輪郭は、影の中に隠されていたが、その表情から彼の無理が伝わってくる。


「もう、トランスさんは無理をしすぎです」サラは、心配と憤りがない交ぜになった声で囁いた。「後でリーゼちゃんに怒ってもらいます」


ベックとトニーも、トランスの極限状態の顔を見て、押し黙った。特にトニーは、先ほどトランスが竦んでいた理由を理解し、軽薄な笑みを引っ込めた。


この重い空気を変える必要性を感じ、トニーが軽やかに言った。


「じゃあ、サラちゃん、パパっと頼むぜ。あんたの魔法で、この村を救ってやってくれ!」


トニーの言葉を受け、サラは深く頷いた。彼女は、トランスとリーゼを支えるために、自分の忌避していた能力を最大限に活用すると決意していた。


サラは目を閉じ、全身の魔力を集中させた。彼女の体質により吸収された周囲の魔力、そしてトランスから共有された蓄積魔力が、サークレットを通じて彼女の魔力回路を駆け巡る。水色の瞳が高ぶる魔力によって、一瞬、燃えるような赤に変わった。


「水よ。恵の雨にて焔を鎮めよ……」


サラの静かな詠唱が、炎の轟音に負けじと響き渡る。


「<レインメーカー>!」


詠唱が完了した瞬間、サラの身体を中心として、巨大な魔法陣が夜空に展開された。その魔法陣は、満月のような淡い光を放ち、空に呼びかける。


乾いた夜空に、突如として厚い雲が湧き上がり、村全体を覆った。


ザァァァァァァッ!


まるで滝のように、激しい雨が降り始めた。それは、通常降る雨とは異なり、無数の魔力を帯びた水滴が、炎を叩き潰すように降り注ぐ。


炎は一瞬にして勢いを失い、激しい水蒸気を上げながら鎮火していく。燃え盛っていた家屋の屋根が音を立てて冷え、黒い煙だけが夜空に残された。


雨は、火が完全に消え去ると同時に、ピタリと止んだ。


周囲は静寂に包まれた。


村人たちは、呆然と立ち尽くしていたが、やがて歓声を上げ始めた。


「消えた! 火が消えたぞ!」


サラは、魔法の反動で全身から力が抜け、膝をつきかけた。トランスが素早く彼女の肩を支える。


「……大丈夫か?」トランスの声には、心からの安堵が滲んでいた。


「はい、トランスさん。これで、一段落です」サラは力なく笑った。彼女の瞳はまだ微かに赤みを帯びていたが、属性による人格の変化は起きていない。節制の栄冠クラウンオブテンペランスの補助機能が、彼女の暴走を防いだのだ。


ベックは安堵の息を吐きながら、鎮火した村の様子を観察した。「全く、派手な真似をしやがって。だが、助かった」


トニーは弓を背負い、サラに向かって親指を立てた。「さすが、俺たちのサラちゃんだぜ! これで今夜は、ゆっくり寝られるってもんだ!」


トランスは、静かに燃え残った建物の残骸を見つめた。テイマーの存在。それは、単なる魔物の襲撃ではない、明確な悪意を持った何者かの介入を示唆していた。


「……まだ終わっていない」トランスは静かに言った。「テイマーを、見つけ出す必要がある」

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