リトスの妻
次回更新少し遅れます。予想外に時間を取れませんでした……。
山間の道は、夕暮れの淡い光に包まれていた。コボルトの襲撃は一時的なものであったのか、あるいはトランスの《神眼》が捉えた「撤退した敵意」が真実であったのか、一行は再び静寂の中を進んでいた。
ビカ村は、周囲の険しい山々に抱かれるようにして存在する、小さな集落だった。木造の家々が密集し、どこか懐かしい薪の匂いが漂っている。一行が村の入り口に差し掛かると、リトスが安堵の息を漏らした。
「ああ、よかった。無事に着きましたな」
リトスは、一行に軽く会釈をすると、すぐに村の中央にあるひときわ大きな家屋へと向かった。村長への報告のためだろう。
「たいした村ではありませんが、ゆっくりしていってください」
リトスの言葉には、謙虚さと、ようやく家族の元へ帰れるという安堵が滲んでいた。
リトスが村長宅へ入っていくと、フラスが不安げにトランスを見上げた。彼女はまだ幼く、コボルトとの戦いの恐怖が残っているようだったが、すぐに表情を引き締めた。
「ふらすはおうちにあんないするね!」
彼女は、トランスの足元で、小さな決意を込めてそう告げた。その健気さに、トランスはわずかに頷きを返す。
村人たちは、全身鎧の騎士トランスと、魔法使いサラ、そしていかにも冒険者然としたベックやトニーといった面々を警戒しているようだった。しかし、リトス一家の娘であるフラスが先導していること、そして何よりも、トランスの背中におぶさるリーゼの無垢な姿が、彼らの警戒心を幾分か和らげた。村人たちは遠巻きにしながらも、通り過ぎる際に会釈を交わすだけに留まった。
一行はフラスに連れられて、村の奥にある一軒の家へ到着した。その家は、周囲の粗末な木造家屋とは一線を画し、石造りの頑丈な土台と、丁寧に組まれた木材で建てられていた。想像以上に立派な造りに、サラとベックが思わず目を見張った。
「これは……随分と立派な邸宅ですな」ロブが感嘆の声を漏らした。
フラスが扉を開けると、中から一人の女性が姿を現した。彼女こそ、リトスの妻であり、フラスの母親であるシーレだった。
シーレは長い灰色の髪を持ち、顔色は優れないが、その口元には常に控えめで温かい笑みが浮かんでいた。彼女の体は細くやつれており、一目で病弱であることが分かった。しかし、その瞳には家族への深い愛が宿っていた。
「フラスの母のシーレといいます。どうぞおはいり下さい」
彼女は穏やかな声で一行を招き入れた。その声は、トランスの胸に空いた穴を、わずかに温めるような優しさに満ちていた。
フラスは母親に駆け寄り、興奮気味に身振り手振りを交えて報告した。
「か、かあさま! このひとたちが、ふらすを、たすけてくれたの!」
シーレは驚きと感謝の念を込めて、トランス一行に視線を向けた。トランスは無言で会釈を返した。
シーレは一行を居間へと通し、すぐに香草茶を用意してくれた。それは、この山間で採れた薬草をブレンドしたもので、疲れを癒す独特の香りがした。
「どうぞ、お疲れでしょう。このお茶で少しでも旅の疲れが癒やされれば幸いです」彼女は優しく微笑んだ。
一行が茶を飲みながら談笑していると、村長への報告を終えたリトスが慌ただしく帰宅した。
「シーレ!」
リトスは、安堵からか、少し涙ぐんでいるようだった。彼はすぐにシーレの元へ歩み寄り、優しく抱きしめた。
「おかえりなさい、あなた」シーレは夫の胸に顔を埋め、小さく咳き込んだ。「ごほっ、ごほっ……」
リトスは妻の体を気遣いながら、すぐにトランス一行に向き直った。彼は深々と頭を下げた。その角度は、これまでの旅で見た中で最も深く、彼の心からの感謝が伝わってきた。
「本当に、皆様には何とお礼を申し上げたら良いか……」
リトスはそう言って、再び頭を下げた。
