不可解な襲撃 1
リトス一家のダイニングキッチンは、先ほどの緊迫した空気から一転し、心地よい温かさに包まれていた。
ベックが、シーレの私物であるピンクのフリルのついたエプロンを着用したまま、手際よく料理を皿に盛り付けていく。彼の無精ヒゲと、その可愛らしいエプロンの組み合わせは、相変わらず場違いで、トニーは席に着くなり、吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。
ベックは、そんなトニーを一瞥もせず、最後の仕上げに集中していた。
「全く、いつまでも突っ立ってねえで、さっさと食え。冷めるぞ」
ベックがテーブルに並べたのは、辺境の寒さを忘れさせるような豪華なご馳走だった。焼き立てのパンは皮がパリッと、中はふっくらと膨らみ、湯気を立てている。中央には、香草と肉がたっぷり入った濃厚なシチュー。そして、鮮やかな緑色のサラダには、手作りのドレッシングが瑞々しくかかっていた。
トランスは、席に着く前に、その料理を静かに見つめた。彼は食事を必要としないが、仲間との食事の時間は、彼にとって人間性を繋ぎ止める大切な儀式となっていた。
「うまそうだな……」
トランスは、極度に寡黙な口調で、短く感想を漏らした。
トニーは、シチューの香りを深く吸い込み、悔しそうな顔をした。
「へへ、悔しいけどうまそうなんだよ……この無精ヒゲのベックさんが、なんでこんなに家庭的なんだよ、チクショウ」
トニーの軽口に、ベックは短い鼻息で応じる。
「台所に立つ際の矜持だ。料理は戦場と同じで、一切の妥協は許されねえ。冷める前にさっさと食え」
ベックは、胸元のフリルを指で払いながら、どこか誇らしげに言った。
サラは、端正な顔立ちを崩さず、皿に盛られたサラダを眺めた。
「すごいですね。ニンジンが、全部星型になっています」
彼女の指摘に、ベックは「当たり前だ」とでも言いたげに、顎を引いた。彼の料理へのこだわりは、銀級冒険者としての戦闘へのこだわりと、根底で繋がっているようだった。
フラスは、トランスの隣で目を輝かせた。彼女は、先ほどの父親とのやり取りで疲弊し、トランスの鎧にもたれかかったまま眠ってしまったが、今は目を覚ましていた。
「ぱんが、ふかふかでやわらかいよ! あたし、こんなにやわらかいぱん、たべたことない!」
フラスは、パンを一口ちぎり、口に運ぶ。その純粋な喜びに満ちた表情は、周囲の緊張を和らげた。
トランスの背中でおぶさっているリーゼもまた、フラスの喜びを感じ取ったように、「うー」と小さな声を漏らした。彼女は、マントから顔を出し、シチューの湯気をじっと見つめている。
リトスは、席に着きながら、驚きを隠せない様子だった。
「これは……本当に村の差し入れですか? こんなに豪華な食材は、この辺りではなかなか手に入らないはずですが」
彼は、ベックの料理の腕前にも感嘆していたが、それ以上に、食卓に並べられた食材の質に驚いていた。
ロブは、テーブルの向かい側で優雅にナプキンを広げながら、柔和な笑みを浮かべた。
「ええ、私が少しばかり手配しました。フラスちゃんが上級薬の調合に成功したお祝いも兼ねて、最高の食材を揃えさせていただきましたよ」
彼は、フラスの才能を心から評価しているようだった。
シーレは、体調が優れないにもかかわらず、食卓に顔を出していた。彼女はやつれた顔色を隠すように、常に穏やかな笑みを浮かべている。
「あらあら、ありがとうございます、ロブさん。でも、こんなに豪華で……」
シーレは、ロブの言葉に、心から感謝の意を表すように応じた。
リトスは、過去のクーゲルとの衝突と、妻の病のために錬金術から離れてしまった己の過ちを思い出し、再び胸を締め付けられた。だが、フラスの才能を認め、ロブの言葉で再出発を決意した彼の瞳には、以前のような後悔の色は薄れていた。
彼は、娘のフラスと、トランスの背中にいるリーゼに視線を向け、静かに誓った。
(私はもう、目を背けない。フラスの才能を、家族の絆を、守り抜くのだ)
***
夕食は和やかに進み、一行はそれぞれ客室で休息を取ることになった。ベックが食後の片付けまで完璧に済ませた後、リトスとシーレは、久しぶりに穏やかな夜を過ごすことができた。
フラスは、リーゼと一緒に眠ることを望んだ。リーゼもまた、フラスの温かい体温を感じながら、穏やかに眠りに落ちていた。
トランスは、二人を部屋に残し、一人外に出た。空は澄み切っており、無数の星々が凍えるように瞬いている。
彼は、古びた鎧を纏ったまま、星空を仰いだ。
「思えば賑やかになったものだ……」
彼の記憶が戻らぬまま始まった旅路は、常に孤独と恐怖に満ちていた。しかし、今や彼の周囲には、守るべき者たちが集まり、賑やかな笑い声が満ちている。それは、記憶を失った彼にとって、失われた人間性を繋ぎ止める、温かい鎖のようだった。
(リーゼには、かなりの無理をさせているのではないか)
