騎士として
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
大地が揺れた。轟音と砂塵が、視界を覆い尽くす。六メートルを超える巨体が、巨大なクレーターの中心で血と土にまみれて横たわっていた。
サラの超過魔法によって叩き落とされた【ドラゴン】は、全身の骨が軋む音を響かせながら、「ギイアアアアアアアアア!」と、屈辱と激痛に満ちた咆哮を上げた。まだ息絶えていない。しかし、その動きは、地面に縫い付けられたように鈍い。
この刹那を逃せば、再び態勢を立て直される。
「おおおおおおお!<衝撃!」
「はああああああ!」
砂塵を切り裂いて、二つの人影が突進した。トランスとシルヴィスだ。
彼は、獣王の牙と化した真紅の剣を、ドラゴンの顎のわずかな隙間に叩き込んだ。
衝撃。森の主の突進を思わせる凄まじい力が、ドラゴンの硬い顎の骨を内側から揺さぶり、脳を揺らす。
同時に、銀色のフルプレートを纏ったシルヴィスが、その剣をドラゴンの左の眼球に突き刺した。
「ギィッ!」
鱗の隙間を狙った一撃は、明確に有効打となった。しかし、ドラゴンはまだ致命傷には至らない。獣王の牙が顎に食い込み、シルヴィスの剣が眼球を貫通した状態のまま、巨体は暴れ始める。
「そのまま抑えつけろ!」
トランスは叫んだ。恐怖は、もはや影を潜めている。守るべきものが目の前にいる時、彼の騎士としての本能が、全身の恐怖を押し殺す。
彼は剣を握り直す。もう一方の眼球、わずかに痙攣している右の瞳目掛けて、剣を突き刺した。そして、連続でトリガーワードを唱える。
「……衝撃! 衝撃!」
連続した衝撃波が、ドラゴンの脳を揺さぶる。
「ぬうああああああ!」
シルヴィスは、全身の魔力を身体強化に注ぎ込み、トランスが突き刺した剣の柄を抑えつけるようにして、ドラゴンの巨大な頭部を地面に押し付け続けた。彼女の鎧は熱を帯び、装甲の隙間から蒸気が上がっている。
数秒の均衡。
ドラゴンは抵抗を止め、その巨体は完全に弛緩した。
トランスは、剣から手を放し、膝をついた。全身の魔力を使い果たし、肉体は限界を超過している。
「これで……打ち止めだ……」
彼の声は、掠れていた。
シルヴィスも、剣をドラゴンの頭に突き立てたまま、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「全く、腕がもう……まともに動かん……」
彼女は、安堵からくる脱力感に、かすかに笑みを浮かべた。
勝利の確信。緊張が緩んだ、その瞬間だった。
弛緩したはずのドラゴンの口が、カッと見開かれた。
喉奥で、再び深紅の光が脈動する。それは、最後の、しかし最も危険な、龍言語魔法の収束だった。
「なっ……!? まだ、生きていたのか!」
トランスは、剣を杖代わりにして立ち上がろうとしたが、全身の筋肉がすでに限界を超えていた。間に合わない。
ブレスは、すでに臨界点に達している。
シルヴィスは、自らの剣をドラゴンの頭部に残したまま、全身に残った最後の魔力を身体強化に注ぎ込んだ。銀色の鎧が、一瞬、白く輝く。
「トランス、貴殿は生きろ!」
彼女は、その小柄な体躯からは想像もできないほどの速度で、ブレスの直撃圏内にいたトランスへ突進した。全身を使った体当たりで、トランスの巨体を突き飛ばす。
トランスは、背中のリーゼと共に、数メートル後方へ弾き飛ばされた。
直後、ブレスが放たれた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
深紅の奔流は、シルヴィスの下半身を直撃した。
鎧も、肉体も、すべてが蒸発する。彼女の体は、腰から下が完全に消滅していた。
「……が、はっ……」
シルヴィスは、上半身だけで地面に倒れ込んだ。
ブレスは、そのまま彼女の頭上で空を焼き尽くし、やがて収束した。
その音と光景が消えた後、静寂が訪れる。
ドラゴンの巨体は、一瞬の痙攣の後、完全に動きを止めた。その口から、深紅の魔力の残滓が、糸のように立ち上っている。
力尽きたのだ。
「シルヴィス!」