「どうぞ今日は泊まっていってください。粗末ではありますが、最善を尽くしておもてなしをさせていただきます」
シーレも感謝を述べる。
「ごゆっくりどうぞ。私の家族が、本当に助けられました」
トランスは、リトスの深い感謝に対し、ただ一言で答えた。
「……問題ない。これが俺の責務だ」
その時、ロブが静かに口を開いた。彼の表情は、いつもの商売人の柔和な笑顔ではなく、どこか思慮深い色を帯びていた。
「リトスさん、お気遣いなく。もしよろしければ、この台所をお借りしてもよろしいでしょうか? 私たちは野営に慣れておりまして、簡単な食事であれば、すぐに用意できます」
ロブは、リトス一家の状況を瞬時に察していた。病弱なシーレにこれ以上負担をかけるべきではないこと、そしてリトスが村長への報告以外にも、急いでやるべきことがあるはずだと。
「リトスさんにも急いでやることがあるのでは? 奥様はゆっくりお休みになってください」
ロブの言葉は、宿泊の申し出を断るのではなく、彼らの負担を軽減しつつ、リトス一家の個人的な事情にも配慮する、完璧な交渉術だった。
リトスは、ロブの洞察力に驚いたようだったが、すぐに納得した。
「……まことに恐縮です。では、お言葉に甘えさせていただきます」
彼はシーレに優しく声をかけ、部屋で休むように促した。シーレは名残惜しそうにしながらも、夫の言葉に従う。リトスは、何か重要な用事があるのか、すぐに離れへと向かった。
残されたロブ、ベック、サラは、フラスを伴って台所へと向かった。
「お嬢ちゃん、今日の晩飯はベックの旦那が腕を振るうぜ。最高の食材を持ってるからな」ロブがフラスに優しく話しかけた。
「ふ、ふらすも、てつだうよ!」フラスは緊張しながらも、嬉しそうに返事をした。
サラは、リトス一家の温かい雰囲気に触れ、少し頬を緩ませた。
「お料理でしたら、私もお手伝いします。火加減の調整くらいは、魔法でできますから」彼女は真面目な顔でそう申し出た。
一方、トランスは夕食の準備には加わらず、トニーとリーゼと共に家の外へと出た。
山の風は冷たい。トランスは、鎧をまとっているため寒さを感じないが、周囲の警戒を怠らなかった。
彼の背中には、純白の慈悲のマントに包まれたリーゼが、いつものように背負われている。トランスは、トニーに背を向ける形で、静かに問いかけた。
「フラスと一緒にいなくてよかったのか?」
リーゼは、フラスに懐かれていた。彼女がフラスと遊ぶことで、リトス一家の警戒心もさらに解けたはずだ。
その問いかけに対し、リーゼは、トランスの兜を「コンコン」と軽く叩いて返答した。
トニーは、警戒のため遠方を見据えながら、ひょうきんな笑みを浮かべた。
「へへ、そりゃあ、リーゼ嬢ちゃんも気を遣ってんだろ、旦那」
トニーは、弓を構えるような仕草をしながら、解説した。
「村にいきなり全身鎧の騎士が歩き回ってたら、そりゃあ警戒されんだろ? 旦那は目立ちすぎるんだよ。でもよ、リーゼ嬢ちゃんが旦那の背中にいりゃ、それはもう子連れの騎士様ってわけだ。警戒が和らぐため、ついてきたんだろうよ」
トニーの言葉は、リーゼの献身的な性格を正確に捉えていた。リーゼは、トランスが村人から不当な目で見られるのを防ぐため、あえて彼の背中に留まることで、その威圧感を和らげようとしているのだ。
トランスは、兜の奥で、わずかに息を吐いた。
「なるほど、理解した」
彼はリーゼの行動の意図を理解し、その優しさに感謝した。彼が寡黙に「責務」を果たすように、彼女もまた、言葉なくして「慈悲」を果たしている。
トニーは、トランスの態度を見て、肩をすくめた。
「ったく、どっちが子守だかわかんねぇな……。まあ、愛されてるってこった、旦那」
トランスは何も言わなかったが、その鎧の奥で、わずかな温かさを感じていた。




