共闘
巨大な深紅の影が、頭上を旋回する。
それはまるで、空を泳ぐ巨大なサメのようだった。翼の羽ばたきから生まれる風圧は、地面の砂塵を巻き上げ、トランスの古びた鎧に叩きつける。
トランスはリーゼを背中に担ぎ、胸の穴を晒すようにして、身を低く伏せた。
「……動くな、リーゼ」
彼の声は低く、恐怖によって微かに震えていたが、それはすぐに抑え込まれた。魔物に対する本能的な恐怖が全身を縛り付ける。だが、背中の温もり――リーゼの存在が、彼の足を地面に縫い付ける鎖を、かろうじて断ち切っていた。
ドラゴンは獲物を弄ぶかのように、地上にいる人間たちを見下ろしていた。その巨体は、わずかな動きで数十メートルを移動し、トランスの剣の間合いの外を保ち続けていた。
「くそっ、速すぎる!」
トニーが叫んだ。彼はすでに矢筒の中の矢を半数以上消費していたが、そのすべてが空を切るか、あるいはドラゴンの強靭な鱗に弾かれていた。
キン!
硬質な音が響き、トニーの放った渾身の一撃が、ドラゴンの腹部で火花を散らし、そのまま無力に地面に落ちる。
「駄目だ、全く刺さらねぇ! 鱗が硬すぎる!」
トニーは苛立ちに顔を歪ませながらも、次の矢を番える手を休めない。
サラもまた、額に汗を滲ませていた。彼女の周囲には、風魔力の粒子が微かに渦巻いている。
「ウィンドカッター!」
詠唱を終えるや否や、風の刃が瞬速で放たれた。それはドラゴンの尾を狙った精密な一撃だったが、彼女の攻撃が到達するコンマ数秒の間で、ドラゴンはすでにその場を離脱していた。風の刃は、虚しく空を切り裂き、遠くの岩盤に激突して砕けた。
「……速度が、合わない」
サラは悔しそうに唇を噛んだ。彼女の魔法は極めて高効率だが、暴走しないよう発動には調整時間が必要となる。このドラゴンの機動性に対して、彼女の魔法はまるで置き去りにされているようだった。
「このままでは、ジリ貧ですよ……」
彼女は形見の杖を、無意識に固く握りしめた。自分の欠点が、今はただ焦燥感を煽る。
その時、後方から、のんびりとした、しかし芯のある声が響いた。
「サラさん、トニーさん。少し、お話がありますぅ」
孤児院院長のリリアだった。彼女は、恐怖のあまり腰を抜かしている孤児たちを背後に庇いながら、トランスとドラゴンの激しい攻防を冷静に見つめていた。
リリアはトランスの背中にいるリーゼの、翠色の瞳に宿る強い意志を感じ取った。この戦いは、トランス一人のものではない。
「サラさんは、超過魔法を使えますか?」
リリアは、揺れるロザリオを握りしめながら、穏やかな笑顔を崩さずに問いかけた。
サラは一瞬、言葉を失った。超過魔法とは、魔力制御の安全弁を外し、限界以上の魔力を注ぎ込む、魔法使いにとって禁忌に近い技術だ。魔力暴走のリスクが格段に高まる。
「できます、が……」サラは声を絞り出した。「制御を失えば、何が起こるか分かりません。それに、先ほど申し上げた通り、当たらないと思います」
「当たりますよぉ」リリアは首を小さく傾げた。「当てるための準備をしましょう。トニーさん」
トニーは弓を構えたまま、警戒を緩めずに返事をした。
「なんだ、ねぇさん。俺っちの弓じゃ、硬すぎてどうしようもねぇぜ」
「刺さらなくてもいいんですぅ」リリアは言い切った。「トニーさんの矢に、麻痺効果の付与魔法を施します。翼を狙って、かすり傷でいい。一瞬、飛行を止められれば、それで十分」
トニーは目を見開いた。
「麻痺矢? そんな芸当、可能なんか?」
「ええ、私の付与魔法は、一時的なら強力な効果を付与できますぅ。ただし、ありったけの力を注ぎ込めば、矢が一本しか用意できません。トニーさんが絶対に外せない一撃を放てるか、が鍵ですよぉ」