トランスは、弾き飛ばされた地面から、這うようにして立ち上がった。リーゼを背負ったまま、疲労を無視して、シルヴィスの元へ駆け寄る。
シルヴィスは、血と土にまみれ、上半身だけで横たわっていた。兜は衝撃で外れ、彼女の鎧は、腰部で断ち切られ、内側の皮膚は焼け爛れている。
「ぐふっ……がはっ……無事か……?」
彼女の口から零れたのは、トランスの安否を問う、騎士としての言葉だった。彼女の視線は、すでに焦点が合っていない。
「リリア! 子供たち!」
トランスの叫びに応じ、リリアと子供たちが、安全な場所から恐る恐る駆け寄ってきた。
「しっかりしろ! <ヒール>」
トランスは、全身の疲弊を無視し、シルヴィスの焼け焦げた傷口に手をかざした。ガンガンと頭痛が襲い、これ以上の魔力行使を咎めるが、トランスは残った魔力を絞り出す。澄み切った青い光が溢れ出し、まるで時間が逆行したかのように、傷口が塞がっていく。
しかし、失われた肉体は再生しない。これは、あくまで傷を癒す魔法であり、失われた血や体力を回復させるものではない。
「みんな! 渡したぬいぐるみを!」
リリアが、シスター服の裾を翻しながら叫んだ。彼女の顔は、涙と土でぐしゃぐしゃになっていたが、その声には強い意志が宿っている。
子供たちは、手に持っていた、リリアに付与魔法を施されたぬいぐるみを、シルヴィスの周りに並べ始めた。
「シルねぇ! しっかりしてよ! 死なないでよぉ……」
子供たちの嗚咽が響く。
トランスの治癒魔法と、ぬいぐるみに付与された回復効果が、シルヴィスの生命力をわずかに繋ぎ止める。延命。それ以上の効果はなかった。
シルヴィスは、かすかに微笑んだ。彼女の瞳には、かつて失っていたはずの、揺るぎない信念の光が宿っている。
「リリア……すまない、皆の事を任せた……」
彼女の口調は、いつもの硬質なものではなく、幼馴染に語りかけるような、穏やかなものだった。
「国の……為か……弱き……者の為か……中途……半端だった私も……最後に……騎士らしく……守……る為……本……望だ……」
途切れ途切れの、しかし確固たる言葉。
彼女は、自分が守るべきものを選び、そのために命を賭した。後悔は、微塵もなかった。
その時、後方から、重厚な足音が近づいてきた。
ゴルドだった。彼は、気絶していたルードと共に、戦いの結末を見届けていた。
ゴルドは、兜の奥から、静かに言葉を絞り出した。彼の尊大な口調は消え、ただ一人の騎士として、敬意を表していた。
「貴殿は誠に騎士であった……」
回復魔法の光が、ふっと消えた。それは、命の灯火が消えたことを意味する。
シルヴィスの顔には、安らかな、満足そうな表情が残されていた。長きにわたる苦悩から解放されたことを示しているようだった。
「シルねぇ……」
子供たちの泣き声が、悲痛に響き渡る。
リリアは、静かにシルヴィスの手を握った。
「こんな顔見たら…怒れないじゃないですか~……」
彼女ののんびりとした口調は、悲しみを隠すための、最後の防壁のようだった。
ゴルドは、重装の鎧を纏ったまま、その場に跪いた。
「すまん……」
彼は、自らが守れなかった騎士の誇りと、シルヴィスの純粋な信念に対し、心から謝罪した。
リリアは、静かに首を横に振った。
「シルヴィが望んだことですよ……彼女は、最後には、自分自身が信じる正義を選んだのですから」
ゴルドは、無言で立ち上がり、敬礼した。
近くで気絶から覚めたばかりのルードも、ドラゴンの恐怖で震えながらも、ゴルドに倣って敬礼する。
シルヴィスは、子供たちが並べたぬいぐるみに囲まれ、誇り高き騎士として、静かに眠りについた。
トランスは、涙を拭い、静かに彼女の目を閉じさせた。
「……安らかに眠れ、シルヴィス」
彼は、その場に留まることができなかった。
彼は、背中のリーゼを抱き直した。リーゼは、魔力消費による深い眠りの中で、わずかにトランスの鎧に頬を擦り付けている。その温もりが、トランスを現実に引き戻した。
トランスは、重い足を引きずりながら、まるで力尽きたかのように動かないサラと、サラへと必死に語りかけるトニーの元へと、静かに歩みを進めた。




