小さなおさげの錬金術師
リトス視点です
製造室の扉が重々しく閉ざされた。外の喧騒は遮断され、室内には薬草の乾いた香りと、先ほどの爆発による焦げ臭さが混じり合っている。トランスは、その古びた鎧を纏ったまま、フラスとリトスが立つ調合台の傍らに、微動だにせず立っていた。彼の存在は、繊細な錬金術の空間において、異質な岩塊のようであったが、その沈黙は信頼の証でもあった。
リトスの心は、製造室の薄暗い光の中で、長年の埃を被った記憶の深奥へと沈んでいた。
彼の脳裏には、厳格でありながら偉大だった祖父、クーゲルの姿が焼き付いている。父親が家を出た日、祖父は怒号を上げた。
「出ていけ! 貴様など息子でも何でもない! リトスはわしが預かる!」
彼を庇護し、育んでくれた祖父の言葉は絶対だった。
「リトスや、お前はあぁはなってはならんぞ…」
祖父は彼に、真の錬金術師の道を歩むことを望んだ。薬品を武器に魔物と渡り合う、その背中に、幼いリトスは憧れを抱いた。
すべてが変わったのは、旅先の王都でシーレという女性と出会ってからだ。彼女の病は深く、リトスは必死になった。
「じいちゃん! あの子を治してあげてくれよ!」
だが、祖父は首を縦に振らない。
「ならん! お前自身で作れ」
「じいちゃんのけち!」
リトスは家出をした。自らの無力さに打ちひしがれ、途方に暮れていた彼を、祖父が探しに来た。その時の祖父の顔は、憔悴しきっていた。
「もうよい。帰ろう。お前までいなくならないでおくれ……」
その言葉は、リトスの心を深く抉った。彼は祖父の優しさに触れ、シーレを家族として迎え入れることができた。祖父は万能薬を融通してくれたが、彼にこうも告げた。
「そうか。お前が見つけた道であれば、もう何も言うまい」
リトスの道は、いつしか調合の探求ではなく、薬の仲介へと傾いていった。困窮する人々、助けを求める者に安く薬を融通する。それは騎士道にも似た、彼の優しさが選んだ道だった。
しかし、偉大な祖父が逝ってしまってから、すべてが崩壊した。
祖父が遺した最高品質の薬は底を突き、リトスが調合する薬は品質が落ちた。彼は助けたはずの人々に罵倒された。
「何でもう卸してくれないんだよ!」
「金か! 結局金がないとだめなのか!」
彼の善意は、不信と非難によって蝕まれた。錬金術師としての彼は、完全に挫折したのだ。
その時、彼を支えたのがロートだった。彼だけが、リトスの献身的な精神を理解し、護衛という名目で彼のそばに居続けた。材料の採取すら困難になった今、リトスは祖父の遺言に従い、娘のフラスを連れて王都へ向かう旅に出ることを決意した。
「……フラス、大丈夫か?」
リトスの問いかけは、不安に満ちていた。
フラスは小さく頷いた。彼女の華奢な体は、調合台の高さに届かない。
トランスは無言で一歩踏み出し、フラスの背中に手を添える。彼の大きな手は、フラスの体を持ち上げ、調合台と同じ高さになるよう抱き上げ、補助した。
トランスは極度の集中状態に入った。彼の全身の筋肉は固く緊張し、微細な揺れすらフラスに伝わらないよう、全身の動きを抑制している。
フラスは、慣れた手つきで、レシピの横に描かれたスケッチと、祖父から受け継いだ記憶を辿りながら、薬草を手に取った。
「えっと、これはたねだけつかうでしょー…」
フラスが指さしたのは、レシピには「〇〇の実」と記されていた材料だった。リトスは実全体をすり潰すものだと信じていた。彼の知識では、それが常識だった。しかし、フラスは実を割り、小さな種だけを取り出した。
リトスは思わず息を呑んだ。
「種……? だが、レシピには……」
「おじいちゃんがね、これはからだによくないから、たねだけにするんだよって」
彼女の言葉は、リトスが長年、レシピの表面だけをなぞり、その本質を理解しようとしてこなかった事実を突きつけた。
リーゼは、トランスの背中から身を乗り出し、フラスの額に浮かんだ汗を、小さな手でそっと拭った。彼女の翠色の瞳は、真剣な眼差しでフラスの作業を見つめている。
「うっうー」
リーゼの微かな呼吸音は、フラスにとっては優しい激励のように聞こえた。
リトスがすり潰すものだと考えていた葉は、フラスによって熱湯で煮沸された。彼女はエキスのような濃い液体を取り出すと、残りの葉を躊躇なく破棄した。
「きしさまこんどはそっちー」
「うむ」
トランスは言われた通り、細心の注意を払って、フラスを次の工程に移動させた。彼の口数は極端に少ないが、フラスの指示に対する彼の反応は、完璧な従順さを示していた。
フラスは、最も難しい工程へと入った。複数の液体を、慎重に、一滴ずつ継ぎ足していく。
「これがむずかしいんだよー。きしさまうごかないでね」
「うむ」
トランスは岩のように動かない。その揺るぎない安定感が、フラスの集中を支えた。リーゼもまた、トランスの背中にしがみつき、小さな声を上げた。
「あうー!」
薬液は、フラスが最後の材料を継ぎ足した瞬間、劇的な変貌を遂げた。それまで濁っていた緑色は、一瞬で透き通るような黄金色へと変化し、淡い光を放ち始めた。その光は、周囲の魔素を吸い込んでいるかのようにも見えた。
「できたー!」
フラスは歓声を上げ、トランスの鎧にしがみついた。トランスは、わずかに首を傾け、「うむ」と低い声で応えた。
その光景を見ていたロブが、一歩前に出た。彼の顔には、いつもの柔和な笑みが浮かんでいるが、その瞳の奥には、商人の鋭い鑑定眼が光っていた。広域情報網と鑑定の特殊能力を持つ彼は、この薬の本質を見抜くことができる。
ロブは黄金色の液体を凝視し、小さく息を吐いた。
「すごいですね。これは、万能薬の上級ですよ。フラスちゃんは天才かもしれませんね!」
彼の鑑定は、リトスの調合では決して到達し得なかった領域を示していた。
フラスは無邪気に顔を輝かせた。
「えへへー。おじいちゃんといつもつくってたの!」
リトスは絶句した。彼の全身から力が抜け、調合台に手をついた。
(祖父は、私に薬の調合を教えなかったのではない。私が、教えを請うことを怠り、娘の才能に気づくことさえしなかったのだ……)
長年の挫折感と、娘への無関心という罪悪感が、彼の胸に重くのしかかる。彼は、自分の道を選んだと信じていたが、それは単なる逃避だったのではないか。
リトスは顔を上げ、フラスと目が合った。彼女の瞳は、彼の動揺に気づくことなく、純粋な喜びで満たされていた。
「えへへ、すごいでしょ」
フラスの屈託のない笑顔は、リトスにとって、彼の過去と現在の失敗を照らし出す、あまりにも眩しい光景だった。彼は、自分の娘が、自分が失ったと思っていた錬金術の真髄を、秘かに祖父から受け継いでいたという事実に、ただ立ち尽くすしかなかった。彼の心臓は、長年の停滞を破るかのように、激しく鼓動を始めた。




