白銀のドラゴン
トランスは、胸の中で安堵に震えるサラを、抱きしめる力を緩めずにいた。彼女の熱は完全に引き、紫色の瞳も澄み切った水色へと戻っている。リーゼの魔力同調と、サークレットという新たな制御装置が、彼女の内に渦巻く魔力の奔流を奇跡的に安定させたのだ。
「……あぁ」
トランスの喉から漏れた声は、安堵と、わずかな疲労の色を帯びていた。全身を貫く疲労感と、胸の穴から吹き込む戦慄。それでも、守り抜いたという事実に、彼の心は静かだった。
「トランスの旦那! サラちゃん、本当に良かったぜ!」
トニーが駆け寄り、二人に抱きつこうとした瞬間、遠方から甲高い悲鳴が響き渡った。それは、子供たちのものだった。
トランスは反射的に顔を上げ、声の方向――リリアとゴルドが待つ戦場跡地へと視線を向けた。
砂塵の向こうから、リリアが子供たちを先導し、狂乱したようにこちらへ走ってくる。その後ろには、ゴルドが、シルヴィスの遺体を抱えたまま、重い足取りで追従していた。
「ドラゴンの様子が何かおかしい! 早く離れてください!」リリアが叫ぶ。彼女の普段ののんびりとした口調は消え去り、芯のある緊迫した声が響く。
トランスは、リリアが指し示す方向、先ほどまでドラゴンが横たわっていた場所を見た。
地表は巨大なクレーターとなり、その中心に、深紅の鱗を持つはずだったドラゴンの巨体が横たわっている。しかし、その身体は、今や黒い靄のような瘴気に深く絡みつかれ、潰れた眼窩からは、真っ黒な、粘性の液体がとめどなく流れ出していた。
完全に息絶えて動かなかったはずの巨体が、まるで内部から何かに突き上げられるかのように、ゆっくりと、しかし確実にもたげ上がっていく。
「なんだあれは!?」トニーが目を見開いた。
「まじかよ……」
瘴気――それは、魔力が怨念や恨み辛みといった負の感情によって変質したものだ。死骸や、多量の死が起こることによって発生する。背筋に悪寒を感じるかのような冷たい空気が、一瞬で場を支配し、トランスの古びた鎧の隙間から入り込み、彼の肌を凍てつかせた。
トランスの胸に空いた穴が、再び恐怖を吸い込む。魔物と相対すると身が竦むという、彼の呪いのような制約が、彼の全身を硬直させ始めた。
「グルルルルルル……」と、その巨体から漏れる唸り声は、もはや生きた生物のものではなかった。
リリアは、青ざめた顔で瘴気に包まれていくドラゴンを見上げた。
「ここは、子供を使い始める前は、扱い辛い犯罪奴隷や、口減らしの為に捨てられた老人を廃棄していた。その怨念かもしれん」ゴルドが、重々しく経緯を語る。彼の声には、いつもの尊大さはなく、深い絶望が滲んでいた。
「ここで……あの子たちも……」リリアが、泣きそうな顔で呟く。
ドラゴンが朽ちていくことで霧散した魔力に、今まで捧げられてきた人間の怨念が反応し、ドラゴンの怒りに引き寄せられる形で瘴気が発生したのだ。死んだはずのドラゴンの身体を怨念と怒りが支配し、ドラゴンゾンビがそこに生まれ堕ちた。
「グルアアアアアアアアア!」
咆哮が大地を震わせた。トランスは満身創痍。サラは超過魔法の反動でまともに動けない。トニーの弓は、この巨体には決定打を与えられない。全員が、死を覚悟した。
その時、全員の頭の中に、まるで直接脳内に響くかのような、巨大で威厳に満ちた声が響き渡った。
『戒めに来てみれば、なかなか面倒なことになっているな』
声が響いたかと思うと、ドラゴンゾンビの頭上から、巨大な何かが、信じられない速度で落ちてきた。地面を揺らすような、強烈な振動が起こり、猛烈な風圧によって砂ぼこりが舞い上がる。
全員が呆気にとられていると、風が起こり、砂ぼこりを散らしていく。
『全く、人間風情と侮るからこうゆうことになる。挙句、その怨念に支配されるなど目も当てられぬわ。恥を知れ』
砂ぼこりが晴れると、そこには優に20mはあろうかという、白銀に輝く巨竜が立っていた。その存在は、神聖なまでの輝きを放ち、周囲を支配していた瘴気は、呆気なく消え去ってしまった。ドラゴンゾンビは、その巨大な質量によって、クレーターの中で押しつぶされ、すでに動く気配はない。
一同は、その威容に言葉を発することも、行動を起こすこともできず、ただ固まり、息をのむことしかできなかった。
『我が名はエンシェントドラゴン、定命の者達よ。此度は我が眷属が迷惑をかけたようだ、ここに詫びよう』
存在そのものが巨大なドラゴンが、躊躇なく頭を下げたことで、一同は驚愕に目を見開いた。
