コボルトの襲撃
早朝、霧が薄く立ち込める中、トランスの一行は再び旅路についた。
昨夜、トランスの治癒魔法を受けたロバのロッシーは、まるで昨日の疲労が嘘だったかのように、軽快な足取りで隊列の先頭を進んでいた。その背には、リトスとフラスの荷物を乗せた馬車が揺れている。
トランスの右肩には、小柄なフラスがちょこんと座っていた。彼女は昨夜の秘密の共有からか、トランスに対してすっかり懐き、彼の肩甲骨のあたりを小さな指で楽しげに叩いている。
リトスが驚きと喜びを抑えきれない様子で馬車から顔を出し、トランスに尋ねた。
「昨夜、何かいたしましたか、トランス殿?」
トランスは一瞬、言葉を選ぶように寡黙に沈黙した。彼の兜の奥に隠された視線は、前方を捉えている。
「……問題ない。撫でてやっただけだ」
「撫でただけで、あのロバがここまで回復するとは……まことに驚くべきことです」
ロバは耳をぴくぴくさせながら、元気よく前進を続けている。フラスは満足そうに、ロバの背中を指差した。
「このこのなまえ! ロッシーだもん!」
リトスは目を丸くした。
「えっ? お父さんは初めて知ったぞ?」
トランスの肩の上で、フラスは得意げに胸を張った。
「おしえてないもん」
リトスはあからさまに肩を落とし、しょんぼりとした表情になった。彼は家族の世話を焼くことを生き甲斐としており、娘が自分に内緒でロバに名前をつけていたことが、彼にとって小さな衝撃だったようだ。
トランスは、そんなリトスの肩を、古びた鉄色の鎧に覆われた大きな手で、ぽん、ぽんと軽く叩いた。彼の行動は、不器用ながらも慰めの意を示している。
「そうゆうものなのだろう……」トランスは簡潔に言った。
その様子を見て、トランスの左肩にいるリーゼが、僅かに口元を緩ませ、小さく「う」と笑った。トランスとリトスの間の、昨日と似た、しかし確実に距離が近づいたやり取りが、彼女には微笑ましく映ったのだ。
フラスは、トランスの慰めの行為を見て、無垢な疑問を投げかけた。
「おとうさんも、きしさまになでてもらえばげんきになるかも?」
リトスとトランスは、騎士に撫でられて元気になる三十路過ぎの男という光景を想像し、同時にげんなりとした表情を隠した。
リトスが「それはちょっと……恐縮です」と慌てて辞退し、トランスもまた、いつもの感情を排した声で応じる。
「うむ……」
和やかなムードは、一行が主要な街道を離れ、山間の道へ入ったことで、一気に引き締まった。
道は狭く、舗装されていないため、馬車が大きく揺れる。周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、視界が遮られる。
ロブは、商人の顔から一転、鋭い眼差しを周囲に向けた。彼は危険を察知する能力に長けている。
「ここからは警戒してください。主要な街道では前をゆく商隊が露払いとなっていたのでしょうが、ここからは違います」
彼の言葉に、リトスは顔色を大きく変えた。彼はフラスに強く促す。
「ほら、フラス、お前は馬車のほうにいっていなさい。危険なものは見ないように」
フラスは不満そうに口を尖らせた。「えー、りーぜちゃんは?」
トランスの肩に座るリーゼは、フラスの抗議に対し、小さな拳を握り、親指を立てる。サムズアップだ。
「う!」
リーゼは、自分は大丈夫だ、と無言でフラスに伝えた。フラスは少し安心したように馬車の中へ戻っていった。
その瞬間、トランスは一歩前に出た。彼の全身を覆う古びた鎧が、低い金属音を立てる。
「迎撃態勢だ」
トニーは即座に反応した。彼は軽やかに馬車の幌に飛び乗り、ロングボウを構える。彼の琥珀色の瞳は、森の奥深くを射抜くように鋭い。