トニーの琥珀色の瞳に、冒険心と責任感が宿った。
「へへ、言われなくても。俺っちが外すわけねぇだろ?」
リリアは次にサラに向き直った。
「麻痺効果でドラゴンの動きが止まった一瞬、サラさんの超過魔法で、確実に地面に叩き落としてください。地面に落ちれば、トランスさんとシルヴィスが動けます」
サラは躊躇した。超過魔法は、彼女の制御不安定という欠点を最大限に引き出す行為だ。魔力回路が追いつかず、必ず変貌する。周囲を巻き込む無差別な破壊者となりかねない。
「……属性の制御はできません。私は、誰かを傷つけるかもしれません」
彼女の真面目さが、その言葉に滲んでいた。
その時、銀色のフルプレートを纏ったシルヴィスが、一歩前に出た。彼女は言葉を発しない。ただ、トランスとドラゴンの激戦、そして怯える子供たちを静かに見つめた後、サラに向かって短く頷いた。
「このままでは全員死ぬしかない。地に落ちたら、私が必ず仕留めます。ご助力願えないだろうか」
シルヴィスは、己の役割を理解し、その責任を負うことを示した。
サラは、トランスの背中で、トランスの首筋に顔を埋めているリーゼの姿を見た。リーゼの瞳は、絶望とは無縁の、ただトランスへの絶対的な信頼と、生き抜くための強い光を宿している。
彼女たちの献身的な決意に触れ、サラの迷いが消えた。
「分かりました。やります。ですが、一発しか撃てません。機会は一度です。確実に仕留めてください」
リリアは「ありがとうございますぅ」と、まるで午後のティータイムのような和やかな口調で答え、トニーに近づいた。
トニーは矢筒から最も精巧な、細く研ぎ澄まされた一本の矢を選び出し、リリアに手渡した。
リリアは矢を受け取り、ロザリオを胸に当てて目を閉じた。彼女の指先から、淡い緑色の魔力が矢に流れ込んでいく。それは、物質に生命力を与えるかのような、繊細な魔法だった。
「付与魔法……完了ですぅ。効果時間は、おおよそ三秒。トニーさん、これに全てを賭けてください」
トニーは、魔法が宿った矢が発する微かな熱を感じながら、それを矢筒に戻さず、すぐに弓に番えた。
一方、サラは杖を地面に突き立てた。
「超過魔法……《オーバーマジック》」
彼女がトリガーワードを唱えた瞬間、銀細工のペンダントが激しく振動し、警告を発した。杖を伝って、大地から、そして彼女の魔力吸収体質によって空気中から、膨大な魔素が彼女の魔力回路に流れ込んでいく。
ローブの露出された部分から、皮膚が赤く熱を帯びるのが分かった。制御回路は悲鳴を上げている。脳裏に、魔女である母親の厳格な声が蘇った。
*『サラ。信頼できる人ができるまでは、決して魔力を限界まで使ってはならない。お前は、お前自身を制御できなくなる』*
信頼できる人。
サラは、激しい魔力の奔流の中で、トランスの背中を、そして彼に守られているリーゼの姿を幻視した。全身を錆と傷に覆われながらも、ただひたすらに、守るという信念のために動く騎士。
(あの人は……)
サラは、全身の細胞が燃え上がるような感覚に耐えながら、確信した。
(もし私が暴走しても、この騎士は、必ず私を止めてくれる)
それは、彼女がどれほど傲慢に、あるいは悲観的に豹変しようとも、トランスだけは、彼女の根底にある優しさと、騎士としての責務を理解し、救いの手を差し伸べるだろうという、根拠のない、しかし絶対的な信頼だった。
魔力が限界を超え、彼女の意識が属性の奔流に飲み込まれていく。炎の熱が、彼女の冷静な理性を焼き払っていく。
水色の瞳が、みるみるうちに鮮やかな赤へと変色した。
「ハァ……ハァ……」
荒い息遣い。口調が変わる。丁寧な敬語は消え去り、尊大な態度が顔を出す。
「空飛ぶトカゲ如き、叩き落としてやるよ」