トランスは、フラスとリーゼが仲良く眠る姿を見て、今更ながらにそう考えさせられた。リーゼは常に彼の背中におぶさり、呪いを反射し続けるために魔力を消費している。
その時、村の周囲の暗い森の奥に、不自然な火の明かりが点滅しているのをトランスは視界の端で捉えた。その数は一つ、また一つと増えていく。
トランスは、警戒心を強めた。
「……何だ」
その直後、客室から飛び出してきたサラが、慌てた様子でトランスに駆け寄った。彼女は、ローブの上に外套を羽織り、足元にはブーツを履いていた。
「トランス! 村が囲まれています!」
サラは、普段の冷静沈着な様子を失い、切迫した声を出した。
「火の明かりがいくつも。あれは、ただの野火ではありません。まるで、村を包囲しようとしているように見えます!」
トランスは、即座に兜の奥深く、暗い影の中に隠された顔を、明かりの方向へと向けた。
彼は、頭部に装着された**節制の栄冠**の能力、**全天周囲視認**を展開する。三百六十度の視界が確保され、暗闇の中に潜む存在の輪郭が、俯瞰した視界で浮かび上がる。
「……魔物だ。数は多い」
トランスは断定した。人間の集団ではない。彼らが村に寄せているのは、純粋な破壊と殺戮の意志だった。
その時、激しい足音と共に、一人の男がリトス宅の裏口から駆けつけてきた。
「た、大変だ! 魔物が村を攻めて来た! 村に火を放ってる!」
駆けつけてきたのは、ロートだった。彼の顔は恐怖に引きつり、額には脂汗が滲んでいる。彼の威圧的な外見とは裏腹に、極度の臆病さが如実に表れていた。
「俺はリトスさん達を守るから、村を頼めないか!」
ロートは、その場で震えながらも、必死にトランスに訴えた。
トランスは、彼の怯えを理解しながらも、その強い使命感を認めた。
「状況は把握した」
トランスは、感情を排した冷静沈着な口調で、即座に指示を出す。彼の声は、静かでありながら、周囲の喧騒を鎮める力を持っていた。
「サラ、みんなに状況を説明してきてくれ。各自散開し村民を救助する」
トランスは、魔物の群れが村全体を囲んでいる状況を鑑み、一点集中ではなく、分散して対応する必要があると判断した。彼の目的は殲滅ではなく、村民の保護である。
サラは、トランスの指示に「わかりました」と短く応じた。彼女はすぐに家の中へ戻り、ベック、トニー、ロブに状況を伝えるだろう。
トランスは、一瞬立ち止まった。彼は、背中にリーゼがいないことを確認し、胸の奥で小さな不安を感じた。リーゼは彼の戦う理由であると同時に、彼の弱点でもある恐怖心に打ち勝つための精神的支柱だ。彼女と離れることは、トランスにとって大きなリスクを伴う。
しかし、フラスがリーゼと一緒にいたいと望んだこと、そして、リーゼが常に魔力を消費し続けている現状を思い返した。
(成り行きとはいえ、戦闘に巻き込み続けることは、正しいのか?)
トランスは、極度に寡黙で感情を表に出さないため、滅多に他者への配慮を口にしないが、リーゼへの感謝と保護の念は強い。
彼は、サラを呼び止めた。
「サラ、リーゼにはフラスの護衛を頼んでくれ」
サラは、一瞬驚き、戸惑いを滲ませた。
「いいんですか? リーゼちゃんがいないと、トランスさんの……」
サラの言葉は、トランスの胸に空いた穴と、魔物に対する彼の強烈な恐怖心を指している。リーゼが彼の背中にいることで、彼の恐怖は押さえ込まれてきた。
トランスは、静かに首を振った。
「あぁ、今の俺にはこれがある」
トランスは、兜の額に埋め込まれた菱形の赤い宝石を、堅い指でコンコンと叩いた。それは、**節制の栄冠**に蓄積された、サラから共有された魔力だった。この宝石がある限り、魔力が枯渇する心配はないだろう。
「リーゼには、フラスと一緒にいてもらう。」
トランスの言葉は、決意に満ちていた。
彼は、隣で震えながらも立ち尽くしているロートに視線を向けた。
「ロート」
「な、なんだ、トランス……」
ロートは、威圧的な見た目とは裏腹に、気弱な声で応じた。
トランスは、その大柄な騎士鎧をわずかに傾け、頭を下げた。
「すまないが、リーゼのことも一緒に守ってくれないか?」
ロートは、恐怖で震える体を無理やり押しとどめ、力を込めて答えた。
「あ、あぁ、任せておいてくれ。俺が、この命に代えても守り抜く! お前たちは村の方を頼むぞ!」
トランスは、ロートの言葉に頷き、深くは語らなかった。
「……感謝する」
彼は、踵を返した。古びた鉄色の鎧が、夜の闇に吸い込まれるように、村の中心部へと走り出す。
「これが俺の責務だ」
トランスは、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。魔物との戦いに伴う恐怖は、彼の全身を支配しようとするが、節制の栄冠の宝石が、その恐怖を押し留めるように鈍い光を放っていた。
彼の視界は、赤一色に染まっていた。魔物たちの数が、刻一刻と増している。
(間に合わせる。必ず)
トランスは、腰に携えた**獣王の牙**の柄を握りしめ、夜の闇へと突入した。