エンシェントドラゴンは、その巨大な金色の瞳を細め、トランスへと視線を向けた。
『ほぅ……お主、何とも歪な存在になっておるな。その剣が、子供とはいえ眷属へと届き得たか。褒美をとらそう』
あれが子供だという事実に、一同は再び驚きを隠せない。
エンシェントドラゴンは、気にすることもなく、自らの牙を一本、へし折った。その牙は宙に浮くと、ゆっくりとトランスの腰に帯びた、獣王の牙へと吸収されていった。
トランスは、その剣を無言で受け入れた。
次に、エンシェントドラゴンはサラのほうに視線を送る。
『そこな娘は、多少とは言え、ドラゴンの魔力にも適応するか。面白い。使いこなして見せよ』
自らの白銀の鱗を一枚剥ぎ取ると、それを握り潰した。粒子のようになったそれが、サラの額に現れたサークレットに吸収されていく。
『さて、すまぬが、他の者にやれるような――』
「――どうして!」
一方的に話を進めるエンシェントドラゴンの言葉を遮るように、リリアが叫んだ。その行動に、トランスやゴルドは冷や汗を流す。
「どうして私達の子を必要としたの!? いくらでも強いあなたたちが、どうして弱者である子供を食べたがるの!」
リリアの小さな身体は震えていたが、彼女の瞳は、子供たちへの贖罪と、強い怒りで燃えていた。
『はーはっは。我が示威の前に小娘が発言をするとは、見事な胆力よ。どうして……どうしてか……』
エンシェントドラゴンは愉快でたまらないという声色で笑うと、考えるようなそぶりを見せ、リリアに答えた。
『我が眷属を恐れて、人が勝手にやり始めたことだ。我らが望んだことは一度たりとてない』
「えっ……」
リリアは絶句した。ゴルドもまた、抱えたシルヴィスの遺体を落としそうになりながら、愕然と呟く。
「な、なんだと……」
冷淡に答えるエンシェントドラゴンの言葉は、必要悪と信じようとしていた騎士の信念を根底から揺さぶった。
『考えても見ろ。我らは空を駆る。そして最強種でもある。余程の者でなければ太刀打ちできまい。必要であれば狩ればいい。違うか? お主らが打ち負かした眷属が、このあたりを狩場にしていた時に、供物を与えれば被害を出さないと勝手に判断しただけだろう。最も、探し回らずとも供物として腹が膨れるとしって、こやつは味をしめていたようではあるがな。ドラゴンを供物如きで御することができると思いあがるとは、これもまた人の業か。以前干渉したのは、住処の近くで騒いでいたのが煩わしかっただけにすぎない』
国を守るためと思い繰り返していた非道が、ただの勘違いから始まったという真実。リリアとゴルドは、膝をつき、深いショックに項垂れた。彼らの信じていた「大義」は、砂上の楼閣だったのだ。
真実を告げただけのエンシェントドラゴンも、バツが悪そうにしていたが、その視線がトランスと、ゴルドが抱えていたシルヴィスの遺体に止まると、何かを思いついたかのように再び話し出した。
『ふむ、形としてなりたっている例があるのであれば、問題あるまい。誇り高き戦士がそこにもいたな。ここで散るには惜しい魂のようだ。行き違いの詫びとして受け取るがいい』
エンシェントドラゴンが手をかざすと、地面に横たわっていたシルヴィスの遺体がゆっくりと浮き上がった。同時に、踏みつけていたドラゴンゾンビの残骸が粒子となり、シルヴィスに同化していく。
光の繭のようになったかと思うと、それはゆっくりとトランス達の前に降り立った。繭が弾け飛ぶと、傷一つないシルヴィスがそこに存在した。
彼女の身体は、以前の細身で小柄な体躯とは異なり、しなやかで強靭なものへと変貌していた。肌は白磁のように滑らかだが、額からは二本の鋭い角が生え、瞳は金色の縦長に伸びた竜の瞳孔へと変わっている。
「きゃっ!」リリアは慌てて、彼女が抱えていた外套を、裸のシルヴィスに被せた。
シルヴィスは、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、かつて失っていた自信や迷いはなく、揺るぎない信念の光が宿っている。
『恥を晒した眷属の魂で悪いがな。再利用させてもらった。これをもって手打ちとしてもらおうか。我らは人の営みに余程のことがなければ干渉することはない。それが定めであり掟である。安心するがよい。定命の者たちよ。さらばだ。我は遠くから見守っているぞ』
エンシェントドラゴンは、それだけ言い残すと、巨大な翼を広げた。その一閃で、大気が裂け、あっという間に空へと姿を消した。




