父親
薄暗い小屋の中に、薬品の甘い香りと、熱に煽られたような緊迫した空気が充満していた。
フラスは、トランスの補助のもと、祖父クーゲルの秘術のレシピを次々と解読し、驚くべき速度で上級以上の薬品を調合していた。彼女の指先は、まるで魔力回路を直接触っているかのように繊細で、瓶の中の液体はレシピが求める以上の純度と輝きを放っていた。
「できた……!」
フラスが歓喜の声を上げる。しかし、その喜びは、隣で呆然と立ち尽くしていた父親の激しい動揺によって、一瞬にして打ち砕かれた。
リトスは、床一面に並べられた、彼には調合すら不可能だったはずの錬金薬を見て、声を荒げた。長年の停滞と、妻の病に対する無力感が、彼の理性のタガを外した。彼の顔は紅潮し、瞳には信じられないという感情と、激しい後悔が滲んでいた。
「ど、どうして今まで言わなかったんだ!」
リトスの、普段からは想像もつかないほどの大きな声と、突き刺すような視線が、フラスを直撃した。
「ひぅっ……!?」
極度の臆病さと人見知りを持つフラスは、その瞬間、すべての思考が停止した。彼女の小さな手から、完成したばかりの薬品の瓶が滑り落ち、床に衝突して砕け散る。鮮やかな緑色の液体が飛び散り、甘い香りが一瞬で苦い硝子の匂いに変わった。
フラスは反射的に、自分を包み込んでくれる最も大きな安寧の象徴――トランスの分厚い鎧にしがみついた。極度の恐怖で体が震え、嗚咽が漏れる。
トランスは、胸に空いた穴をわずかに気にしつつも、動じることなく彼女を受け止めた。彼の巨大な鉄の腕が、怯えるフラスの華奢な背中をそっと包み込む。
「……落ち着け。問題ない」
彼の声は静かで、感情を排しているが、その響きには揺るぎない保護の意志が込められていた。
トランスの背中でおぶさっていたリーゼが、フラスの頭に手を伸ばした。彼女は言葉を発することはできないが、「うー」という、わずかに安らぎを伝えるような音を漏らしながら、フラスの癖のある茶色の三つ編みを優しく撫でた。
リトスは、娘の悲鳴と、トランスの静かな庇護を見て、一瞬言葉を失った。だが、一度溢れ出した感情は止めどなく、彼の口からさらに激しい後悔の念が噴き出した。
「作れることさえわかっていれば、こんなに苦労することも、困っている人々を助けることも――!」
彼の言葉は、フラスの才能を認めながらも、それを隠していたことへの自己批判と、妻の病を治すための時間のロスに対する焦燥に満ちていた。
「――リトスさん!」
鋭く、それでいて静寂を切り裂くような声が、部屋の隅から響いた。ロブだった。彼は常に柔和な笑みを浮かべているが、その一喝には、一介の商人とは思えないほどの威圧感が込められていた。
リトスは、ハッと我に返ったように、その威圧的な視線に射抜かれ、すぐに頭を下げた。
「はっ……! すいません……!」
トニーが割って入る。彼はトランスとフラスの間に入り、リトスを静かに諫めた。
「おぃおぃ、落ち着けよ。フラスちゃんが怯えてるじゃねぇか」
ロブは、感情を露わにしたリトスを無視し、フラスを見つめた。彼は彼女の薬に対する情熱を知っている。彼は冷静に、しかし芯の通った声で問いかけた。
「フラスちゃん。どうして、お父さんに作れることを言わなかったんだい?」
フラスは、トランスの鎧に顔を埋めたまま、か細い声で答えた。
「おじいちゃんが、おとうさんがいいっていうまでつくっちゃだめだって、い、いったの」
彼女は、トランスの鎧にしがみつく力を少し緩め、潤んだ茶色の瞳でロブを見上げた。その瞳には、恐怖だけでなく、亡き祖父への忠実な想いが宿っていた。
「あぶないからひとりじゃだめだって、おとうさんにおそわりながらつくりなさいって」
フラスの言葉は、クーゲルの深い配慮を示していた。彼は、フラスの才能が暴走しないよう、そして何よりも、父と娘の絆を通じて錬金術が継承されることを望んでいたのだ。
