フォールンダウン
巨大なドラゴンの影が、トランスを捉えて離さない。
その動きは、先ほどまでの弄ぶような緩慢さを失い、急速に苛立ちを帯び始めていた。トランスが、自身の動きに慣れ、回避のタイミングを掴み始めていることを、ドラゴンは本能的に察知していたのだ。
「グアアアア!」
怒声が空気を震わせた。ドラゴンは、鋭角的な軌道で急降下し、その巨大な顎をトランスの頭上目掛けて振り下ろす。
トランスは一歩も引かなかった。恐怖で足が竦む衝動を、背後の温もり――リーゼの存在でねじ伏せる。
ガキン!
彼は剣を盾のように掲げ、顎をわずかに逸らす。その衝撃は、全身の関節を軋ませるほど強烈だったが、トランスは歯を食いしばり耐えた。
間髪入れずに、ドラゴンの右の爪が胴を薙ぎ払う。
トランスは上半身を深く折り曲げ、爪の先端が鎧を掠めるのを許した。火花が散り、古びた鉄色がさらに深く削られる。致命傷ではない。
だが、回避しきれない一撃が来た。
巨大な尾が、鞭のようにしなり、トランスの左側面から襲いかかる。この一撃は、鎧ごと騎士を粉砕する威力を持っていた。
「リーゼ、頼む」
トランスの声は、もはや震えていなかった。それは、自らの恐怖を認め、それでもなお、守るべきもののために戦い続ける騎士の、静かな決意を帯びていた。
その瞬間、背中の少女が、かすかに身動ぎした。翠色の瞳が、尾の軌道を正確に捉える。
「……<反転>」
リーゼの口から、か細く、しかし確かに、「声」が滲み出た。その響きは、微弱ながらも空間の法則を歪める異常な力を宿していた。
尾がトランスの鎧に触れる寸前、純白の生地に金の刺繍が施された慈悲のマントが、まるで意志を持ったかのように、尾と鎧の間に展開された。
ドォン!
凄まじい反動が、尾に沿って逆流する。マントに触れた尾の運動エネルギーが、そのままドラゴン自身へと跳ね返ったのだ。
「ゴアッ!?」
ドラゴンは、自身の一撃によってバランスを崩し、一瞬、その巨体が空中で停止した。
それは、トランスが待ち望んだ、ほんの刹那の機会だった。
「――<衝撃>!」
トランスは、獣王の牙となった真紅の剣を、ドラゴンの胴体へ向けて、地面と水平に突き出した。トリガーワードと共に、剣の切っ先から、森の主の突進を思わせる凄まじい衝撃波が放たれる。
衝撃は、反転で動きを止められたドラゴンの肋骨を直撃した。
キン、という軽い音ではない。重い岩盤が砕けるような、鈍く破壊的な音が響き渡る。
ドラゴンの強靭な鱗が、一箇所、亀甲のようにひび割れた。
「ガアアアァァ!?」
ドラゴンは、初めて受けた有効打に、困惑と激痛の咆哮を上げた。トランスは剣を滑らせ、ひび割れた部分を深く抉る。浅い傷。だが、確かに鱗の下の生身を傷つけた。
しかし、反撃の代償も大きかった。
衝撃の反動で、トランスの体は後方へ強く弾き飛ばされる。彼はリーゼを抱きかかえたまま、砂塵を巻き上げて地面を十数メートル転がった。古びた鎧の各部から、軋む音が響く。
トランスはすぐに立ち上がろうとしたが、全身の筋肉が悲鳴を上げ、思うように動かない。
満身創痍。それでも、彼は剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がった。背中のリーゼは、魔力消費のためか、再び深い眠りに落ちているようだった。
トランスは、傷つきながらも、諦めずにドラゴンを睨みつけた。
「……届くぞ、リーゼ。ドラゴンとて、無敵ではない」
彼の言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
人間ごときに傷つけられたドラゴンは、甚振る遊びを完全にやめた。その巨大な体躯を再び上空へと運び、高度を稼ぎながら、トランスたちを完全に射程圏内から外す。
「ゴオオオオオオオオオオオオオオ!」
ドラゴンは、翼を大きく広げた。その口内に、おぞましい魔力が収束し始める。深紅の光が、口の奥で脈動していた。
龍言語魔法の準備だ。
トランスは直感した。あれを直撃で受ければ、この場にいる全員が、蒸発する。
その時、トランスの視界の隅で、トニーが動いた。
トニーは、リリアから託された一本の矢を、慎重に弓に番えていた。彼の琥珀色の瞳は、遠くの獲物を仕留める狩人のそれに戻っている。軽薄さは消え失せ、辺境で生き抜いてきた者特有の集中力が、その全身を覆っていた。
「頼むぜ……ねぇさんの魔法は、たったの三秒だ」
トニーは、息を吸い込み、限界まで弓を引き絞った。風の音すら掻き消すような、研ぎ澄まされた集中。
ドラゴンは、ブレスの準備を完了させた。口内の光は、もはや抑えきれない臨界点に達している。
トランスの全身の毛穴が開き、皮膚が粟立つ。本能が、逃げろと叫んでいる。
だが、トランスは一歩も動かない。
**――今だ。**
トニーの指先から、矢が放たれた。
ヒュン!