「へへ、お出ましか。森の嫌な匂いがするぜ」
サラがローブを翻し、馬車の側面から飛び出した。彼女は魔族の血を受け継ぐ高い素質を持つ魔法使いであり、常に冷静沈着な判断を下す。
彼女は銀細工のペンダントを握りしめ、魔力を制御しながら周囲の魔素を分析した。
「前方2、左右の森の中から1づつです! 動きが素早い! おそらく……」
ロブが即座に、彼女の言葉を引き継いだ。
「コボルトです! 素早いので気を付けて! 奴らは群れで行動します!」
トニーが素早く矢を番え、前方から飛び出してきた二体の影に向かって、牽制の矢を放つ。矢は正確にコボルトの足元を掠め、彼らの動きをわずかに乱した。
「ちっ、牽制にしかならねえか!」
その一瞬の隙を、サラは見逃さなかった。彼女の瞳が、魔力が過剰に高ぶることで赤く染まりかける。だが、彼女はそれを抑え込んだ。
「<フレイムブリッド>!」
節制の栄冠により制御された魔力を放つ。炎の弾丸が、トニーの矢筋を追うようにコボルトの胸部に正確に命中した。コボルトは悲鳴を上げる間もなく、炎に包まれ、地面に叩きつけられる。
サラは間髪入れずに、左右の森から躍り出ようとしていたコボルトにも対応した。
「<ウィンドカッター>!」
風属性の魔法が、鋭い刃となって森の闇を切り裂く。左側のコボルトは胴体を掠め、右側のコボルトは胴首筋を深くえぐられ、動きを止めた。
トニーは弓を下ろし、驚きと悔しさが入り混じった表情でサラを見た。
「ちっ、自信なくすぜ本当によ」
サラは息一つ乱さず、冷徹な平静さを保ったまま応じる。
「手加減している余裕はありません。一気に叩くのが、最も効率的です」
その会話の最中、左側の森から、別のコボルトが馬車の荷台を狙って飛び出してきた。サラの攻撃を辛うじて避けた個体だ。
「はいはい、わんころは乗車禁止ですよっと」
ベックが動いた。彼は常に馬車のすぐ脇で、最も危険な位置を警戒していたのだ。
彼は短剣を抜くことなく、馬車に飛び乗ろうとしたコボルトの顔面に、鍛え抜かれた掌底を叩き込んだ。衝撃でコボルトの頭部がぐらつく。ベックはそのまま、コボルトの腹部に短剣を突き立て、一瞬で引き抜いた。彼の動きは無駄がなく、流れるようだった。
ベックは短剣の血を軽く払い、何事もなかったかのように再び馬車の影へ戻る。彼は常に冷静であり、戦闘を事務的に処理する。
トランスは、正面の森から飛び出してきた最後のコボルトに向かって、一歩も引かずに突進した。
前方のコボルトは、騎士の突進を止めようと、粗末な木製の棍棒をトランスに振り下ろした。
トランスは本能的な恐怖に支配されかけたが、肩に乗るリーゼの小さな重みと、背後にいる仲間たち、そしてフラスの存在が、彼の恐怖を打ち消した。彼は、守るという責務にのみ動く。
棍棒は鈍い音を立てて命中した。トランスは一瞬ぐらついたが、その衝撃を無視し、全身の質量を乗せた体当たりをするようにして、剣でコボルトを突き刺した。
トランスは呻き声一つ上げず、コボルトを地面に縫い付けた。
彼はすぐに体勢を立て直し、周囲の警戒を始めた。視界を確保するため、特殊能力《全天周囲視認》を発動させる。三百六十度の視界が、森の隅々までを見渡した。
トランスは、遠くの木陰に、微かな敵意の色が揺らめいているのを《神眼》で捉えた。赤く、警戒と敵意を示す色だ。しかし、その色はすぐに消えた。
トランスは、全身の警戒を緩めないまま、短く呟いた。
「撤退した……?」
周囲には、コボルトの死骸と、血の匂いが立ち込めている。一行は剣を収めることなく、周囲を警戒した。
彼らは、警戒を維持したまま、山間の道の奥へと進んでいった。