「つくるところを……みせなきゃだめ……だって……いっ……てた……」
最後の言葉は、消え入りそうに小さかった。フラスは、祖父の遺言を忠実に守ろうとしていただけだった。しかし、リトスが錬金術から遠ざけていたため、彼女は父にその機会を与えられなかった。
彼女の緊張が解けた。調合は、知識だけでなく、繊細な魔力を集中させる作業であり、彼女の小さな体は限界を超えていた。
フラスは、トランスの鎧にもたれかかったまま、静かに眠りに落ちた。リーゼは、彼女の頭を撫でる手を止め、その小さな寝息に耳を傾けた。
リトスは、その光景を見て、再び胸を締め付けられた。
彼は、以前フラスが錬金術を「やってみたい」と申し出た時、妻の病の薬を調達するのに精一杯で、危険だからと娘を遠ざけていたことを鮮明に思い出した。彼の行動は、娘を守るためのものだったが、結果として、フラスの才能を閉じ込め、祖父の願いを無視していた。
ロブは、眠ったフラスと、深い後悔に沈むリトスを静かに見つめた。
「錬金術というのは知識だけでなく、繊細な魔力を操る技術も必要なようですね」
ロブは、知的な口調で静かに語り始めた。
「フラスちゃんは、その魔力操作の天賦の才を持っている。ですが、作れることだけを知れば、今のようにその事実しか目に入らず……酷使していたかも知れませんね」
彼は、リトスの焦燥と自己中心的な感情を指摘した。
「他者を守ることも立派ですが、本当に守るべき者を見失ってどうしますか。フラスちゃんが怯えてしまった。きっとお爺さんの伝えたかったことはそうゆうことでしょう」
ロブの言葉は、リトスの心臓を鷲掴みにした。彼は、妻を守るという大義名分のもと、最も守るべき娘の純粋な気持ちと、祖父の遺言を踏みにじっていた事実に気づいた。
ーー「本当に守るべき者を見失ってどうしますか」
その一言が、リトスの心を深く抉った。彼は、謝罪の言葉を口にしようとした。
「……はい。すいま――」
しかし、ロブは静かに首を振り、視線だけで彼の言葉を遮った。
「――ありがとうございます」
ロブは、謝罪ではなく感謝の言葉を要求した。彼が求めているのは、リトスの内省だった。
「謝るべきは娘さんにですよ。起きたら真っ先に謝ってあげてくださいね」
ロブは、再び柔和な、しかし底知れない微笑みを浮かべた。しかし、その微笑みの裏に隠された、彼の底知れない度胸と、交渉術で鍛え抜かれた威圧感は、その場にいた他の仲間たちにも伝播した。
トニーが、小さく囁いた。
「ロブさんって時々滅茶苦茶こえぇよな? まるで王都の裏社会のドンみてぇだぜ」
トランスは、トニーに同意するように、極端に短く返答した。
「うむ……」
リーゼは、トランスの背中から顔を出し、ロブの方向をじっと見つめながら、困惑したような「はぅ~」という音を漏らした。
リトスは、深く頭を下げたまま、立ち上がることができなかった。彼の心に、娘への謝罪と、再出発の固い決意が刻み込まれた。
***
一同が家へ戻ると、そこには、思いがけない光景が待っていた。
ダイニングキッチンでは、ベックが、シーレの私物と思われるピンクのフリルのついた可愛らしいエプロンを着用し、手際よく夕飯の準備をしていた。彼の無精ヒゲと、熟練の冒険者然とした風貌とは似ても似つかない、そのアンバランスな姿は、場の緊迫感を一瞬で吹き飛ばした。
「遅かったな。奥さんの言う通りいつものことだったのか?」
ベックは、振り返りもせず、鍋をかき混ぜながらぶっきらぼうに尋ねた。
ロブは、すぐにいつもの社交的な笑顔に戻り、答えた。
「えぇ、何の問題もありませんでしたよ。むしろ、大きな収穫があったというべきでしょう」
トニーは、ベックの姿を見て、思わず吹き出した。
「ベックさんのほうが問題ありじゃね……? そのピンクのフリフリエプロン、趣味悪ぃぜ、旦那」
ベックは顔をしかめた。