空気抵抗を無視したかのような、超高速の飛翔。それは、ドラゴンの口からブレスが放たれる、コンマ数秒前の、最も無防備な瞬間を狙っていた。
矢は、ドラゴンの翼の付け根、鱗が薄く、血管が多く集まる場所、トランスの決死の一撃により出来た亀裂を正確に捉えた。
キン、という音すら立てず、矢は鱗を貫通し、微細な傷を残して肉に食い込む。
その瞬間、リリアの込めた麻痺付与魔法が発動した。
「ゴアアアアアアア――!?」
ドラゴンは、困惑の叫びを上げた。全身が、まるで巨大な電撃を受けたかのように硬直する。ブレスの収束も途中で乱れ、空中で完全に静止した。
リリアの付与魔法の持続時間は、わずか三秒。
時間は、待ってはくれない。
「へっ、驕り高ぶってるからそうなるんだよ!」
トニーが、緊張から解放されたかのように、軽口を叩いた。
そして、その場にいる誰もが息を飲む、圧倒的な魔力の奔流が解き放たれた。
サラが立っていた場所の地面が、魔力の圧力によって深く沈み込む。彼女の赤く変色した瞳は、もはや理性を宿していなかった。そこにいるのは、全てを支配する魔女だった。
露出度の高いローブの合間から、彼女の皮膚が炎のように赤く光っている。銀細工のペンダントは、限界を超えた魔力の奔流を前に、制御の役目を放棄し、ただ激しく振動しているだけだった。
「おらぁ!」
サラの口調は、尊大で攻撃的だった。彼女の魔力回路が、魔力で満たされ、人格を完全に上書きしている。
「トカゲはトカゲらしく這いつくばれ! 貴様のような下等生物が、空を飛ぶなど、一億年早い!」
彼女は杖を天に突き上げ、魔力を大地と空から吸い上げた。杖の先端に収束したのは、火、水、風、土――四大属性の魔力が、混沌とした渦を巻く、規格外のエネルギー塊だった。
「――<落ちろ! 堕ちろ! 墜ちろ!>」
彼女の叫びが、トリガーワードとなった。
超過魔法が、空中のドラゴンを、容赦なく襲った。
それは、特定の属性を持った攻撃魔法ではなかった。純粋な魔力の質量と、それを一箇所に集中させた圧倒的な重力操作の奔流だった。
ドラゴンは、麻痺による硬直から、まだ完全に解放されていない。その巨体に、この世界に存在し得ないほどの重力が、文字通り「降り注いだ」。
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
抵抗する間もなく、巨大な体が、鉛のように空から引きずり降ろされる。
鱗が擦れる音。骨が軋む音。そして、プライドを砕かれたドラゴンの、絶望的な咆哮。
たった一秒。麻痺が解ける前に、サラの魔法は仕事を終えた。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
大地が揺れた。轟音と砂塵が、視界を覆い尽くす。
六メートルを超える巨体が、地面に激突したのだ。
ブレスの収束は完全に途切れ、ドラゴンの体は、巨大なクレーターの中心で、血と土にまみれて横たわっていた。
サラは荒い息を吐きながら、杖を握りしめている。その瞳は赤く燃え盛ったままだ。
「……ふん。所詮、地を這う存在、か」
尊大に言い放ったその声は、魔力を使い果たしたことで、徐々に微弱になっていった。
しかし、その場にいる誰もが知っていた。ドラゴンは、まだ死んでいない。
緊張は、まだ、解けていなかった。