「しゃーないだろ。これしかなかったんだよ! 奥さんが、料理をするなら清潔なものをってんで、これを貸してくれたんだ。文句があるなら、自分で作れ」
ベックの根底にある、情に厚い世話焼きな性格が、このような状況を作り出している。彼は、他人の家で料理をする際も、最高の食事を提供することにこだわる。
その時、サラが、別の鍋から立ち上る湯気を拭いながら、一行を出迎えた。彼女は、いつもの露出度の高いローブの上に、家事を手伝うための落ち着いた色の外套を羽織っていた。
「あっ、おかえりなさーい。夕飯出来てますよ?」
トニーは、ベックと彼女の姿を交互に見て、残念そうに溜息をついた。
「どうせならサラちゃんのエプロン姿見たかったなー。そしたら、もっと飯が美味くなるって!」
サラは、トニーの軽薄な褒め言葉にも動じず、冷静に返す。
「ベックさんのほうがお料理上手なんですよね……私じゃ、火加減すら属性制御で苦労しちゃいますから」
彼女の言葉には、自身の魔力制御に関するコンプレックスがわずかに滲んでいた。
トニーは、ここぞとばかりに、いつもの口説き文句を繰り出す。
「いや、だがまだだ! サラちゃん! 俺に聞いてくれ! ご飯にするか、お風呂にするか……それとも――」
トニーが、お決まりのセリフのクライマックスを言おうとした瞬間、ベックが彼の背後から、手に持った巨大な木べらを振りかざすように割り込んだ。
「俺との特訓にするか? あぁん?」
ベックの深緑の瞳が、トニーを射抜く。その眼差しは、辺境の獲物を見定める鋭さを持っていた。
トニーは、物理的な危険を察知し、すぐに逃げの姿勢に入った。彼の現場での判断力は優れている。
「――ご飯にさせて頂きます」
彼は一目散にダイニングテーブルに向かい、席に着いた。
トランスと、彼の背中におぶさるリーゼは、この一連の騒動を、まるで異文化の儀式を見るかのように首を傾げていた。
トランスは、極度に寡黙で感情を表に出さないため、彼らの日常的なやり取りを理解しきれない。
「何をやっているんだ……?」
リーゼもまた、トランスの疑問に呼応するように、首を傾げながら小さな「う~?」という音を漏らした。
***
賑やかな夕食の準備が進む中、ロブは、物陰で様子を窺っていたロートに声をかけた。
「ロート君は、本当に夕飯を食べていかないかい?」
ロートは、その大柄な体躯とは裏腹に、極度の臆病さから、集団の中にいることを嫌がった。彼はチャンバーへの忠誠心からリトス一家の監視と護衛を続けているが、その行動は常に空回りしている。
「い、いえ……。俺は少し用事が出来たので……」
彼は、目線を合わせず、ぶっきらぼうに断った。
リトスは、気まずさを感じながらも、彼を再度誘った。ロートが以前、路銀を失いかけた自分たちを陰ながら助けてくれたことに恩義を感じていたからだ。
「そうか……。では、今度はごちそうさせてくれ」
ロートは、早足で小屋を後にした。
「その時は必ず……では……」
トランスは、食事の喧騒から一歩離れ、その場に留まっていた。彼は、ロートの後ろ姿を、暗い影の中に素顔を隠した兜の奥から、じっと見つめていた。
ベック「エプロンってないか?」
シーレ「これしかないですね…」 フリフリピンクエプロン
ベック「……しゃーないか。使って大丈夫か?」
シーレ「えぇ、どうぞ、お使いください」(サラさんが使うのねきっと)
――少し体調良くなってきたし手伝えることないかしら
サラ「あっ、シーレさん、あとは仕上げぐらいみたいですから座っていてください」
シーレ「あらあらすいません。ごほごほっ。エプロン使わなかったんですか?」
サラ「……使ってますよ?」
シーレ「えっ?」
ベック「サラ! 料理運んでくれ!」 呼びに来るベック
シーレ「――ごほごほっごほっ!」
ロブ「奥さんしっかり!」
ベック「俺が悪いのか?」




